第43話 怒れる継母と老医師の後悔

 来客を告げられたベルトランは、ファビアンをまた違う部屋に閉じ込めたあと、何も言わず去っていった。

 ファビアンは水色地に金色の蔓草模様があしらわれた豪華な壁の装飾や、中央に置かれたアラベスク文様が浮き彫りにされた立派なマントルピースには目もくれず、いつでもソファーから立ち上がれるように構えていた。

 拘束などはされていないが、入口には護衛らしきいかつい男が立っている。ファビアンが少し身じろぎするだけで声をかけられる。


(母さま、大丈夫かな)


 すぐ戻ると言って出てきたから、母が安静にしているかが心配だ。母は病弱なため動き回ることは少ないが、決して受動的な性格ではない。

 何より、姉がいない時に家族を守るのはファビアンの役目なのだ。それを、こんな下らないことで放棄するわけにはいかない。


「あの……一度帰してもらえませんか」

「できかねます」

「母を残してきたんです。心配なので」

「できかねます」

「すぐに戻ってきますから」

「できかねます」

「…………」


 先程から何度か試みているが、万事がこの調子だった。

 一度ならず扉から出ようとしたが、呆気なく転がされた。


(父さまに、ぼくも少しは習えば良かった……)


 父は物心つく頃には不在にする時間の方が長かったが、それでも戻ってきた時には、剣を握ってみるかなどと言っては誘ってくれた。見ているだけでいいと、ファビアンはいつも断ってしまっていた。


(……ほく、何にもできないな)


 神識典ヴィヴロスの内容を全部暗唱できても、公爵家の血筋を引いていも、立派なソファーに腰かけていても、十二歳のファビアンはこの状況をどうすることもできない。


(姉さま……)


 こんな時、縋る名前が一つしかない。姉にはいなくても問題ないといったけれど、やはり心細い。

 情けなくて、涙が出そうになる。

 コンコン、と控えめなノックがしたのは、そんな時だった。

 護衛の男が、無表情のままドアに歩み寄る。その隙間に見えたのは、上等なドレスを着た女性だった。

 入口で護衛に止められたのか、何やら押し問答をしている。


「いいから、そこをお退きなさい」

「ですが、旦那様にはここから動くなと厳命を……」

「何もしないわ。少し話をするだけよ」

「しかし……」

「あなたみたいな無骨な男がいると、話せるものも話せないのよ。それとも、当主の妻のいうことが聞けないとでもいうつもり?」

「……では、部屋の外に」

「盗み聞きするつもり? デリカシーもないのね」

「…………」


 最後の高圧的な一言で、護衛の男はついに押し黙った。一度低頭し、そのまま女性と入れ替わって退室していく。

 パタン、と扉が閉まると、女性はゆっくりと振り返ってファビアンを見下した。

 濃い亜麻色の髪を一本の乱れもなく後頭部でひっつめ、明るい榛色の瞳は睨むように細く眇められている。まるで、ファビアンを品定めするようだ。


(当主の妻ということは、母さまの……継母)


 母は、過去のことをあまり話したがらなかった。

 礼儀作法や教養についての知識は惜しみなく与えたし、貴族との関わり方なども教えてくれたが、オーリオル公爵家に関することは表面上しか話してはくれなかった。

 それでも、全学校に通うようになってから、『悪役令嬢』の噂は耳にするようになった。母を早くに亡くしたために性格は歪み、後妻に入った継母には嫌われていた、と。


(味方……ではないよね、どう考えても)


 だが五十歳近い女性相手なら、ファビアンでもどうにかできるかもしれない。

 という希望は、甘かったと言わざるを得ない。


「あなたが、ファビアンね? あのソランジュの息子の」


 ファビアンを見下す榛色の瞳には、明らかな怒気が静かに漲っていた。




       ◆




 オーリオル公爵家のお抱え主治医であるワトーには、後悔していることがあった。

 代々公爵家に仕える医者の家系に生まれたワトーが父のあとを継ぎ、初めて一人で行った診察は、今は亡き公爵夫人フォスティーヌの妊娠だった。

 ベルトランは病弱な妻の出産を最後まで反対した。対するフォスティーヌは、病弱だからこそ、産める時に夫の子供を残しておきたいと言って譲らなかった。

 二人が深く愛し合っていたことは、公爵家に仕える人間はみな知っていた。

 だからこそ、フォスティーヌの病を治すことのできないワトーへの風当たりは強かった。

 全体的に虚弱で、体力がなく、突然眩暈に襲われたり倒れたりするフォスティーヌ。かといって風邪のような諸症状はなく、原因を探そうにもどこから手を付けて良いか分からなかった。

 様々な資料を読み漁って分かったのは、恐らく王家特有の魔力循環不全症であること。魔力を持つ物に近寄ると中毒症状を起こすこと。体内の魔力循環を改善しないことには、徐々に体力が奪われるばかりだということだった。


『お母様は、良くなるわよね?』

『えぇ、勿論ですとも。ですがそのためには、安静にしていることが一番です。お母上に頻繁に会いに行くのはいけませんよ』


 幼いながらよく物を見ている娘のソランジュに、ワトーは何度もそう言って諭した。ソランジュがフォスティーヌと面会した後は、必ず具合が悪くなったからだ。

 ソランジュへの嘘を本当にするためにも、ワトーはベルトランに相談し、あらゆる魔道具を取り寄せたり、専門家に相談もした。だが、とうとう間に合わなかった。

 残されたソランジュはまだ九歳だった。ワトーはソランジュにも同じ病が潜んでいないか用心深く観察を続けたかったが、その時にはベルトランから完全に見限られていた。

 最愛の妻を死なせた無能の医者。それが、二十七年前から続くワトーの立場だった。

 だから、十六歳になったソランジュが追い出されると聞いた時も、庇うことが出来なかった。異議を唱えれば、今度は自分が追い出される番だと分かっていたから。


(だから今度こそ、お嬢様のお力にならなければいけないんだ……!)


 そう、何度も決意したというのに。


「つまり、ジゼルは弟を人質に公爵に脅されて、ルシアンを殺したってことか……?」


 ワトーはただの護衛だと思っていた男に突然襟首を掴み上げられ、わたわたと弱った足を暴れさせるしかなかった。


「ちょっ……、くるし……っ」

「『殺すかもしれない』って、そういうことかよ……!」


 シャツを掴む手を何度も叩くが、男は別のことを考えているのか、びくともしない。


(ひぃ~、やはりこういうのは向いてない……っ)


 やはり動揺して桶を落としたのがいけなかった。そこから市中警邏隊の肩書きで犯人隠避罪をちらつかされ、結局ほとんどの計画を話してしまった。

 ワトーがおどおどしながら説明した情報を整理する男の額には、青く浮いた血管がくっきりと浮かび上がっている。


(だが、肝心の所は話していないから、まだ大丈夫なはず……)


 だがそんな計算も、激高寸前の男の前では無意味だった。


「ジゼルはどこだ! 知ってんだろ!」

「ジ、ジゼルお嬢様……っ? 旦那様を捕まえるのでは……!?」


 全力で揺さぶられながら、ワトーは続けられた問いに困惑した。

 市中警邏隊の制服は偽物ではなさそうだし、ベルトランを逮捕するのかと思ったのに。


「んなこと知るか! 貴族の身内のごたごたなんかどうでもいいんだよ!」


 いっそ清々しい程の職務放棄宣言だった。だが感心する余裕はまだワトーにはなかった。


「ジゼルは! ルシアンを殺した後どこに逃げた!?」

「だから、まだ死んだわけでは……」


 ひとまず重要なことを訂正しようかと思ったが、ギッと睨まれ、ワトーは諦めて先日聞いたことを思い出しながら口を開いた。


「わ、私が聞いた話では、公爵が依頼したと証明できるまで、身を潜めると」

「証明? 何か証拠でもあるのか」

「確か、依頼してきた者を捕まえて、公爵家との関係を明かして追窮するとか。もしそれができない場合、ご自身が名乗り出て、事実を説明すると」

「そんなことをしたらジゼルが捕まるだろうが!」

「ぐえっ」


 更に首が締まった。そろそろ脳に血液が回らなくて、視界が暗くなる。

 これでは喋れないと、ワトーは必死に男の手を叩いた。


「ジゼルお嬢様は、しばらくは森を拠点に動くと言っておりましたが……」

「森? まさか、ミュルミュールの森か?」

「さ、さぁ? そこまでは……ぐぇっ」


 首を捻ると、再び襟首を持つ手に力が込められた。

 これはいかんと、全て洗いざらい話してしまおうかという誘惑が湧き起こる。

 その乾いた口が、もう少しで真実を口にしそうになった時、



「ワトー? そこで何をしているの」



 階下の階段室から、懐かしい声がした。男の金髪の脇から、どうにか声のする方を覗き込む。

 そこには、思い描いた通りの、毅然として美しい女性が立っていた。

 セニェ王国で五つしかない選王家であるフェヨール家のこの屋敷に負けない、堂々とした佇まいの、母親譲りの美しい金髪を持つ、ソランジュ。


「お、嬢様……っ」


 狭いままの気道で必死に呼ぶ。だがこれに、何故か男の方が反応した。


「ジゼルか!?」


 ワトーの襟首をパッと離し、目の前の手摺にしがみ付く。だがすぐに、間の抜けた声を上げた。


「……母上?」

「あら、イザーク?」


 そう男に呼びかけ返したのは、ソランジュを支えるように立つ白いワンピースの女性だった。

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