第41話 寝物語と真実の愛

 アレットは、公爵家の立派な正門を見上げながら尻込みしていた。


「勢いで、ここまで来てしまったけれど……」


 第一王女ヴィオレーヌを尋ねて訪れた首都治安警備部隊第七屯所で、アレットはやっと、子供の頃から願い続けてきたことを訴えることができた。

 だがやはり、王女でもバイエ家への制限を簡単に取り下げてくれるわけにはいかなかった。


(第一王子の病気のことを話せば、あるいはと、思ったのに)


 肝心な所で、邪魔が入ってしまった。

 市中警邏隊の制服を来た男が、ノックもなく突然闖入してきたのだ。


『リュカ! 公爵家の、ルシアンが……!』


 ルシアンという名に、王女は表情を一変させて兵舎から飛び出した。そのまま二人で馬を出して駆けていったということは、恐らくそのルシアンの元に行ったのだろう。

 そう思って、心当たりのあるオーリオル公爵邸に足を運んだのだが。


「なんだか、物々しいのは何かしら」


 正門から見える限りでも、あちこちに私兵らしき男たちの姿がある。どうやら、病気や何かではないようだ。

 だがこれで、王女がここにいる可能性は高まった。あとは、王女が出てくるのを待つだけ、だが。


『その魔女さんは、ずっと森の中で独りで待ってるの?』


 バイエ家にやっと生まれた待望の男児である末息子の、今にも泣きそうな声が度々蘇っては耳の中で反響する。


『そう、ねぇ。いつか王子様が、迎えにきてくれると思って、待ってるかもしれないわ』


 アレットはそう言って曖昧に笑ったが、そんな奇跡は起こらないと、もう知っていた。


(もう、諦めてって言った方が、いいのかしら)


 三人の子供が幼い頃、アレットは世間の子供たちが魔女の噂話で脅しつけられる代わりに、毎晩のように母から伝え聞いているバイエ家の秘密を聞かせていた。

 バイエ家の女たちだけに伝わる、魔女との因縁。魔女の本当の姿。同じように子供の頃から寝物語に聞かされていたアレットに刻まれた、魔女への憧憬と罪悪。

 最初は、一人で何とかしようと努力した。何度も一人でミュルミュールの森に出かけたし、様々な文献も読み漁った。当時の国王の甥だったラフォンと縁ができたのも、その過程でだった。


『今の婚約を、何としても破棄したいんだ。手を貸してくれるなら、君の望みのために、僕も力を貸すよ』


 ラフォンは、選王家からの支配に苦しむ母を見て育った。だから決して、選王家のーー特に権力を持つ選王家の娘とは結婚したくなかった。

 ソランジュは確かに自他に厳しく、容赦のない性格だったが、それでも特段嫌っていたわけではなかった。ただ、生まれが悪かった。

 だからアレットと協力して、婚約破棄しても周囲から邪魔されないように策を弄した。


『これは、私がやっと辿り着いた真実の愛なのです。たとえ相手がソランジュ様でも、これだけは譲れません』


 それがのちに本物の愛に変わるとは、宣言したアレット自身、思ってもみなかったけれど。


『私、魔女の封印を解きたいの。これは、願望とかじゃなくて、使命なのよ』


 ずっと、アレットはラフォンにそう言い続けてきた。

 けれど三十六歳になった今でも、その使命は果たされずにいた。ラフォン程の身分があっても、結局はどうにもならなかった。

 だからここ数年は、もうすっかり諦めていた。

 けれど。


『嫌だ……会いに行くんだ。でなきゃ、彼女があまりに可哀想だ……』


 数年前から、末息子のジュストはそう言ってはとても苦しそうに泣くのだ。その姿が酷く大人びて見え、とても子供の我が儘と叱ることはできなかった。

 喋るのも、文字を覚えるのも早かったジュスト。それまで子供らしい我が儘は一度も言ったことがなく、たまにこちらがどきりとするような顔をする。

 一時は、本当に自分の子供かと疑ったことさえある。

 けれど魔女のことで泣く姿だけは、疑いようもなく本物だった。だから、アレットは再び動き出した。

 枯れてしまった自分の夢を、息子の夢を、今一度叶えるために。


「……待っているだけでは、今までと同じじゃない」


 一人静かに、拳を握る。

 何の恨みも罪もないソランジュを追い落とすと決めた時も、アレットはその決意だけでやり遂げた。

 泣きじゃくる息子のために、出来ない道理のあるものか。


「じゃなきゃ、ソランジュ様に申し訳がないわ」

「呼んだかしら?」

「え?」


 突然声がかかり、アレットは驚いて振り返った。いつの間に背後まで来たのか、視線のすぐ先には美しく盛り上がった筋肉が見事な牝馬の前腕があった。


「違うわ。上よ」

「え?」


 言われて、馬上を探す。そこに横座りする女性を見つけて、アレットはぽかんと口を開けてしまった。


「あら、あなた、アレット・バイエではなくて?」

「ソ、ソランジュ、さま……?」


 信じられない、とアレットは極限まで目を見開いた。

 ソランジュは二十年前に首都から領地に送られ、その途中で消息を絶ったという話は有名だ。誰もが、死んだと――オーリオル公爵夫人に消されたのだと考えていた。

 だが、アレットが見間違えるはずはない。

 王家の血を示す美しい金髪、フェヨール家の淡褐色ヘーゼルの瞳、すっと通った鼻梁に、つんと尖った細い顎は、記憶の中の凛然と自分を見下すあの日と寸分違わない。

 ただ、白く美しかった肌は青白い血管が透け、頬はこけ、年を重ねたからというよりも、どこか病的な雰囲気がある。


(もしかして、消息不明としたのは、病気で療養されていたのを伏せておられたのかしら)


 だがそれを考えると、馬に乗っての登場は少々勇ましすぎる気もする。

 何故と更に疑問符が増えたところ、ソランジュが背後にいる人物を振り返った。


「ほら、シャーリー。これは面白い偶然ね。三人目よ」

「そのようですね」


 そう柔らかな苦笑で返したのは、ソランジュの後ろで手綱を握る女性だった。

 ソランジュよりも少し年配だろうか。白いワンピースは簡素なデザインだが、ソランジュの来ている服よりは明らかに質が良い。

 が、明らかに馬の扱いに慣れているようなのが妙だ。しかも肝心の馬具も、乗馬用というよりは馬車を牽く輓具ハーネスに見える。

 それに、三人目と言われた意味も不明だ。

 アレットは何から指摘したものか、まるで口が回らなかった。

 だが、対するソランジュは、アレットなど眼中にないようで。


「さぁ、行きましょう、シャーリー」

「えぇ。もう少し我慢してくださいね」


 馬上のまま、正門を進むよう促す。アレットは慌てて引き留めた。


「ま、待ってください! ソランジュ様は、その……戻ってこられたのですか?」


 ルシアンの件で、とまでは言えなかった。

 もし、ソランジュがルシアンの危急を知って戻ってきたのなら。それをオーリオル公爵が知った上でのこの警戒態勢ならば、このまま進むのは危険だ。

 だがソランジュは、疑問に答える前に、当然の問いをアレットに返してきた。


「あなたこそ、何故この家の前にいるのかしら」

「それは……その、王女様がこちらにいらしていると聞いて」

「王女?」


 聞き馴染みがないと、ソランジュが柳眉をひそめる。それから、何故か「ふふ」と笑った。


「あなた、相変わらず権力が好きなのね」

「それは……!」


 違う、と続けようとして、アレットは寸前で呑み込んだ。


(そうだわ。ソランジュ様の中でも、私はずっとあの時のまま……)


 目的のために婚約者ラフォンに近付き、真実の愛や運命などという言葉を弄して立場を奪った悪女。


(ソランジュ様だけが、愛ではないと見抜いていた)


 ラフォンがアレットに協力を求めるしかなかったのも、ソランジュの慧眼を恐れたからだとは、後で聞いた話だ。

 アレットは身を守るため、話を蒸し返した。


「ソランジュ様こそ、どうしてこちらに……」

「あら。自分の生家に戻ってくるのに大層な理由がいるのかしら」


 つんと顎を上げ、ソランジュが尊大に突っぱねる。


(かつて自分を貶めた相手に、本心を語るほど迂闊なひとではないものね)


 だからこそ、アレットとラフォンは様々な工作と根回しをして、全力で戦ったのだ。

 だが後悔はしないと決めたのに、ソランジュに憎まれている事実がアレットの呼吸を浅くする。

 アレットは俯きながら、静かに馬から離れた。

 その頭上に、ないはずの言葉の続きがかけられた。


「でも……そうね。あなたの言葉を借りるなら『やっと辿り着いた真実の愛』を譲らないために、というところかしら」

「――――」


 それは、かつてラフォンを奪うため、ソランジュに向けて放った渾身の嘘。嘘、だったはずの言葉。


『よくもその瞳で、そんな浅々しい言葉を吐けたものね。婚約者のいる男性を奪う悪行も、仰々しい言葉で麗々しく飾り立てれば美談になるとでも思っているのかしら』


 ソランジュはあの時、衆人環視も気にせず、そんな容赦のない言葉でアレットを否定した。

 ソランジュからすれば憎々しいだけの、或いは記憶に留める価値もない戯言だったはずだろうに。


(覚えて、いらっしゃったのね)


 胸が、ぼんやりと温かい。

 顔を上げれば、既に二人は庭園の間を進んでいた。

 アレットは足音も高くその後を追った。

 ソランジュは気付いているようだったが、追い返すことはしなかった。

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