第46話 五センチと後悔のるつぼ

「ちょっ、待っ……!」


 引き留めるジゼルの声を振り切って、ジュストは足早に森の奥へと駆け戻った。

 これからジュストがすることは、正解かどうかも、成功するかも分からない。失敗したとして、ジゼルを巻き込むことだけはできない。


(こんなに親切にしてくれて悪いけど、この方がいいんだ)


 幸いというか、森の中は草だらけで、それを踏みしだいて歩いた後がまだくっきりと残っている。それを遡るように進み、後は魔力の濃度に注意を払いながら中心を目指せば、それはほどなく視界に現れた。

 四、五本の太いクスノキやアカガシの木が自然の天蓋を作る中、幹の間を埋めるように枝の細いアオカズラやキヅタの気根が絡み合っている。それは森の中心部にあって楕円形にぐるりと続き、まるで樹木の壁のように内側を覗かせない。

 ジュストはゆっくりとその自然の檻に歩み寄りながら、ごくりと喉を鳴らした。


「これが……魔女の揺り籠」


 何度も母から聞かされた物語。王子を待つ悲しい魔女の物語。

 でも何度も夢に見るジュールの記憶を持つジュストにとっては、果たせなかった約束の成れの果て。叶わない恋を、守れなかった無力の象徴。

 罪の証。


 そっと、ジュールと魔女が作った封印に手を伸ばす。七歳の小さな指が震えて、怖くて触れなかった。

 もし触れて、封印が解かれたら。

 魔女はジュストを殺すだろうか。

 あるいはもし、封印が解かれなかったら。

 ジュストは安堵するのだろうか。


(分からない……こわい)


 あと五センチの距離が、一人では埋められない。心のどこかで、ジゼルがいてくれれば良かったと後悔する。

 だが一方で、戻れるわけがないと叫ぶのだ。


(ついに、やっと、彼女に会える……!)


 動悸が強まる。息が上手く吸えない。指が益々震える。


「……エルネスティーヌ」


 気付けば、初めてその名を、この幼い舌に乗せていた。


「この中で、君はまだ眠っているの……?」


 自分の口が、自分のものでないように動く。体中の魔力が、感情に共振するように急激に昂っていくのが分かる。

 体が、吸い込まれるように木々に近付く。

 触れる。


「なん、で……」


 何も、起こらなかった。木々は道を示すように開いたりはせず、愛しい彼女の声も聞こえない。それどころか、気配すら感じられない。

 まるで、この内側には何者もいないかのように。


「なんで……! エルネスティーヌ! 返事をして!」


 ジュストは何かがぷつりと切れたように叫んでいた。


「僕だ! ジュールだ! 何故何も言ってくれない!?」


 木々の檻を何度も魔力を込めて叩き、殴り、蹴る。けれど何も起こらない。


「遅いのを怒っているのか!? 待たせ過ぎたと分かっている! でもこれには理由があるんだ……!」


 安堵するかもしれないという恐怖が、見放される恐怖に勝るなどと、なぜ思えたのか。


「もう……僕を、見限ったのか……?」


 一度も想像しなかったーー否、想像したくもなかった可能性が、ジュストの脳裏を埋め尽くす。

 彼女の手を離した時以上の絶望が、七歳の小さな体を押し潰す。

 それでも、縋らずにはいられなかった。


「お願いだ……僕を見捨てたのなら、それでもいい……声を……一度でいいから、声を……」


 懇願が、森の静寂に吸い込まれては消えていく。叩きすぎて樹皮に削られ、ずたずたに剥けた子供の柔らかな薄皮が、じくじくと痛む。

 声がしたのは、それからどれほどした頃か。



「もしやと思ったが、期待外れだったか」



 聞き覚えのある声が、憐れみを宿してジュストを打ちのめす。

 ジュストは、考えるよりも先に声の主へと風の刃をぶつけていた。


「おっと! 危ねぇな――!?」


 森で出会った長髪の男が、ひらりと枝から降りて幹に身を隠す。その背に魔法で移動すると、ジュストは渾身の魔力を込めて男の体を蹴り飛ばしていた。


「ッ!」


 男の巨躯が数メートルもぶっ飛ぶ。それを吹き荒ぶ吹雪のような瞳で見下しながら、ジュストは絞り出すように問うた。


「……何をした」


 既に体力は限界だったはずなのに、怒りで制御が効かない。魔力が全身から零れ、血が沸騰しているようだ。


「お前が、何かしたのか」


 このままでは、話を聞く前に殺してしまいそうだと、懸念する。だが殺意が収まらない。

 その背を取られた。


「!?」

「危ねぇガキだな。ちったぁ人の話を聞けよ」


 一瞬の思考の揺らぎに、背後を取られて押さえつけられていた。地面を押し返してみるが、びくともしない。


(くそっ、重い……!)


 魔力の供給に体力が追い付かない。無理に続ければ、体の方が先に壊れてしまう。


「魔女を殺すと言った奴の話など、聞くに値しない」

「記憶力ねぇな。どかすと言ったんだぜ、俺は」


 ジュストのせめてもの抵抗に、男が呆れたように笑う。それから、ジュストにも分かるように、森の向こうを指し示した。


「見ろ。魔獣がいねぇだろ」

「……だから何だ」

「普段、奴らは魔女の揺り籠のすぐ近くで、様子を窺うようにじっとしている。そして魔女の意識が抜け出す時、奴らはそれに従うようについていく」

「抜け出す……?」


 そんなことがあるのかと、ジュストは改めて揺り籠の中の魔女の気配を探った。あまりに力が微弱で、確信を得ることは難しい。


「ま、あくまで森の中までの話だがな」


 ジュストの抵抗が消えるのを感じて、男が背中から退く。

 だがジュストは、もう体が地面に張り付いてしまったように、立ち上がれなかった。

 それを苦笑と共に見下しながら、男は言った。


「それよりも、いじけている時間はないようだぜ」

「……え?」




       ◆




 エルネスティーヌはずっと、薬を作っては細々と売り歩いて生計を立てていた。寿命の長い魔女は定住には向かないと、亡き母に言われていたからだ。

 だから突然の城からの要請に、困惑はあったが、断る理由もなかった。どうせ短い期間だろうし、何より、誰かから求められるということに、無意識に浮かれていたように思う。


 だがいざ城に入ると、やはり魔女や魔法使いという肩書きが歓迎されていないことは、肌で感じられた。

 過去の大戦に参加した魔法使いたちの逸話や、数が減り続けることによる希少性が、より一層彼らを不気味な存在にしているのだ。

 お陰で王妃の病を治すだけなのに、常に最低三人は護衛が同室した。移動するにも監視が二人はにつき、昼夜問わず行動を把握された。


(結局、魔女はどこまで行っても魔女なのね)


 自分とは違う、理解できない異質な存在。無から有を生み出し、その気になれば大砲よりも大勢の人間を瞬時に殺せる、危険な人間兵器。

 それでもどうにか役目を全うしようと思えたのは、ひとえに当の王妃からは感謝されていたからだ。


『ありがとう、エルネスティーヌ。あなたが来てくれてから、調子がいいわ』

『魔力循環不全は、体内の魔力と上手く付き合うのが肝心です。処方した薬を毎日飲んで抗魔性を上げ、同時に魔力を意識して体外に流す訓練をして耐魔性を上げると、より早く丈夫な体になれますよ』

『そのうち、わたくしも魔法が使えるかしら?』

『自分の魔力量をよく把握できるようになったら良いかもしれませんが……でも、魔力循環不全の方は、使うと体調を崩しやすいので、陛下はお許しにならないかもしれませんね』

『ついでに言えば、僕も許しませんけど』

『まぁ』


 息子の厳しい意見に、王妃がくすくすと笑う。

 思えば、この時が一番穏やかで幸せだった。

 魔女の監視という名目でついてきた末の王子ジュールも、王妃とのやり取りを見るうちに、エルネスティーヌを理解してくれる良き話し相手になった。

 淡い好意を抱くのに時間はかからなかったが、ジュールは既にバイエ家の令嬢と結婚していたから、エルネスティーヌはきちんと弁えていた。


 けれど気付けば、エルネスティーヌは反逆者に仕立て上げられていた。

 ある時から、王妃の具合が悪化し始めたのだ。治療は順調で、投薬の回数も減っていた矢先だった。

 原因を解明しようと調べている最中に、エルネスティーヌは投獄された。魔女がしていたのは、治療ではなく呪いだったのだと、そんな根拠もない理由で。

 それだけだったら、エルネスティーヌは冷静に反論できた。だがそこに、ジュールの妻だという女が現れ、エルネスティーヌは動揺した。夫を誘惑していると責め立てられ、返す言葉がなかった。

 事実は、ただ彼の優しい目を見つめて、心が満たされて、微笑み返しただけだ。

 だがエルネスティーヌには、確かな罪の意識があった。


(どこへ行っても、居場所がないのね)


 潮時だった。

 否、遅すぎたくらいだ。もっと早く、この国から出るべきだった。

 けれどジュールが、自分を魔女ではなく、一人の女性として見てくれたから、決断ができなかった。

 もう逃げ回るのも、分かったふりをして諦め続けるのも、ほとほと嫌になっていたから。

 だから。


『一緒に逃げよう』


 そう言ってくれたジュールの手を、取ってしまった。

 その先に、未来なんかないと分かっていたのに。


『ここで眠るといい。必ず迎えに来るから』


 優しい嘘を、信じてしまった。

 それからずっと囚われている。

 今まで、期待などしなかった。感情など、ないもののように押し殺してきた。それで全てが事もなく過ぎていった。

 これからも、そうして生きていけば良かった。

 けれど、ずっと蔑ろにして殺してきた本音が、それを拒んだ。


 本音は魔力の暴走という形で表出し、辺り構わず攻撃し、汚染した。周囲の生き物の成長を歪に速め、魔力を取り込み、瘴気を放つようになった。

 そこからは、終わりのない悪循環だった。瘴気に惹かれて、無害だったはずの動植物は魔化し、魔獣は狂暴性を増した。

 まるで、魔女の心を映したように。

 ジュールが力を貸してくれなければ、被害はもっと広がっていただろう。

 そして当のエルネスティーヌは、まるで殻に閉じ籠る赤子のように、自分の周囲を茨や木々で囲み、外界を完全に遮断した。


 最初は、体を癒し、休める意味もあった。けれどどんなに待っても、ジュールが約束を果たしに来ることはなかった。

 それは分かりきった未来だったのに、エルネスティーヌの心は益々頑なになり、ただ閉じ籠るためだけに引き籠り続けた。

 したくもないのに、何度も記憶が反芻されては、後悔し、懺悔し、恨んだ。繰り返すたびに記憶が歪み、何が事実で、どこまでが自分の思い込みなのかも判然としなくなった。

 自分の発した呪いの言葉で、自分の耳が、心が、呪われていった。

 体は、もうすっかり癒えているはずなのに。


(……痛い)


 久しぶりの感覚が、手足を震わせる。横腹からとめどなく流れる生暖かい血が、自分の体にも巡っていたことを思い出す。


(……痛いって、こういうことだったわね)


 鼻先に触れる、押し潰した草の汁の青臭さ。握り込む指に触れるひんやりとした土の感触。久しぶりに取り戻した、浅く苦しいままならない呼吸さえ、新鮮で眩しかった。


「……ッ、ハ、ァッ」


 倒れた地面からわずかに顔を上げ、重い少女の体を無理やり引き起こす。


「よくもやってくれたな」


 がさがさの耳障りな声が、白刃とともに振り下ろされる。その寸前に、エルネスティーヌは全身の力を振り絞って魔力の膜を張った。

 ガギンッと鋼が震えて刃先が折れる。


「はあッ!?」


 顔に傷のある長身痩躯の男が、素っ頓狂な声を上げた。


「どうした!?」

「てめぇ、何やった――」


 ガウゥーー!


 駆け付けた声と怒声はしかし、横ざまから飛びかかってきた魔獣に喰われて消える。


「ひっ……!」

「なんで魔獣がここまで……!」


 それを見た残る二人が、あっさりと戦意を喪失し脱兎のごとく逃げ出していく。その情けない背を一瞥しながら、エルネスティーヌは借り物の少女の傷口に手を当てて息を吐いた。


「無茶をする子ね」


 呟きながら、串刺しにされた腹に魔力を込める。自分の体ではないから魔力量も少なく、思うように治癒が進まない。だがとりあえず、出血が収まればいい。


「助けてと、一言いえば良かったのに……」


 小言のようなことを口にしてから、エルネスティーヌはすぐに後悔した。人に説教するのは簡単だが、実際に自分ができるかと言えば、甚だ疑わしい。

 何せそれが出来なかったせいで、今も森にいるのだから。


(ジゼル。あなたは、目を覚ますことを望むのかしら……?)


 意識を失ったままの、体の持ち主にそっと問いかける。

 だがその答えが返ることはなく、男を咥えたままの魔獣が、ゆらりと長い尻尾を揺らしながらエルネスティーヌへと向き直った。


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