第44話 いい子のいい子

 卑しい笑みを浮かべた男の顔は骨張り、落ちくぼんだ眼窩はぎょろりと大きく、額には薄い眉にかかる二本の古い切り傷がある。


(道理で、顔を隠すわけね)


 ある程度の経歴や技能があれば、貴族の私兵として雇われ、護衛の際には顔を出すこともある。あまりに人相が悪ければ、顔を出さない汚れ仕事が多くなるのは必然だろう。

 ジゼルは腰に提げた短剣の柄に手をかけながら、逃走経路を目の端で確認した。


(前は、ダメ。後ろは……ジュストと反対に行かなきゃ)


 三人の男たちが現れた向こう側は、木々が開け、視界も明るい。逃げてもすぐに捕まるだろう。今はまだ、森の奥に逃げた方が可能性はある。

 だがその考えは、あまりに甘いと言わざるを得ないようだった。


「しかし、追い込む手間が省けたな」


 使い込まれて手垢のついた長剣を引き抜きながら、男が笑う。

 会話をしたくはなかったが、聞き出さなければ対策も立てられない。ジゼルはじりじりと後ろに下がりながら口を開いた。


「どういうこと?」

「ここなら、魔獣に喰い殺されたってことで済ませられるだろ?」


 名案だとでも言いたげに、男が笑う。それに同調して二人の男も笑いながら、ジゼルの左右を固めるように展開する。

 それを顔を動かさずに確認しながらも、ジゼルは怒りで思考が鈍らないようにするので必死だった。


「やっぱり、最初から殺すつもりだったんじゃない」

「最初から親切にも言ってやってただろ。揉み消せるって」

「……ッ」


 剣先をジゼルに向けてひらひらと揺らしながら、愚か者を見るように顎を上げる。

 今にも怒りで斬りかかりそうだった。だがそれでは、この胸糞悪い男との会話が無意味になる。

 ジゼルはどうにか会話を続けた。


「……なんで、私を殺すの。ルシアンが死んだら、それで満足なんじゃないの」

「公爵家の嫡男を殺した罪で、お前が死ぬ。貴族殺しは家族も連座だ。そこにお優しい公爵サマが現れて、娘と孫息子だけは助ける。感動の和解だ。一人殺すだけで八方丸く収まる、良い案だろ?」

「な……!」


 まるで効率の良いゴミの片付けを自慢するような口振りに、ジゼルは声も出なかった。

 ルシアンが自分の子ではないかもしれないから、孫のファビアンを養子にしたいという理由は、まだ分かる。

 ルシアンは王女と結ばれることも出来るし、ファビアンは選択肢が広がる。二人のためになるなら、そんな未来もいいと思った。


(だから、決断したのに!)


 オーリオル公爵は初めから娘と孫を取り戻すためにジゼルを利用し、二人を脅す道具にするもりだったのだ。


「なんでそんな!」

「邪魔だからに決まってんだろ?」


 自明の理だとでも言うように、男が片眉を上げる。それ以外に理由などないかのように。


「お前は、いるだけで邪魔なんだよ」

「――――」


 その言葉を合図にするように、左右の男たちが走り出す。一瞬地面に縫い付けられていた足を、ジゼルは本能的な危機意識だけだ動かしていた。


(短剣一本じゃ、到底無理……!)


 数で負け、力で負け、武器で負けている。

 斬りかかってもすぐに劣勢になるのは火を見るよりも明らかだった。今は逃げるしかない。

 その背に、野太い男たちの怒号が降りかかる。


「待てこら!」

「殺せ殺せ! 死んで構わん!」


 そこから、再び暗い森へ向かっての逃走が始まった。戻ってきた道をなぞるように、張り出した根を飛び越え、下草を薙ぎ倒し、奥へ奥へと進む。

 銀の蝶が舞い、衣食虫ツィブリが横切り、鳴鳴蝉テッティクスがキンキン声で喚き散らしても、最早見惚れることも怯えることもなかった。

 頭の中にあるのは、殺される恐怖と、それを上回る虚無感だった。


(なんで……なんでこうなるのっ)


 家族のためと、いつも自分を後回しにしてがんむしゃらに頑張ってきた。

 母がまた元気になるように。

 弟が好きなことをできるように。

 でもそんなのは言い訳に過ぎないと、本当は気付いていた。

 ジゼルには、父のような夢も、弟のような才能もないから。

 家族のために頑張る以外にできることなどなかった。だから、きっと無意識に、家族が自分を頼ってくれることに喜びを感じていた。

 ルシアンを殺せと言われて引き受けたのも、家族とこれからもずっと一緒にいるためだった。


 けれど、ジゼルは相談しなかった。

 心配をかけたくないというのは本音だったが、それ以上に知りたくなかったのだ。

 もし二人が、今よりも良い暮らしを望んだら。

 もしオーリオル公爵が援助を申し出たら。

 それで、二人が元気に、幸せになってしまったら。

 ジゼルが今まで頑張ってきたことには、何の意味もないことになる。


(私には、最初から何にもないのに……っ)


 最初から、快く二人を送り出して、父と二人で旅に出れば良かったのだろうか。

 そうすれば、少なくとも父は失わずに済んだはずだ。


(私が、臆病者なばっかりに……!)


 もう、何も残らない。必死に逃げたって、何も。


――……無駄なのよ、何をしても


 ハァッハァッという自分の荒い息と枝を踏みしだく音が響く中、不意に女の声がした。

 思わず足を止めて周囲を振り返る。だが、誰もいない。


「どこ行った!?」

「あっちだ!」

「これ以上奥に行かせるな!」


 男たちの怒号が、幹に反響してあちこちから聞こえる。そろそろ方向感覚が分からなくなってきた。

 だが、前に進むしか道はない。

 そしてその先には、常に女の声が付きまとった。


――どんなに進んでも、行き着く先には誰もいない


 走っても走っても、女の声が振りきれない。


――生きていきも意味がない……ずっとそうだったわ

(ちがう……!)

――どこへ行っても嫌われる。私自身ではなく、私の生まれのせいで

(やめて……やめて!)

――どうして私だけ我慢するの? どうして私だけ疎まれるの?

(そんなことない……! 私は……ッ)


 昼だというのに目を覚ました悪夢に、ジゼルは頭が焼き切れそうだった。

 何度否定しても、現実から目を逸らしても、突きつけられる。


――どうして誰も、私自身を見てくれないの?


 ずっと気付かないふりをして押さえつけてきた、醜い感情を。


『ジゼル』


 初めてイザークが名前を呼んでくれた声が、胸の奥底で蘇る。


『ありがとう。今日もよく眠れた。また、今夜』


 真っ直ぐにジゼルを見つめて、少しだけ照れ臭そうな、けれど何の計略もない純粋なお礼を向けられて、本当はすごくうれしかった。

 悪役令嬢の娘でもなく、家族のために頑張っている姉でもなく、ただ寄り添うだけで、ジゼルの価値を認めてくれたことに。


(でも、違った)


 それもまた、ジゼルのせいだった。

 ジゼルが父の言いつけを破り、魔獣を逃がしたから。その犠牲になって傷付いた兄妹が、今もなお眠れないと苦しんでいる。

 或いはその苦しみは、ジゼルこそが受けるべきものだったのに。


(私は、一人だけ助かって……)


 腕輪をイザークに渡した後、すぐに気が付いた。

 考えすぎて眠れなくて、それでもやってくる睡魔と共に聞こえる声。

 喘ぐような、嘆くような、呪うような、女の声。

 あぁ、これが呪いだと。

 九年前のあの日、ジゼルが父から腕輪を貰ったことで逃れていた魔女の呪いを、ずっとイザークに押し付けていたのだと。

 そして、何より。


(必要だったのは、私じゃない――)


 イザークも、既に気付いているだろう。腕輪があることで、悪夢が来ないことを。

 そうすれば、ジゼルにもう用はない。もう会う必要がない。

 あの大きく温かな手が、優しく触れてくることは、もう二度とないのだ。


――……捨てられたのよ。もうあの人は、迎えには来てくれない

「やめてッ!!」


 ジゼルはついに絶叫していた。真っ暗な森の中で、拳を握りしめ、鋭く肌を裂く草を震える足で踏みにじる。

 涙で霞んだように、視界が歪む。息が熱い。頭が箍を締められたように痛む。

 何より心が、悲鳴を上げていた。


(こんなことになるから、ずっと、見ないふりをしてきたのに……)


 いい子でいるのが楽だった。誰からも嫌われないから。

 いい子でいるのが辛かった。誰にも本音をぶつけられないから。

 だからって、すぐに自分を晒しながら好き勝手になんて生きられない。

 こんな風に、心を引き裂かれながら生きるのは、とても耐えがたいから。


「いたぞ!」


 遠く、否、すぐ近くに、男たちの声がする。がさがさと、乱暴に草を踏み分ける音が近付く。

 逃げるべきなのに、足が、もう動かなかった。

 短剣を強く握り直す。覚悟は一向に決まらないのに、父の声が蘇る。


『握りは、いつも柔らかく持て。力を込めるのは一瞬――生き方と一緒だな』


 記憶の中でガハハッと笑う父に、ジゼルは泣き笑いのように謝った。


(ごめん、父さま。やっぱり、上手くできないや)


 腰を低く、周囲の草むらに隠れるように構える。薄暗い森に目を凝らし、音に耳を澄ます。

 ザッザッと騒々しい足音のリズムが、一瞬揺らぐ。切り払われる草の悲鳴が、半歩向こうで止む。

 その空白に合わせて、ジゼルは短剣を逆手に持ち替えて振り上げた。


 ギギンッ!


 鋼がぶつかる鈍い音がすぐ鼻先で響く。男が振り下ろした長剣の刃先が、ジゼルのすぐ額に迫っていた。


「よく防いだな。だがその非力で、どこまで持ちこたえるかな?」

「ッ」


 ギギギ、と鋼が擦れる音が耳障りに鳴る。上背で負けるジゼルは、既に押し負け始めていた。

 必死に押し返すジゼルを鼻で嗤って、男が更に力を込める――その刹那、地面すれすれに屈んで横に退きつつ、男の脇腹に一閃を突き入れた。


「なっ!?」


 流した長剣が地面にめり込み、男が大袈裟によろめく。その背中めがけて、ジゼルは渾身の力で短剣を突き入れた――はずだった。


「……な、ん……?」


 見下す自分の横腹から、血塗れの剣先が突き出ている。体の中を、冷たい鋼が貫通している感覚が、刹那に脊髄を伝って脳に届く。

 状況を理解する前に、ジゼルはその場に倒れていた。


「手こずらせやがって」


 ジゼルの横腹を背後から刺した男が、上がった息を整えながらずるりと剣を引き抜く。その脇で、脇腹を斬られた男が、憎々しげに立ち上がってジゼルを見下した。


「よくもやってくれたな」

「…………」


 それを霞む視界で捉えながら、ジゼルはゆっくりと意識を手放した。

 最後に聞こえたのは、ヒュンと剣が風を切る音と、


――……バカなわたし……


 酷く寂しそうな、女の声だった。

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