第45話 騙る母に語る母

 母シャーリーは、逃げた恋人が戻ってくると信じ、時を止めてしまったような女性だった。子供が成長する意味を受け入れられず、王弟テオフィルと出会った頃に戻ってしまっていた。

 だから、別館への監視が徐々に緩くなっても、母は父を探しに行く素振りすら見せなかった。

 その母が、なぜかオーリオル公爵邸にいる。

 しかも、かつての『悪役令嬢』こと、ジゼルの母であるソランジュとともに。

 何より意味が分からないのは。


「イザーク。どうしてそんな所で目上の方の首を締め上げていたの?」


 自分をきちんと我が子だと認識した上で、素行の悪さまでしっかり指摘してきたことだ。


「は、母上こそ、なんでこんな所に……」

「ちょうどこちらのソランジュ様が我が家の前でお休みになっていて、オーリオル公爵邸に御用があるというから、ご一緒させていただいたの」

「…………」


 分かりそうで、全く分からない説明だった。そもそも、何故ソランジュがエスピヴァン侯爵邸の前で休んでいるのかが分からない。


「まさか、俺に御用でしたか……?」


 まさかジゼルから何か聞いているかのと、恐る恐るソランジュに尋ねる。


「あなた、どちら様?」

「…………」


 ソランジュが、イザークを見上げながら見下した。

 イザークは、無理やり話題を変えた。


「では、こちらには伯父上もご一緒なのですか」


 ソランジュは公爵令嬢だが、今は貧乏な暮らしぶりだ。馬車など持っていない。

 だがここまで来るのに、足があったはずだ。

 マルスランならば、オーリオル公爵の実弟だし、ここに来る理由は十分ある。そこに同乗したのかと思ったのだが。


「まさか」


 朗らかに否定された。


「でも、ジュヌヴィエーヴとは一緒に来たわ」

「ジュヌヴィエーヴって……まさか、馬の?」

「えぇ。快く乗せてくれたわ」


 子供の頃にはしょっちゅうブラシをかけていた馬の顔がぼんっと脳裏に浮かぶ。だがあの馬は厩舎の中でも格段に美しく、いつも侯爵家の馬車を牽くのに使われていたはずだ。マルスランが貸すとは到底思えない。


「まさか……」


 無断で引っ張り出したのか、と言おうとした矢先、ソランジュが不思議そうに口を挟んだ。


「もしかして、ご子息はあなたのこと、ご存知ないの?」

「は?」


 なんだこの女、とイザークは眉間に皺を寄せた。逆ならともかく、息子が母のことを分からないなどあるものか。

 そう言おうとして。


「そうなの。息子もずっと騙していたから」

「な!?」


 ほほほと、母が無邪気に笑った。否、違う。邪気はたっぷりある。それを無垢そうな笑みで上書きしているだけだ。

 そう、初めて気付いた。


「男って、本当に愚かよね」

「話してぼろが出ると困りますし、昔はいつもどこでも監視の目がありましたから」

「でも、あなたの目を見れば、一目で分かったわ。懐かしさすら感じたほどよ」

「社交界は、言葉が巧みでないと生きていけませんからね」


 くすくすおほほと、壮齢の女性二人が和やかに笑い合っている。

 だがそれを見下すイザークは、愕然と言葉もなかった。


(だま……騙してたってなんだ!?)


 確かに、子供の頃では失言の危険もあったろう。だがこの年になってまで騙す必要など、絶対になかったはずだ。

 夫を待つだけの憐れな女だったはずの母が、途端に奸智術数に長けた悪女に見えてきた。

 隣に立つソランジュのせいだろうか。そうだ。きっとそうだ。

 などと決めつけていると、シャーリーが話を戻した。


「それで? イザークはどうしてそのお方をいじめていたの?」

「人聞きが悪いです、母上……。俺はただ、挙動が不審だったから話を聞こうと」


 言いながら、後ろを振り返る。

 老主治医が、そろぉりと逃げ出しているところだった。


「どこ行くつもりだ!」


 バッと腕を伸ばして襟首を引っ掴む。老主治医は再び老いた体をばたばたと動かしながら、必死に抵抗した。


「は、放してくださいっ。は、早くお嬢様をお連れしないと……!」

「だから、何を企んで――」


 いるのか、という詰問はしかし、突如響いた金切り声に掻き消された。


「ふざけないで!」




       ◆



 

「そこで何をしている」


 戻ってきたベルトランの声に、ファビアンに伸ばしていた手がぴたりと止まる。

 アメリーは、ソファーに座っていたファビアンを背中に隠すようにしながら、悠然とドアを振り返った。


「あなたのご自慢の孫を見にきただけのことですわ。あたなとわたくしの息子より、とっても出来が良いと窺ったものですから」

「……ならば用は済んだな。出ていきなさい」


 容赦のない嫌味をぶつけたというのに、相も変わらず、眉の一つも動かさない。説明も弁明もする気のないその態度に、アメリーは怒りを抑えようとしながらも声が荒らぐのを止めることができなかった。


「随分冷たく追い出すんですのね。もしや、わたくしがあなたの孫を害そうとしてるとでも思っているのかしら? あなたがわたくしたちの息子をそうしたように」

「ルシアンは死なない」

「死なずとも、起き上がれなくなれば同じことだと思っているのでしょう!」


 淡々と返され、アメリーはついにヒステリックな叫び声を上げていた。

 ベルトランが、後妻であるアメリーの不貞を疑っていることは承知している。一時期は夫に内緒で市街を出歩くことも多く、疑われるような行動をしていた自覚はある。

 だがその責任を取るべきはやはりアメリーであり、決して息子のルシアンではない。

 だというのに、ベルトランは動いた。何の確証もないまま、家を守るという名目のために、昔のように。


「あなたが仕向けたということは、最初から分かっているのよ。わたくしを疑うだけならまだしも、実の息子を、殺そうとするなんて……!」

「……ルシアンは賊に襲われたのだ。目撃証言から、犯人の特定も進んでいる」

「目撃?」


 ハッと、アメリーはつまらない冗談でも聞いたように吐き捨てた。


「目撃だなんて、白々しい。犯人だって、あなたがそうするように脅しただけのことでしょう」

「脅す? 何故儂がそんなことをする必要がある」

「ふざけないで!」


 真顔でとぼける夫に、アメリーは堪らず手を振り上げていた。だがそれは、ベルトランについて戻ってきていた護衛に呆気なく止められた。

 だがアメリーは、夫を憎々しげに睨み上げるのをやめなかった。

 ベルトランの、感情と同じくらい淡泊な瞳が、駄々っ子を咎めるように僅かに細められる。


「お前は、フォスティーヌを嫌っていたのではないか」

「何故そこでフォスティーヌ様が出てくるの?」

「…………」


 突然の故人の名に、アメリーは眉間に皺を寄せた。返る沈黙に、嫌な予感がすると思いながら、正直な気持ちを白状する。


「わたくしが嫌っていたのは、フォスティーヌ様をいつまでも忘れないあなたよ」

「……そうか」

「『そうか』? 『そうか』ですって?」


 ずっと隠してきた気持ちをたったの一言で片付けられ、アメリーはついに泣き笑いのように捲し立てた。


「あなたは最初から何も知らない。嫁いですぐ、わたくしがソランジュに何をしていたかも。あなたがわたくしを見向きもしない間、わたくしがこの家でなんと言われていたかも!」


 ずっと、言うまいと決めていた言葉が次から次へと溢れてくる。

 ベルトランが再婚に乗り気でないことは、最初から知っていた。フォスティーヌを喪い、周りの進めるままにアメリーと結婚したに過ぎない。

 だがアメリーは、一目惚れだった。七歳も年上なのに、その悲しそうな顔が子供のようで、目が離せなかった。

 けれど結婚したベルトランは、一度もアメリーを見てくれなかった。

 そしてそれは、ソランジュへ対しても似たようなものだった。


 まだ九歳だったソランジュには、母親が必要だった。母親ではなくとも、その喪失を慰め、共有し、抱きしめてくれる者がそばにいるべきだった。

 だからアメリーは、ソランジュに何度も話しかけた。一緒にお茶をし、散歩をし、学校での話を聞いた。ベルトランには内緒で、度々甘い菓子などを食べに出掛けた。

 だが足繁くソランジュの元を尋ねれば、取り入ろうとしていると陰口を叩かれた。それを聞いたソランジュは、再び心を閉ざしてしまった。

 その時に弟のマルスランが相談に乗ってくれたが、価値のあった情報は一つだけ。ベルトランがソランジュを避ける理由だった。


『妻が死んだのは、娘のせいだと思っているんだ。だからいまだに娘を許せないんだろう』


 それを聞いた時、アメリーはベルトランの本心を知らねばならないと思った。

 ソランジュと違い、ベルトランとは死が分かつまで共にいるつもりでいたから、まだこれからゆっくりと歩み寄ればいいと思っていた。

 だが悲しみが薄れるのを待っていては、父娘の仲はすれ違ったままだ。多感な時期のソランジュのためにも、アメリーは一刻も早く二人の仲を元に戻したかった。

 そのためにも、二人の子供がいるべきだと、思ったのに。


「ルシアンが生まれた時、どんなに嬉しかったかも……知ろうともしなかったじゃない。フォスティーヌ様の喪失に、いつまでも心を痛めて……」


 夫の前では決して泣くまいと、アメリーは決めていた。

 愛が、自分を見るまでは。

 けれど悔しさで、視界が滲みそうだった。

 結局こんな状況になるまで何もできないまま、また二十年前と同じ過ちを繰り返そうとしている。


「自分の子供を殺されそうになって、それでも黙っている母親など、母親ではないわ……。わたくしは、二度とそんな愚かな過ちは犯さないと誓ったのよ」


 泣くな、俯くなと、アメリーは自分に言い聞かせた。

 毅然と、ベルトランを睨み続けなければならない。そうしなければ、この頑なな夫は、自分を見てもくれないから。


(けれど、もう限界かもしれないわ)


 ルシアンを失えば、もう耐えることも、許すこともできそうにない。

 心の糸が、ぷつりと切れそうだった。

 その声を聞くまでは。


「あれは過ちなどではなくてよ、お母様」


 懐かしい声がして、ふるふると声のした方へ視線を移す。

 開かれたドアの向こうに、悠然と笑みを浮かべた女性が一人、毅然と美しく立っていた。

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