第33話 懐かしき穏やかな水面を見て


 眠気眼のままリゼスは朝食の香りに誘われるようにリビングへと顔を出す。そうすれば、朝食をテーブルに並べているニコリアと、ゆっくりとコーヒーを飲むオルガがリゼスに気付いて笑顔を向けた。


「おはよう、リゼス」

「おお、リゼスおはよう」

「おはようニコ姉さん、オルガ姉さん」


 まるで幼いころに戻ったような景色に、リゼスは無性に泣きたくなった。


「リゼス、寝ぐせが付いてるわよ」

「え? あ、ありがとう」


 ニコリアが手で梳くようにリゼスの髪を整える。優しい手つきは全く変わらない。オルガはリゼスを見ながら「まだまだ子どもだな」とカラカラと笑う。その様子にむくれつつも、やっぱり嬉しかった。

 気恥ずかしさに頬を赤く染めながら、リゼスは席に着く。ニコリアも向かいに腰を下ろして朝食が始まる。

 パンと分厚いベーコン。スクランブルエッグに鳥の出汁がたっぷり入った野菜スープ。騎士団の物よりもずっと上等な食事。でもそれが、この家では普通だった。暮らしこそ質素ではあったが、食事だけは一般家庭よりも少し豪華だった。

 以前に何故と聞けば、いつが最後の食事になるかわからないからとオルガは言った。騎士となってその言葉の意味がよくわかったリゼスは、よく噛んで食事を楽しんだ。

 やっぱり、この味が好きだ。心がほっこりとしていく。夢中で食べるリゼスを、二人はほほえましい物でも見るように見守っていた。





「リゼス、たまには手合わせをしてやろう」

「え……?」


 洗い終わった食器をしまっていると、テーブルに頬杖を突きながらオルガはそんなことを言った。リゼスは隣に立つニコリアが怒るのではとひやひやしながら横を伺う。と、予想外なことにニコリアは平然としたまま「いいんじゃない?」と言った。


「い、いいの?」

「体に負担がかからないように魔法の結界を張るから平気。ただ、過度に無理をしたり人狼の力なんてもの使ったらぶっ飛ばすから」


 にこりともせずそう言ったニコリアは部屋を出ていく。準備をしてくれるようだ。リゼスが呆気に取られていると、オルガはからからと笑う。


「驚いただろう」

「うん、すっごく。いつもだったらすっごい怒るのに……」

「今だって、アイツは手合わせって言っても武器を持ってほしくないとは思ってる」

「え、じゃあなんで」


 いつも、オルガと外に出ると暴れてくるとわかっているからか、ニコリアがいい顔をしたことは一度もない。だからこそ、先ほどの言葉の衝撃は強い。


「不器用なのさ。リゼスには元気に過ごしてほしいんだよ。だから、無理をするとわかっているお前が多少無理をしてもなんともないようにアイツは必死にお前のために魔法を創ったんだよ。……そんだけお前は私たちにとって大切な存在なんだよ。誰にも渡したくないぐらいに」

「……」


 鼻の奥がツンと痛んだ。視界が僅かにぼやけて、リゼスはごしごしと雑に腕で零れそうになる雫を拭う。オルガは優し気な眼差しを向ける。


「リゼス、私はお前に死んでほしくない。それは命っていう意味もあるし、心の意味でも言っている。きっと、お前がどっちの選択肢を取ってもどちらかは悲しむだろう。両方が喜ぶ選択肢はきっとない」

「オルガ姉さん……」


 フッとオルガの口元に微笑が浮かぶ。それはいつもの燃えるようなものではなく焚火のような優しい温かさが乗っている。


「そんな悩める若者にアドバイスをやろう。何になりたいか、よーく考えろ。ただの人間として変わらぬ水面を見ていたいのか、それとも……たとえ死のうと化け物となり果てようと人々を守るモノとなりたいのか」


 バシンとリゼスの背中を叩いたオルガ。その深紅の瞳はどこまでも優しく煌めいている。


「何度も言うようだが、私はお前に生きていて欲しいと思うと同時に、自分の信じる道を進んで欲しいと思っている。だから、後悔のない道を選べ」


 ポンと軽く頭を撫でていったオルガは部屋を後にする。一人残されたリゼスは拳を握り締める。


 おそらく、このままここで暮らしていくという選択が正解なのかもしれない。大好きな家族に囲まれ、変わらぬ穏やかな……それこそ波一つ立てない水面のような生活。それはこの世界で生きる人間の多くが求める道。

 対して、他人から見れば明らかに外れと思われるもう一つの道は茨の道だ。確実に自分は天寿を全うできない。その前に心臓の爆弾が破裂して終わりか、人狼から人喰いという化け物になり果て尊きあの方に首を刎ねられるか。どう考えてもこちらの道の方が生きられる時間は短い。


 ならば、選ぶ道は決まっていそうだ。ただ、であれば。


 リゼスは未来の自分を思い浮かべる。


「……私は」


 こぶしを握り締めたリゼスは深く息を吐くと、部屋を後にする。そんな彼女脳裏にはシーリの顔が浮かんでいた。





「じゃあ、結界は張ったから。限界を超えそうになったら気絶する仕組みになってるから気を付けて」


 地面に刻まれた魔法陣の具合を確かめたニコリアはそう素っ気なく言って、ベンチに座って魔導書を開く。何かあった時のために取り合ず近くにいてくれるようだ。リゼスは小さく苦笑を浮かべると、慣れ親しんだ支給品の剣を持ってオルガの向かいに立つ。


「こうやって剣を交えるのは久々だな」

「そうだね」

「どれくらい強くなったか楽しみだ」


 カラカラと笑ったオルガは腰に下げた剣を抜く。それは明らかに歴史的価値がありそうなほどに美しい装飾の施された片手剣。ギラリと煌めく銀色の刀身はいつ見ても普通の剣とは一線を画すほどの神々しさを持っていた。


「ねぇ、いつも思ってたんだけど、オルガ姉さんの剣ってさ普通に売ってないやつだよね? 創ってもらったの?」

「ん、これか? これはな……貰ったんだよ。大切な……大切な私の親友からな」


 その言葉は甘く重たい。親愛以外のもっと深い想いが乗った声にリゼスは面食らってしまう。いつも明るくてつかみどころがない彼女からは想像できないものだったから。ベンチに座っていたニコリアも思わず顔を上げてオルガを見る。そのロイヤルパープルの瞳に悲愴が浮かんでいることにリゼスは気付かない。


「昔な、私は騎士だったんだ」

「え!?」

「もう、そこはないんだけどな。そこで私はこれを貰ってずっと戦っていた」


 そこまで話したオルガはもういいだろうと言うように、剣の切っ先を向ける。オルガの得意とする炎の魔力を纏った剣は空気を歪ますほどの熱を放出しながらその刀身を緋色に染めていく。


「さて、と。じゃあ始めるか。準備ができたらかかってくるといい」


 その言葉の後、心臓を締め付けるほどの静寂と威圧がリゼスを襲った。それは全て、オルガから放たれた覇気によるものである。幼いころから、オルガはたとえ手合わせだとしても戦いのスイッチが入るとガラリと雰囲気を変える。それはまるで人が変わったように。

 騎士として過ごしてきたからこそ余計に彼女の強い闘気を感じとることのできたリゼスの頬を一筋の汗が伝う。それは顎を流れ地面へと落下する。


「……行きます!」


 ダンッ! と地面を蹴ってオルガへと迫る。そして、大きく斜めに剣を振り下ろす。オルガは半ステップで背後へと飛びながら剣でその一撃を受け止め、カツンと軽い力で弾く。

 弾かれた腕を上げたままリゼスは瞳を鋭くさせると、もう一方踏み込んでオルガの懐へと入る。そして、素早く手首を返して剣の切っ先を彼女の心臓目掛けて振り下ろす。


「ほぉ」


 オルガは感心しながらぐるりと踵を軸足に回転しながら躱し、リゼスの背後へと回り込む。一瞬で行われたそれにリゼスの背筋にゾクリとした冷たいものが走り抜ける。


「しま……っ!」

「いい動きだったが、まだまだだったな」


 がら空きとなっているリゼスの背部目掛けてオルガは熱気を放つ剣を振り下ろす。このままではいつも通りの敗北で終わってしまう。


「それは嫌だなっ!」


 垂直に振り下ろされるそれを肩越しに確認しながら、リゼスは急いで上半身を捻ってスレスレで躱す。熱気が皮膚を焼いたような痛みはあったが、何とか直撃を回避したリゼスは仰向けに転がるように動きながら急いでオルガから距離を取る。


「……驚いた」


 オルガはそう言って小さく唸る。リゼスに剣の才能があることはわかっていた。そしてそれが伸びるようにと戦い方から普段の鍛錬の仕方も教えた。だからみない間に成長しているだろうとは思っていたが……ソレはあまりにも予想外の成長であった。

 オルガの心臓に炎のように熱い血が流れ込む。その久しい感覚に思わずニヤリと獰猛な笑みが浮かぶ。


「随分といい経験が積めたみたいだな。動きが見違えるように洗練されている」

「うん。私に稽古をつけてくれた方がすっごく強い人だったんだ」

「そうかそうか、ソイツは一度手合わせしてみたいものだな」


 オルガの言葉にリゼスはまるで自分のことのように得意げになる。そんな様子を見せるリゼスに、オルガは軽く目を見開く。


「……外の世界はお前に様々なことを教えてくれたみたいだな」


 そう零したオルガは片手剣に魔力を流し、その刀身を一回り大きくさせると中段に構える。その深紅の瞳は炎のように揺れている。


「よし、もう少し本気を出そうとするか。リゼス、お前が成長したところもう少し見せてくれ」


 その言葉とほぼ同時に、大地を蹴って飛び上がったオルガは炎纏う剣を振り下ろした。








 地面に寝転がって綿菓子をちぎったような雲が走る夕焼け空を仰ぐリゼス。その体はオルガによってボコボコにされ青あざや軽い火傷のような傷がいくつも刻まれていた。

 あれから何時間も、リゼスとオルガは剣を交えた。それは昼食も忘れてこんな時間になるまで。リゼスが疲労で体はまだしばらく動きそうにないのに、オルガはさっさとどこかに行ってしまった。

 全く敵わない、とリゼスはため息を吐く。


「ボロボロの泥んこさん。そこで寝たら怒るわよ」


 ひょこっとリゼスを上から覗き込むニコリアはそう言ってから隣に腰を下ろす。上体を起こしたリゼスは疲れ切った笑みを零して「もう少し休んだら戻る」と言った。

 二人の間に静寂が流れる。遠くのほうで鳥の鳴く声が聞こえ、木々がそよそよと揺れる音がする。リゼスは沈んでいく夕日の眩しさに逃げるようにチラリと隣を伺う。


「今日の夜ご飯はオルガ特製のステーキよ」

「やった」

「リゼス、大好きだもんね」

「うん!」


 再び訪れる無言。リゼスは何度か口を開きかけては閉じるという行為をしたのち、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。それは謝罪の言葉だった。


「私ずっと謝りたかった。ニコ姉さんが心配して、いつも怒ってくれたのに……あんな風に飛び出して」

「……別に。私も言い過ぎたところあったから。……もう一度聞くけど、外はどうだった?」


 リゼスは彼女の横顔を見ながら答える。そのグレー色の瞳はキラキラと輝いている。


「いろんな新しい物を見つけられた。大切なものも見つかったんだ! ……辛いこともたくさんあったけど、それでも外を見てよかった。あの騎士団に入ってよかったと思ってるよ」


 ニコリアは一瞬目を見開くと、安堵するようにその瞳を細める。


「ニコ姉さん……私やっぱり、騎士として生きていたい。それで自分が死ぬかもしれないとしても、化け物になってしまうとしても……シーリ様と一緒に人々を守りたいんだ。あの人の隣で戦いたいんだ!」

「そう……」


 ニコリアは苦々し気に顔を歪める。


「それでも……それでもやっぱり……私は認められないわ。私は貴女に苦しんで欲しくない。戦ってほしくない。死んでほしくないの!」


 その叫びは普段の彼女からは想像できないほどの悲憤に満ちた声だった。思わず、リゼスはびくりと肩を跳ねさせる。


「初めて貴女を見た時、貴女は人喰いに右上半身を食いちぎられていた。一目見て助からないと思った。でもそれでも、オルガが必死に助けようとして……貴女自身が必死に生きようとしていた! だから、私は全力で助けたの! この言葉の意味が分かる? 貴女がいま言っていることは、今までのみんなの頑張りも自分の頑張りをも否定するようなものなのよ!」


 叫ぶような激情がリゼスの心臓を叩く。ニコリアはリゼスの両肩を掴み、その胸元に額を当てる。


「リゼス……お願い、私を置いていかないで。もう、置いていかれるのは嫌なの……っ」


 ポタリとニコリアの瞳から涙が落ちて、リゼスの胸元を濡らす。リゼスはグッと息を呑む。彼女にとってニコリアという存在は強い人で、泣いている姿なんて見たことがなかった。そんな彼女が泣いている。


「ニコ姉さん……」

「私は待つのも置いていかれるのも嫌なの。一人にしないでよ……」

「ニコ姉さん」


 ニコリアの体を強く抱きしめたリゼスは揺れそうになる心を叱咤しながら、それでも自分の意志を伝える。


「ありがとう。私を助けてくれて、私をここまで育ててくれて」


 腕の中で震えるニコリア。


「それでもやっぱり、私は戦う。あの人と一緒に、人々を守りたい。その果てがどうなっても、無様に死んでもそれでも私は一番近くであの人を支えたいんだ」


 リゼスが見た中で一番の騎士。それがシーリという少女だった。彼女はいつでも自分よりも守るべき人々を優先する。そこにどんな苦しみがあろうと人々を守るためその剣を振るう。

 それでもやはり、彼女は自分と同じただの少女である。人並に苦しんで悲しんで怒って笑う。そんな彼女を守りたいと思った。そんな彼女の隣で一緒に戦いたいと思った。


「あの小娘が好きなのね」

「うん、この世界で誰よりも」


 噛みしめるように答えるリゼス。その表情は実に幸せそうで、ニコリアはどう説得しても彼女がここにとどまるという選択肢を取ることがないことに気付くだろう。


 その時だった。


「リゼス!」


 少女の声が響く。その声にハッと目を開いたリゼスは声のした方へと顔を向け、


「まさか……シーリ様……?」


 驚愕に満ちた声を漏らした。

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