人喰いと少女

鮫トラ

第1話 心臓に爆弾を持つ少女


 いつも通り、平和な日々を過ごせると思っていた。いつも通りに、穏やかな日常に身を委ねて明日を待つのだと心から思っていた。明日も変わらない大好きな村で大好きな家族と笑い合うのだと。


 だが、日々の幸せという物は突然、思いもがけない形によって引き裂かれてしまうのだと、少女はこの日理解するだろう。


 いつもであれば、村には人々の変わらぬ日々の音が響いていたはずだった。


 だが、今日は違う――悲鳴と怒号という地獄の音が村中に轟いていた。


 武器を持った男たちの怒号はまるで獣のよう、逃げ惑う劈くような甲高い女子どもの悲鳴。力尽きながらも愛しき家族を逃がそうとする声。そんないくつもの声が響く中で、少女は目の前の光景から目を背けることができなかった。


 グチャリ、グチャリ。

 少女の前には巨大な黒い毛皮を持った一体の獣がいた。それは、父だったもの肩口にかぶりつき、強引に肉を引きちぎり喰らっていた。そんな獣の隣にはもうすでに骨と肉塊になった母だったものが転がっている。

 どうして、母だとわかったのか。それは、母がお気に入りだった父から送られたブレスレットを身に着けていたからである。


 人喰い――古来より存在する人を喰らう生き物である。その存在は全てに謎に包まれ、ただわかっていることはその瞳の色によって力の程度が分かるぐらい。

 少女は知らないが、今目の前にいるのは災厄級とも呼ばれるエメラルド色の瞳を持った人喰いだった。どうあがいても、少女に“死”以外の未来はない。


 べちゃりと人喰いの口からこぼれた肉片が床に落ちて跳ねる。


 あまりにも現実離れした光景に、少女はどうしたらよいかわからなかった。少し考えれば逃げなければという答えを導き出せるはずなのに、それすらできなかった。


――逃げろ!


 父の最後の言葉が何度も脳裏に再生される。せっかく答えをくれているのに、少女はあまりの衝撃にそれを答えと理解することができないためにその場から動くことができない。まるで、足に杭でも打たれてしまったかのようだ。

 家の外から悲鳴が響く。なんとか動く視線で家の外を見れば、ちょうど隣の家に住んでいる少女がルビー色の瞳を持った人喰いに押し倒され、頚椎をかみ砕かれるところであった。少し距離があるはずなのに、響く悲鳴を貫いて頚椎の砕ける音が耳に届く。


『……グルル』


 父を食べ終えたのか、人喰いはほとんど骨となったそれを投げ捨てる。まるで、ごみのように放られたそれは壁にぶつかってかろうじてくっついていた腕や首が外れてばらばらの方向へと転がっていく。

 のそりと父よりもはるかに大きな人喰いが緩慢な動きで振り向く。それはまるで、わざと恐怖感を掻き立てるように。

 ふわりと、人喰いが吐いた吐息が顔にかかる。それは吐き気を催すほどに邪悪な血のニオイだった。


 ああ、ここで死ぬんだ。痛いのは嫌だ。

 少女の脳に逃げるという答えの前にそんな思いが浮かぶ。そのおかげか、人喰いを前にしても恐怖心はなかった。

 宝石のようにきらめくエメラルド色の瞳に映る、何の感情も浮かべられない自分の顔を見た少女は思わず自嘲しそうになった。恐怖に慄くことも両親の死を前にして怒りに我を忘れることすらできないなんて。


 鋭い爪を振り上げ、人喰いが少女を見下ろしたその時、遠くの方で勇ましい声が聞こえたような気がした。そして同時に自分の胸に何かが突き刺さるような感覚に襲われた。



 ハッと目が覚める。目の前には見慣れた木目調の天井がある。ああ、またかと窓を見れば、外はまだ薄暗く、起床時間には少し早いようだ。

 少女ことリゼスは上体を起こして大きく伸びをした。あまり寝心地がいいとは言えないベッドで毎日寝ているためか、体からはバキバキと音が鳴る。まるで老人のようだ。

 立ち上がって首と肩を回して体のエンジンをかける。そうすれば、体は今日も一日働けるぞと言わんばかりに軽くなっていく。


「この騎士団に来てもう一年か……」


 不意に呟く。彼女は自分の住んでいた村から遠く離れた、この騎士団に雑用係として働いていた。毎日のように目の回るような忙しさに追われてはいても、毎朝同じ夢を見て起きる。それは、自分の村が一夜にして人喰いと呼ばれるバケモノに全て奪われた忌まわしき日のこと。

 小さかったとはいえ何もできずにいた時分の無力さを呪わなかった日はない。まぁ、たとえ当時戦う力があったとしても、小さな子どもが人喰いに立ち向かったところで簡単に食い殺されるのがオチである。

 ゆえに当時助けられたときは、幸運だと喜んでくれる人がいたが、彼女自身不幸以外の何物でもないと思う。なんせ、生き残っても結局、彼女が失ったものを思って戦うことはできないのだから。


「……はぁ」


 朝からこんな気持ちでどうする。リゼスは手で頬をパチンと叩くと痛みと共に頭の中がリセットされる。


「早く起きれたし、少し早めに仕事を始めるか」


 そう言って、リゼスは首から下げたエメラルド色のガラスでできたペンダントに触れる。これは昔、村から救ってくれた騎士から貰ったものである。肉食獣の牙の形を模したそれがきらりと光を反射し煌めく。すると、少しだけ強くなったような気分になる。だがそれだけで、何か起こるかといわれたら何も起こらない。




「今日はなんだったかな」


 雑用係の一日は騎士の使ったものを手入れし、騎士団内部の掃除や騎士たちの食事を用意したりとないようこそ簡単ではあるが、その実忙しすぎて一日という時間では足りないことが多い。

 今日の当番はなんだったか。壁に貼ったシフト表を見ると今日の担当は、訓練場の掃除のようだ。リゼスは僅かに顔を顰める。

 訓練場の掃除はかなり大変だ。掃除をしている間にも騎士たちが訓練に来るので、綺麗にした傍から汚れていく。騎士たちは頑張っているのだからそこに何か思うということは不敬以外の何物でもないだろう。


「よしっ、今日も一日頑張りますかっ!」


 小さく自分を鼓舞したリゼスは手早く準備を済ませると、部屋を後にするのだった。





「よぉ。今日も真面目にやってるだろうな」


 訓練場にて掃除道具を準備していると、背後から声がかかる。

 爆弾持ちとはリゼスの渾名だ。人喰いが村襲ったその日に負ったケガが原因で、騎士志望できたにもかかわらず、心臓が弱いという理由で雑用係となったのだ。

 そんな経緯はあっという間に騎士団に広がり、雑用係を自分たちよりも下に見ている騎士たちはリゼスを呼ぶとき決まってこの渾名を使うことが多かった。

 一瞬だけその顔にうんざりと言いたげな色を浮かべるが、すぐに気を取り直して振り向く。そこにはいつも、リゼスにちょっかいを出してくる青年騎士が二人、その顔に下卑た笑みを浮かべ腕を組んで立っていた。


「まったく、いいよなぁ。雑用係は命を張ることもせず、呑気に掃除して金がもらえるんだからな」

「まぁ、爆弾持ちはもともと戦うことすらできないけどな」


 明らかにバカにしたような口調の彼らに、リゼスは答えない。

 雑用係なんて騎士からすればただの便利な、召使ぐらいの認識なのだろう。入団したころからこんな扱いを受けているため、怒りや悲しみといった感情はもうあまり感じない。むしろ自分たちの代わりに憎き人喰い共をぶっ殺してくれる彼らには感謝をしているぐらいだ。それに、下手に反応すると彼らを喜ばせるか怒らせるかの二つしかない。ゆえに、できるだけ感情を見せないのが一番早くこの場を切り抜ける簡単な方法なのだ。


「仕事がありますので失礼します」


 一度深く頭を下げてから横を通り過ぎようとする。と、彼らは行く手を塞ぐ。


「おいおい、お前の憧れの騎士様がわざわざ声をかけてやってんだぞ? 頭下げて終わりか?」

「……すみません」

「ふんっ、これだから雑用係は礼儀がなっていないんだ。俺たちがお前らの代わりに人喰いをぶっ殺してやってんのに感謝の言葉はないのか? あ?」


 威圧的に見下ろす青年騎士。それはなかなかに迫力があったが、リゼスはもっと怖い体験を幼いころに経験しているので特に怯えた様子も見せず、もう一度頭を下げる。


「人喰いを殺してくれる騎士様にはいつも感謝しています」


 目の前に立っている二人の戦果は、正直多いとは言えないということをリゼスは知っている。だがそれでも、彼らが人喰いを殺してくれたという事実に変わりはない。心から感謝の言葉を述べれば、彼らは満足げに頷いてくる。


「最初からそう言った態度を取っていればいいものを。心臓がバカなら頭もバカなんだな」

「すみません」

「けっ、謝るしか能がねぇのかよ」


 バシンとリゼスの背を叩くと、彼らはガハハと笑いながら去って行く。


「はぁ、とんだ不幸だ」


 彼らが完全にいなくなったのを確認すると同時に、リゼスは大きく息を吐いた。

 せっかく、早起きをしたのに彼らのせいで結局いつも通りの時間になってしまった。だがいつまでも気落ちしている時間はない。

 なんせ、雑用係の一日は忙しいのだから。手に持った掃除道具を握り締めたリゼスは、気を取り直して掃除に取り掛かるのだった。







「……全然っ終わらない」


 時刻は午後3時。昼食も取らず訓練場の掃除をしていたリゼスは終わりそうにないそれに、暗い声を漏らす。訓練場の掃除が雑用係にとって一番の難関だと言っても過言ではない。

 なにせ、訓練場の汚れは通常の掃除道具では落ちない。特に魔法によってできた汚れはその魔法の使い手の技量によって使う労力がかなり変わってくるのだ。

 目の前の壁にべったりとついた汚れ。泥がこびりついたようなそこから、リゼスは土属性の魔法だろうかと考える。土属性の汚れには水属性の魔力を使うと落としやすくなる。


「……じゃあ、あれか」


 腰に下げたポーチから淡い水色の液体が入った小瓶を取り出す。それを手に持った雑巾に一滴垂らし、魔力を落とす作用のある洗剤も雑巾に垂らして馴染ませる。

 今使ったのは物質に属性を与える効果のある特殊な魔法薬だ。以前、雑用係にも友好的な魔法の得意な騎士に貰った物で、一滴垂らすだけで魔法薬の持つ属性に変化させることができるのだ。


 無事、淡い水色の光を帯びて水属性となった雑巾で汚れを拭きとる。と。こびりついたそれはあっという間に綺麗になっていく。

 よかった、まだ汚れが付いてからそこまで時間が経っていないようだ。リゼスはほっと安心する。

 魔法の汚れがしつこくなってしまう要因として、使用者の魔力の強さに加えて汚れが付いてからの経過時間も関係している。時間が経てばたつほどに、魔力は素材と深く結びつき属性付きの洗剤を使っても落ちづらくなってしまう。


「へぇ、うまく使ってくれているようで何よりだわ」

「――っ!?」


 突然真横から聞こえてきた声に、リゼスは飛び上がってその場から距離を取る。

 まったく気配を感じることができなかった。早鐘を撃つ心臓へ静まれ静まれと、手を当てながら犯人である人物をじっと見つめた。


「リノ様……私の心臓が止まったらどうするんですか」

「ふふっ、面白いジョークね。でもまぁ、止まったら私がすぐに動かしてあげるから安心してよ」

「安心できませんよっ!」


 リゼスがリノと呼んだ女性は楽しそうにカラカラと笑う。

 彼女はリノ・グレン。この騎士団で騎士としては珍しく、剣術ではなく魔法に長けている騎士であり、リゼスが先ほどまで使っていた魔法薬を作ってくれた人物でもあるのだ。


「いやぁ、まさか本当に掃除道具に使っているとは思っていなかったけど、効果は上々のようね」

「こんな使い方をして申し訳ありません」

「ううん、気にしなくていいの。私も実験としてリゼスに渡したわけけだし。でも、その様子なら実践にも使えそうかな」


 顎に手を当て、うんうんと満足げにリノは頷く。


「使っていて何か感じることはあった? かなり魔力は薄めてあるからいきなり爆発したりっていうことはないと思うけど」

「そうですね……」


 掃除の手を止めて、ポーチから水属性の魔法薬が入った小瓶を取り出し見つめる。


「私は掃除でしか使っていないので、不便と感じたことはありませんが……戦闘で使うとなった場合、属性が付与されるまでちょっと時間がかかるなと感じました」

「ふむ……」

「騎士はきっと、属性がすぐに付与されると思って使うでしょう。最初にタイムラグがあると伝えても戦闘中、この僅かな“差” は人喰いとの戦いにとって致命的となる可能性があります」


 通常であれば雑用係ごときにここまで意見されれば騎士として怒りを覚えてもいいはずだが、リノは特に気分を害した様子も見せず、むしろ感心したようにリゼスの話を真剣に聞いている。

 だから、リゼスも遠慮せず思ったことを伝える。もし、この意見が採用され改善されれば、いずれ戦場で本当に使われた時、リゼスはある意味で人喰いを倒したと胸を張れるだろうから。


「後は、この薬を混ぜることができればと思います」

「混ぜる……別属性を作るということね」

「はい、ありきたりではありますが、水と風で氷などに変化することができれば戦いの幅はかなり広がると思います。うまく使えば自分の使えない魔法も使用できると思いますし」

「うむうむ、参考にするとするわ。……リゼス、貴女にそれを渡してよかった。私一人じゃ気付かないこともあった思うから」


 優しい眼差しでそう言ったリノに、リゼスは恥ずかしさから両手を振る。


「そんなことありません。所詮は戦えない人間の意見です。きっと、実用してみればもっと違った意見が出てきますよ」

「そう卑屈にならないでよ。貴女には本当に感謝している。もし、よかったらまた私の実験に付き合ってくれる?」


 にこりと笑いかける彼女に、リゼスは曖昧に笑ってみせた。


 この時、リゼスは思いもしなかっただろう。まさか、その言葉をきっかけにすべてが変わっていくなど。


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