第12話 それは吠え、恐怖を植え付ける


「グォォォォォォオオオオオオオッ!」


 肉片と臓物渦巻く嵐の中心、満月の浮かぶ夜空に獣のような咆哮が轟く。それはあまりにも恐ろしく、聞いている者の心にかなりの恐怖を与えるだろう。

 だがその声の正体は獣ではなく、一人の少女から発せられるものであった。


「グガァァァァァアアアアアアアアッ!」


 体をのけぞらせ天へと吠えるリゼス。そんな彼女を取り巻くように、嵐とは別の強大な魔力が渦巻く。それは瞬く間に彼女の体に吸い込まれていくと、まるで体内でUターンでもしたかのように体中から黒い煙のようなものとなって噴き出す。


「グ、オ、ガ……ッ!」

「リ、ゼス……?」


 シーリは朧げな意識の中、血と臓物で作られた地獄のニオイとリゼスのおぞましい変化に困惑の色を浮かべその名を呼ぶ。だが、彼女が返事をすることはない。ただ、苦し気な声がリゼスの口から吐き出され続ける。


「グゥゥゥウウウッ……アァァァアアアアアアッ!」


 煙が濃くなるにつれてリゼスの姿を覆い隠す。その場にいる全員が動くことすらできずに、その光景を見ていることしかできない。


「なんなんだ……」


 数分もするとその煙は剥がれ落ちるように霧散していく。同時に嵐も収まり、ザァっとおぞましい色をした雨が降る。


 そうして、姿を現したのは――一体の強大な獣だった。


『グルルルルゥ』


 2メートルを優に超える体は闇に溶けそうなほどの漆黒の毛皮に覆われ、ギラリと鋭い牙の並んだその顔はオオカミのようだがそれよりもずっと獰猛で野性的な恐ろしい顔をしている。

 

『グォォォォォォォオオオオオオオオオンッ!』


 血まみれで人のように2本足で立つそれは、鋭いかぎ爪の生えた両腕を広げて天へと向かって吠える。


 それは産声と呼ぶにはあまりにも暴力的な声だ。


「……ひと、くい……だと……!?」


 ギラリとサファイア色の瞳が煌めく。ゆらりと大きな尻尾を揺らしたその獣が男を認識する。男が嫌な気配を感じる。シーリの体を突き飛ばした彼はすぐさま駆け出すが――獣は両足で大地を蹴って襲い掛かった。


『グラァァァッ!』


 一瞬で距離を詰めた獣は右腕を振り下ろす。男は咄嗟に躱そうとするが間に合わず左肩から先をその鋭い一撃によって斬り落とされる。鮮血と一緒に放物線を描いた片腕が地面へと落下すると、獣はそれを踏みつけた。

 グチャリと骨ごと砕かれたそれは、たとえ王国最高の治療魔法を用いたところで元通りにすることは不可能だろう。


「ぐぁぁぁぁっ!?」


 男は傷口を抑えながら後退する。いったい何が起こったんだ。目の前の化け物はなんなんだ。いくつもの、突然訪れた意味不明な現状をどうにか理解しようとするが混乱した頭ではいくら考えてもいい答えは出てこない。ただ、先ほどまで動けなかった少女が奇妙な行動をしたと思えば化け物になってしまったぐらいだ。


「おい! こんなのが出てくるなんて聞いてないぞ! どうなってんだ!」


 片腕を失った男は傷口を抑えながらもう一人の男へと檄を飛ばす。だが、視線を向けても当の男はすでにその場から逃走した後であった。


「おいおい、ウソだろ! 逃げるにしたって早すぎるだろうがッ!」


 吐き捨てるように叫ぶ男の声にピンと立った獣の耳が反応し、ゆっくりと顔を向ける。そのサファイアの瞳があまりにも無機質なことに気付いた彼は恐怖を浮かべる。


「なん、なんだ……人喰いにしても、サファイア級がなんでこんな力を……」


 男が身に纏った鎧は、かつて自身が騎士であったときに名のある鍛冶師に作ってもらった物で、ルビーならまだしも最下級であるサファイアごときが傷をつけられるものではない。加えて、念には念を入れて防護魔法もかけていたのにそれをあっさりとあの獣は破ったのだから困惑するのも無理はない。

 一体あれはなんだ。姿こそ人喰いと同じような物ではあるが、通常の人喰いとはおそらく違うのだろう。膂力りょりょくが違い過ぎる。纏う雰囲気だって違うのだから。


 多くの人喰いを殺してきた男だからこそわかる――あれは化け物だ。


「くっそ、ここは逃げるしかないか……っ」


 男は武器を捨てると、その足に風の魔力を纏わせる。そして、脱兎のごとく逃げ出そうとするが――そうするよりも早く、獣が凄まじい速度で男の背中へと飛び掛かり地面へと押し倒していた。


「ぐはっ」

『グルゥゥゥゥ』

「――ひっ」


 獣は不思議そうに男の顔を覗き込む。ギラリと光を反射した瞳が怪しく光る。男の頭はもう恐怖でいっぱいだった。逃げたい、殺さないでくれ。先ほどまでの威勢なんてみじんも残っていない。まるで、新米騎士のようにフルフルと震えることしかできなかった。

 

 その中でも、人としての生存本能が男を動かし。生きようと必死にもがく。


 だがもう逃げられない。


「やめ、ろ……」


 獣の顔がゆっくりと男へと近づく。そして、頭なんぞ丸呑みできるほどに大口を開く。ギラリと凶悪な牙の並んだ口内を見せびらかすようにした次の瞬間――獣は男の首から上を食いちぎる。

 あっと声を出す間もなく、男の体が一瞬痙攣した後、脱力する。男から顔を上げたソレはペッと男の首から上を地面へと吐き出すと、両腕を広げ喉を天へと向ける。


『グォォォォォォォオオオオオオオオオンッ!』


 獣がそうして勝どきを上げた時、その背中に矢が放たれる。だが、鋼よりもずっと強靭なその毛皮を貫くことはできず、カランと矢が地面へと落ちる。


『グルルルル?』


 獣が振り向く。

 するとそこには、10人ほどの盗賊の残党と思われる男たちが殺意の篭った目を向けていた。彼らは万が一、シーリたちが逃げた時に捕まえる役目を持っていた者たちだ。彼らは異変を感じ様子を見に来ており、獣が自分たちのリーダーである男を殺すところを見たのだ。

 敵意と殺意を向けるには十分。男たちはぎらぎらとその獣を睨む。その姿はまるで、オオカミの群れのようだ。


「てめぇ、よくも頭を……!」

「ぜってぇ許さねぇ!」

「殺せ!」


 おお! と男たちが勇ましい声と共に木陰から飛び出す。獣は背後にシーリがいることを確認すると、大きく息を吸って――


『グラァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!』


 凄まじいまでの咆哮を放つ。そうすれば、駆け出していた男たちの半数がその轟音によって鼓膜を負傷し耳から血を流しながら苦痛の声をあげる。残った半数は咄嗟に耳を塞いで何とかなったがそれでも音の衝撃に耐えた者はおらず、全員がその場で硬直してしまう。


 対策も何もしていないのだらか仕方ないのだろう。だがそれでも、その獣の前においてその行動は悪手以外の何物でもない。


 まず、一番手前にいた男へと近づいた獣は、片手で男の頭を掴みそのまま握り潰す。まるで、トマトでも潰したかのように、真っ赤な液体が飛び散り、男の体がびくりと痙攣、その後地面へと崩れ落ちる。獣はその男の体を踏み潰すと、呆気に取られていた男へと飛び掛かりすれ違いざまにその首をかぎ爪で切り落とす。

 ボトリと状況も理解できぬまま絶命した男の首が転がる。獣はそれを一瞥すると、まだ棒立ちしている男たちを見た。


「ば、ばけもの……」

「か、勝てるわけがない」


 たった二人。まだ人数は残っている。だがそれでも、男たちは自分たちでは到底敵わない存在を目の前にしていると理解するには十分すぎる。それほどまでに、その獣は圧倒的であった。

 理解してしまえば後は速い。隊長を殺された恨みなんぞ忘れて、男たちは悲鳴をあげながら逃げ出す。


 とはいっても、逃がすほどその獣は甘くない。


『グォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!』


 再び大きく息を吸ってからの咆哮。それは、先ほどよりもずっと大きく、背中を向けていたために対処することすらできない男たちの鼓膜はあっさりと破壊され、全員が耳から血を流してその場に膝をつく。

 獣はゆっくりと倒れる男たちへと近づく。その様子はまるでわざと怖がらせるかのように。


「や、やめろ……!」

「いやだ、こんなところで死にたくない!」

「あやまる、謝るから許してくれ」


 命乞いを始める彼らを獣は暫し見下ろしていたが、やがて飽きたように、一人ずつ、その頭を踏み潰していく。

 頭蓋骨の砕ける音、中身がぶちまけられる音、苦しげに呻く男たちの悲鳴。様々な音が静かなその場所に響き、濃い鉄のニオイと内臓の生臭い香りが広がっていく。獣はその匂いに包まれながら歓喜とも取れる声をあげた。






 あらかた殺し尽くした獣はぐるりと、思い出したようにシーリへと顔を向ける。


「……」


 一部始終を見ていたシーリ。これから自分がどうなるかなんて簡単に予想できる。だが、なぜかわからないが、獣が襲ってこないような気もしていた。

 そして、その予想はどうやら当たりそうだ。獣はシーリの近くでしゃがむと、その顔を覗き込む。口の端からタラリと血が垂れているからか、鉄のニオイが鼻を掠める。だが、そうするだけで、獣はその咢を開こうとはしない。


『……』


 じっと観察する獣は、シーリの胸に刺さったナイフへと視線を滑らせる。鎧を貫いてはいるが、幸運にも骨にぶつかってそれ以上刺さってはいないので致命傷と放っていない。とはいっても、痛いものは痛いし、少し回復したとはいえ魔力のほとんどがない状態のため動くことはできなかった。


『……』


 獣がおもむろに手を伸ばす。シーリは一瞬警戒したが、すぐにその判断は間違っていたと気付く。

 獣が喉を鳴らす。その音はまるでハープを奏でたような優しい音色。それと同時に、シーリの胸に刺さっていたナイフがひとりでに体から抜けていく。不思議と痛みはなかった。むしろ、痛みが引いていくようだ。


「まさか……傷を治してくれたのですか……?」

『グルル』


 その声が“そうだ”と言っているように聞こえた彼女はふっと表情を緩める。そして、そっと獣の顔に触れる。硬そうに思えたが案外その毛皮はフワフワとしていた。


「リゼス」

『――!』


 シーリが噛みしめるようにその名前を呼んだ時、獣は大きく目を見開く。ギラリとサファイア色の瞳が煌めく。その瞳は先ほどまで男たちへと向けていた野性的で凶暴な色はなく、ただただ今の言葉に酷く驚いているように見える。


 シーリは小さく息を吸ってから、獣の体を強く抱きしめる。矢を跳ね返すの毛皮はふわりと柔らかい。


「リゼス、戻ってきてください」


 そう静かに呼びかける。すると次の瞬間――獣の体が光り輝く。そして、雨によってこびりついた泥が流れ落ちるように、その姿が剥がれていく。


 数秒もせずして、獣の体が剥がれ落ちるとそこに、放心状態のリゼスの姿があった。


「リゼス」

「え、あ、わ、私は……」


 ゆっくりと覚醒しているリゼスはぼんやりとした様子でシーリを見ていたが、やがて意識がはっきりとしてくると、咄嗟に辺りを見回し、現状を確認する。そしてシーリから距離を取って自分の胸を強く両手で抑えた。


 あれだけ痛みを訴えていた心臓は何もなかったように落ち着いていた。

 

「わた、し……わたしは、なんて、ことを……っ!」


 リゼスはなんとなく覚えていた。それはまるで夢のように。だから、夢だったのかと思っていた。だが、周りを見て彼女は確信せざるを得なかった。

 人としてではなく人喰いとして人間を殺してしまったのだ。その事実に心臓が激しく波打ち、両手が震える。自分が人喰いだったということにも酷く驚いたが、それよりも人を殺してしまったことに対しての衝撃の方が強かった。


「わたし……は……ッ」


 呼吸がうまくできない。リゼスはゆるゆると顔を上げてシーリを見る。彼女は静かにこちらを見つめていた。その目が何を思って、なにを考えているのかは生憎リゼスにはわからない。だけど、その眼差しがどこまでも優しいことはなんとなくわかってしまった。わかってしまったゆえに分からなかった。


「わ、たしは……ひとを、ころして……わたしは、ひと、くいで……」


 ぽつりぽつりと懺悔するように言葉を紡ぐ。口に出すたびに、リゼスの心を先ほど自分がなったバケモノの爪で引き裂かれたようにズタズタになっていく。

 

「わたしは、わたしは人喰いです。化け物です」


 ズキリ、ズキリと心臓が苦しい。涙が勝手にその目から零れ落ちていく。きっと、シーリは失望したに違いない。なんたって人喰いが人間に化けていたんだから。

 悲しみと恐怖を感じると同時に、どうしようもない怒りがリゼスを包む。人喰いをあれほど憎んでいたのに、自分の正体は人喰いで、その力を使って人を殺してしまった自分自身へと。


「シーリ様、私は――」


 その時、シーリはリゼスの体を抱き寄せた。彼女の胸元に胸をうずめる形となったリゼスは反射的に逃げようとするが、彼女はそれを許さない。


「シーリ様、離してください! 私は人喰いです! このままでは貴女のことを殺してしまうかもしれません!」


 叫ぶように告げると、シーリは抱きしめる腕に一層の力を込める。まるで絶対に離してやらないというように。リゼスはその温度がどこまでも心地よくて、彼女は思わずこのままでと願ってしまいそうになる。


「リゼス」

「……ッ!」


 耳元でシーリが名前を呼ぶ。その音はあっさりとリゼスの心臓を掴んで離さない。


「――貴女は人喰いではありません」


 きっぱりとそう告げる。リゼスは顔を上げて彼女の顔を見る。その顔は笑顔だった。


「なん、で」

「貴女は確かに人を殺しました。ですが、貴女は人を食べていません」

「え……っ?」


 驚くリゼスの頬を優しく撫でながら、シーリは噛みしめるように「それに」と言葉を続ける。


「貴女は私を助けてくれました。まさか、人を殺したところは覚えていて、私を助けてくれたことは覚えてないなんて言わないでくださいね?」


 冗談めかしてそう言う彼女に、リゼスは口をつぐむ。

 確かになにか、回復系の魔法を使ったような気はしたが、それが彼女に向けてというのは少し信じられない。確かに言われてみれば彼女の胸に刺さっていたはずのナイフは地面に転がっていて、当の本人は血も流していないし元気そうだ。


「リゼス、貴女は人喰いではありませんよ。立派に戦って私を守ってくれたのですから」


 にこりとそう言われたリゼスは、その言葉を胸の中で噛みしめるのだった。


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