第34話 誤解と無理解
床に這いつくばったまま沈黙した少年を、ベルトランは嘆息と共に一瞥した。
(成績優秀と聞いていたが、随分短絡的で幼稚だな)
初めて対面する孫に、少なからず期待を抱いていたらしいと、自身の愚かさを嘆く。
前妻との間に生まれたソランジュは、子供の頃から聡明だった。一を言えば十を察し、他者の心理を読むのが上手く、本心を隠すのが得意だった。常に言葉の駆け引きで優位を取り、決して不利益になる言動をしなかった。
亡き妻――前国王の第一王女フォスティーヌは、それをベルトランに似たのだと言った。だがベルトランからすれば、心の機微に敏感な所は実に妻に似たと思ったものだ。
だからこそ、ラフォンから婚約を破棄されたと聞いた時、俄かには信じられなかった。だがラフォンたちは世論を味方につけており、もしこれを覆そうものならば、フェヨール家もまたバイエ家の二の舞になることは目に見えていた。
当時、ベルトランは再婚して、生まれた嫡男ルシアンは三歳になっていた。ベルトランは一連の騒動をそれ以上大きくしないため、そして家の存続のため、ルシアンを取ることを――ソランジュを一番遠い領地へと送ることを決めた。
決めてしまえば、真実や調査など、そんなことにかかずらうことは無意味だった。
(あの時に、ソランジュへの期待も捨てたつもりだったが)
睨み付けるファビアンの顔つきはまだ中性的で、柔らかさがあって、ソランジュというよりもフォスティーヌに面影があった。
(……まだ十二歳だ。今から詰め込めば、十分間に合う)
ルシアンは凡才だった。努力は認めるが、他の選王家と渡り合うには、腹の底が浅すぎる。何より、ベルトランの血を引いていない可能性があることがまずかった。
いざ政争となった時、それを突かれて家の取り潰しになることだけは避けねばならなかった。
妻の不貞の証拠は、まだ見つからない。見つけてしまえば握り潰して妻を領地に押し込めて済ませられるのだが、まだ良い手はない。
だからこそ、次善の策としてファビアンの存在は重要だった。
ベルトランは小さく首を横に振ると、身を沈めていたソファから起き上がった。
そこに、声がかかった。
「……ひとまず、帰ります。母さまをそのままにしてきてしまったし」
従者のダントリクに腕を掴まれたままながら、ファビアンが立ち上がっていた。
焦点の合わない視線が、必死に思案を巡らせていることを知らせている。
(青いな)
ベルトランは、まじろぎもせず拒否した。
「ならぬ」
それは、単なる合理的判断でしかなかった。
だというのに、ファビアンはまるで仇敵を見るかのようにベルトランを睨み上げた。
「どうして……どうしてそこまで母さまを憎むんですか」
「……会話に齟齬があるな。儂がいつソランジュを憎いと言った?」
「薬を分けてくれなかったじゃないか!」
「薬? ……あぁ」
再び食って掛かろうとしたファビアンに、ベルトランは記憶を遡った。
もう十年近く前のことだ。ソランジュを娶ったという男が来て、病気だから薬が欲しいと言った。
だがベルトランは、あり得ないと面会すらしなかった。
仮にソランジュが結婚して、病気を得たとしても、あのソランジュが、一度自分を追い落とした相手に助けを求めるなど、あり得ない。夫が説得しても、決して許しはしないはずだ。
ソランジュには、相手が父親だろうと国王だろうと決して曲げない、厄介なほど強固な矜持があったから。
追い返したあとで事情も聞いたが、病名は分からず、ただの栄養不良だろうということで、追及もしなかった。部下を使って、現在の住み処を確認した程度だ。
大方、今まで恵まれた環境で生きてきたせいで、平民の暮らしに耐えられなかっただけだろう。
あの時は、ソランジュが直に訪ねて許しを請うのであれば、受け入れるのもやぶさかでないとも考えたが。
そんな日は、やはり訪れなかった。
「浅慮な者は、すぐに行動原理に私情を見る」
ベルトランは、煩わしさを感じながら言った。
選王家で最も人の心のない、堅蔵のオーリオル公爵。親が人の気持ちが分からないのに娘が分かるものかと、何度揶揄されたことか。
だがベルトランからしてみれば、非合理的な感情に振り回される方が、幾らも愚かに思える。
そして残念なことに、ファビアンもまたそんな連中の一人のようだった。
「私情? 私情に決まってる! 父さまは、公爵なら母さまの病気について分かるはずだって言ったのに、会いもしないで……!」
「病名はないと聞いている」
「そんなはずはない! 母さまは、きっとお祖母さまと同じ病気だろうって……それなのに……」
「…………なに?」
小さくなるファビアンの声に、ベルトランはここにきて初めて感情を揺さぶられた。
祖母――亡妻フォスティーヌが生まれながらにかかっていた病。
魔力が過剰供給され、循環が上手くいかずに生命にまで危険を及ぼすと考えられる、先天的な魔力循環不全症。かつては王族にとくに発症したと云われる、古い文献に名前が残るばかりの奇病だ。
フォスティーヌが死んだ二十七年前に、治療法を探すのを止めて以来、思考の底に追いやっていたものの一つ。
「同じとは、誰が言った」
今更に聞くことになったその病に、ずっと凍り付いていたばすの胸にさざ波が立つ。
だがその先を続ける前に、新たな客が公爵邸に現れた。
◆
ファビアンを手近な部屋に押し込めた後、ベルトランは玄関ホールに向かった。
そこにいたのは、従者を一人連れただけの、第一王女ヴィオレーヌだった。
「ルシアンの容態は」
ヴィオレーヌは、出迎えたベルトランが社交辞令を述べるのも待てぬように、開口一番そう尋ねた。
野蛮王女と揶揄されるほど奔放不羈で、他人に無関心で我が道を往く王女だが、友人の安否を心配するくらいの心根はあるらしい。
いつもは他人を――最近は特に男を見下している碧眼が、明らかに焦りで濁っている。
「一命は取り留めております」
「案内してくれ」
「女性に見せるものではありません」
「閣下には私がまともな女に見えるのか」
それは、いつものヴィオレーヌであれば嘲笑を伴う皮肉だったろう。けれどその端麗な顔に今あるのは、笑みではなく隠すことのない怒気だった。
「……こちらです」
ベルトランはヴィオレーヌの心中を測りかねたが、そこまで言われては先導するしかない。
ルシアンの眠る部屋へと向かいながら、ベルトランは従者の奇妙さに気が付いた。近衛隊ではなく、市中警邏隊の制服を着用している。
(また屯所にでもいたのか)
金髪に灰色の瞳の青年は、ベルトランに睨まれると臆するでもなく静かに一礼した。
ヴィオレーヌは子供の頃から、しょっちゅう市井に降りては、あちこちの訓練所を荒して回っているとも聞く。一人でうろつかれるくらいならば、手近な者を護衛に連れてきたのはまだましな判断と言えるだろう。
ベルトランは階段を上がると、治療用にしている客間を叩扉した。
「はい」
老いた男の声が返る。公爵家専属の主治医ワトーだ。
扉の前に立っていた衛士がドアに手を伸ばす。だがヴィオレーヌはそれも待てない様子で、従者を置いて部屋の中へと入っていった。
ワトーが、慌てて手を止めて頭を下げる。
「気遣いは無用だ。続けろ」
「は、はい」
ベッドの向こうにいた老主治医にそう告げて、ヴィオレーヌが手前側で膝をつく。その思わしげな視線の先には、まだ生きているのが不思議なほど青白い顔があった。
妻アメリーに似た尖った顎、高い鼻、下がった目尻と、今は隠れている榛色の瞳。唯一ベルトランに似た、嫌いな栗色の癖毛は、今は病人らしく頬のあちこちに張り付き、実に憐れに見えた。
「……手を、握っても?」
「え? それは、あの……」
突然の申し出に、老主治医がおろおろと視線を泳がす。名乗りはなくとも、ベルトランが直々に案内したことで、高貴な人間であることは察したのだろう。
ベルトランは話を逸らすため、簡単に事情を説明することにした。
「深夜、屋敷が寝静まった頃に、賊は侵入したようです。息子は腹を刺されたあと、目を覚まして応戦したと言っており、その時に賊は取り逃がしたようです」
「応戦? 人を呼ばずにか?」
「そのせいで、出血が酷くなったようだと」
「愚かな……」
ヴィオレーヌが静かに呟く。ベルトランも全く同意だった。
昨夜に賊が侵入することは分かっていた。厩舎の馬車を直すという名目で、力自慢の衛士を何人か回したのはベルトランの指示だ。予定通り、警備は薄手になった。
だが侵入したのは、暗殺の専門でもなければ、剛力の持ち主でもない。殺しが初めてで、正常な良心の呵責を持つ、ただの小娘だ。
どんなにお膳立てしても、相当な深手にまではならないことは目に見えていた。
だがそれを、武芸の心得もないルシアンが混乱して動き回ったせいで、最悪の状況になった。
ベルトランが寝室に駆け付けた時、ルシアンのベッドは血の海だった。シーツは無惨に切り裂かれ、花瓶は割れ、二人がかなり暴れたことが見て取れた。
「閣下は、ルシアンを救う気がおありか?」
「…………!」
今朝方のことを思い出していたベルトランは、突然の問いに不覚にも動揺した。それから、二人は旧知の中だったことを思い出す。
王女とルシアンを会わせたのは、国王が王女の我が儘ぶりに手を焼いていたからだ。王族として、女性として、自身の立場について客観的な理解を促すのに、ルシアンは丁度良い立場だった。
結婚相手ではなく、未来の王姉と選王家当主として、二人は互いに歩み寄るのは必須だったから。
(そうか。知らぬ間に、そこまでの仲になったか)
最初の印象は悪いようだったが、気付けば行動を共にする所を目にする機会も増えた。ルシアンが不安を打ち明けるくらいには、友誼も育ったらしい。
「無論にございます」
ベルトランは、丁寧に一礼した。
ヴィオレーヌの碧眼が、一度だけベルトランを見上げる。だが視線はすぐに下げられ、以降ヴィオレーヌは微動だにしなかった。
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