第47話 真心の餞別と心中の企み

 ソファーで祖父母二人のやり取りの行方を見守っていたファビアンが、突如乱入したソランジュのもとへ慌てて駆け寄った。


「母さま!?」

「ファビアン。ここにいたのね」


 息子を抱き止める姿に、やはり見間違いではないと思いながらも、アメリーは突然のことに思考が追い付かなかった。


「ソランジュ……どうしてここに……」

「聞き捨てならない話が聞こえてきましたから、無作法と思いながら口を挟ませてもらいましたわ」


 そうではなくて、という言葉はけれど、あまりにも自然に歩み寄って両手をとられ、声にすることは叶わなかった。

 一目惚れしたベルトランと同じ、美しい淡褐色ヘーゼルの瞳が、アメリーを見つめて、手を重ねる。


「ソランジュ、あの……」

「お母様はあの時、首都しか知らない、生活能力もない娘に、ありとあらゆる配慮をくださったわ」

「そんなこと……」


 どんな恨み言が出るかと身構えていたアメリーは、その瞳のあまりの柔らかさに、首を横に振ることしかできなかった。


「特に小さな屋敷だから、使用人は最低限しかいないこと。自分のことはなるべく自分ですること。着替えの仕方、一日の過ごし方、屋敷で働く者たちの事情。手紙を書く時は、お母様に宛てること。帰りたくなったら、必ず相談すること……」


 まるで餞別の品を慈しむように、ソランジュが一つずつ数え上げる。

 それは、二十年前のあの日、首都の屋敷を離れなければならなくなったソランジュに、思いつく限りかけた言葉だった。

 きっと田舎の小さな屋敷では、ソランジュは何から何まで違うことで驚くだろう。無知ゆえに向こうの家令たちに疎まれないよう、困らないように、アメリーは細々としたことを一々話して聞かせた。

 ソランジュはむすっとして俯いたままだったから、今更遅すぎるお節介だとでも思っているのだろうと、決めつけていたのに。


「あなた、覚えて……」

「泣いて困らせたくなかったから、顔を上げられなかったけれど……わたくし、とても嬉しかったのよ。お母様の言葉がなければ、わたくし、子供どころか自分のこともろくにできないままだったと思いますわ」


 ソランジュが、くしゃりと微笑む。相手をやり込む時の凄味のある笑みとは違う、初めて見せてくれた子供の頃と同じ笑みだった。

 涙が、堪え切れず頬を伝っていた。すぐ傍らには、まだベルトランがいるというのに。


「嫌われたと思っていたわ……。いつからか、話してくれなくなったから」

「あら。あれは、わたくしと話していると、ご機嫌取りをしていると馬鹿なこと言う者たちがいたでしょう? わたくしはいつか出ていく身だから良かったけれど、お母様はずっとこの家にいてくださる方だもの。わたくしのせいで悪く言われるのは絶対に嫌でしたの」

「まぁ……」


 その言葉に、アメリーは肝心なことを忘れていたと、今更に後悔した。ソランジュは亡き母に似て、心の機微に敏感だったことを。


「あぁ……ダメね、わたくしったら……」


 子供の気遣いに気付かず逃げ出した申し訳なさと恥ずかしさで、涙が止まらなかった。握り締める手からすっかり柔らかさが消え、大人の、苦労した手になっていることが申し訳ない。

 そしてそれ以上に、この努力家な娘が愛おしかった。


「ソランジュ。抱きしめても良いかしら?」

「えぇ、もちろんですとも」


 二人で微笑み合って、互いの体にそっと手を伸ばす。

 そこに、不躾な声が割り込んだ。


「それで、何故お前がここにいる。自分では動けぬ身と聞いたぞ」


 ベルトランだ。隣で細い目を見開いていたから、ソランジュが来るのはベルトランにとっても予想外だろうとは分かったが、相変わらず情緒というものを分かっていない。

 しかしそこは娘のソランジュも負けてはいない。

 継母との抱擁をすっぱり諦めて、腰に手を当てて父に向き直った。皮肉をもって。


「あら。それを知っていて援助を断ったの? さすがお父様だわ」


 だがそれに堪らず口を挟んだのは、ずっと母を心配そうに見守っていたファビアンだった。


「でも母さま、体は平気なんですか?」

「えぇ。ワトーがくれた薬を飲んだから。とても良い気分よ」


 胸程の背丈のファビアンの頭を優しく抱き寄せて、ソランジュが柔らかく微笑む。それはこの家にいた時からは想像もできない姿で、だからこそ母親になったのだと改めて実感が込み上げた。

 だが、発言の方は看過できなかった。


「ワトー?」

「薬だと?」


 ソランジュの返事に、アメリーとベルトランはそれぞれ疑問の声を上げた。

 ワトーとはオーリオル公爵お抱えの主治医だ。ワトーもまたソランジュの身を案じていた一人だが。


「まさか、ワトーもあなたに援助をしていたの?」

「いいえ、お母様。ワトーには少し協力をお願いされましたの。薬はそのついでですわ」

「お願い?」


 アメリーは、見当もつかないと首を捻った。

 しかしベルトランは、何やら思い当たるものがあったらしい。


「そういうことか」


 小さく呟くと、疲れたように嘆息した。


「では、もう用事は済んだな。ファビアンを放してすぐに帰れ」

「それは出来ませんわ。我が子の安全が約束されるまでは帰れません」

「孫は丁重に扱っている。傷一つつけてはおらん」

「あっっっったりまえですわ。こんな下らないことに巻き込んでおいて、可愛い息子に針穴ほどの傷でもこさえようものなら、いくらお父様でも地の果てまでも許さないところですわ」

「…………」


 予想外にドスが利いた口の悪さに、ほほほと付け加えられた笑声がいかにも凄味があった。肩を抱かれているファビアンが少しだけ引いている。


「わたくしが言いたいのは、わたくしの可愛い娘のことですわ」


 同じ淡褐色の瞳を睨みつけて、ソランジュが言い放つ。

 何故、と疑問を抱いたのは、アメリーだけだったようだ。

 ベルトランは初めて眉をぴくりと動かして、表情を険しくした。


「……お前も、儂が仕組んだと考えているのか」

「そうでなければ良いと考えておりますわ」


 父娘の応酬に、緊迫した空気が一気に高まる。ベルトランは、にこにこと微笑むソランジュからアメリー、ファビアンへと順に視線を向けたあと、苛立ったように息を吐いた。


「……お前は昔からそうだ。無闇に会話を荒立たせ、他者の反感を買い、要らぬ敵意を買う。その尊大な態度と偏狭な視野が元凶だと、何故学ばぬ」

「まぁ。学んでいないのではありませんわ。相手を選んで意図して行っているだけです」

「それで大切な相手を失ったことを、まだ自覚していないのか」

「自覚していないのはお父様の方ですわ。元婚約者ラフォンが大切な相手だったのはフェヨール家にとってであり、わたくしにとってではありません。わたくしは、より大切にする相手にお譲りしたまでです」

「……あのフォスティーヌの娘が、負け惜しみとは」


 頭が痛いとばかりに、ベルトランが眉間に皺を寄せる。

 二十年ぶりに聞く父娘喧嘩は、相変わらず聞いている方が胃が痛くなるほど刺々しい。

 だというのに。


「ファビアン以外、摘み出せ」

「その前に、聞きたいことがある」


 二人の間にそう言って、一人の青年が割り込んできた。




       ◆




 マルスランは苛立っていた。


(やっとこの日が来たというのに……!)


 一度目は、兄の最愛の妻が亡くなった時だった。

 跡継ぎはソランジュしかおらず、公爵位を継ぐことはできない。甥である自分の息子に継承権が回ってくる。ただ待っていれば良かった。

 だが兄は、父の命令で、跡継ぎのために愛してもいない女と再婚した。マルスランは新しい妻を孤立させるため、足繁く公爵邸に通った。何度も理由をつけては町に連れ出した。

 それが功を奏し、二人の仲が冷め切ったと聞いたのが二度目。

 だがこれも、ルシアンの誕生で泡と消えた。

 そして三度目が、ルシアンの血統――兄の妻に対する不貞疑惑だった。


 マルスランは今度こそ失敗しないために、入念に策を練った。

 まず兄の疑念が強まるようにそれとなく話題を誘導した。ルシアンがまるで兄に似ていないことに気付かせ、ルシアンよりもファビアンの方が正当性が確かなことを吹き込んだ。

 一方でレノクール一家を調べ上げ、適当に襲撃して命の危機を感じさせた。

 その上で、ジゼルに使者を送った。

 ルシアンを殺せと。


 乗るかどうかは、大して期待していなかった。

 ジゼルが動かずとも、彼女が少しでも迷い、行動すればそれでいい。

 実際にルシアンを殺すのが誰かなど、些末なことだ。

 ジゼルを犯人に仕立て上げ、ファビアンを殺人犯の弟に出来ればそれでいい。

 そうすれば、兄は破滅だ。

 そしてその日は、訪れた。


『ジゼルが実行したことを確認しました。現在、森の方へ逃げたのを追跡中です』

『よくやった。森に入ったのを確認したあと、殺してよい』


 昨夜の内にその報告を受け、マルスランは心中で快哉を上げた。森に入れば、魔獣に殺されたと言って死体を兄の元に届けるだけで済む。

 後は頃合いを見て治安警備部隊に密告すれば、終わりだ。


(それを、あの女共が……!)


 シャーリーとソランジュに遭ったのは、兄から事が起きたとの連絡を受け、オーリオル公爵邸へ向かう矢先のことだった。

 シャーリーを連れ戻すつもりが、気付けば馬車に繋がれていたはずの馬が奪われた。


(あのバカ女め、一体何をした……!?)


 馬を調達し直し、輓具ハーネスを付け直して、まずシャーリーの後を追った。

 シャーリーをあの屋敷に留めているのは兄の指示だ。従うのは癪だったが、王弟に対する切り札としては、やはり価値があるはずだ。

 もうすぐ王弟も見つかるという今になって逃がしては、二十年費やした金をドブに捨てるも同然だ。

 だがシャーリーを追って辿り着いたのは、オーリオル公爵邸だった。


「まさか、自分の家ならば安全だとでも思ったのか?」


 マルスランは笑ってしまった。

 憐れな娘は、捨てられたという自覚さえなかったらしい。

 家門のためだけに生きる潔癖な頑固者の兄が、あのソランジュを許すわけがない。


「引きずり出す手間が省けた」


 マルスランは出鼻を挫かれた不機嫌も忘れ、意気揚々と公爵邸の玄関を潜った。

 そこに、見覚えのある女がいた。


「もしや、エスピヴァン侯爵さまでは?」

「……まさか、アレット・バイエか?」


 玄関ホールでおろおろしていた女が、マルスランに気付いて振り返る。


(かつては主人公ヒロインなどともてはやされた女も、今ではただの年増だな)


 今日は終わった女によく会うとげんなりしたが、すぐにこれは好機だと思い直した。

 ソランジュを弾劾するのに、これ以上の適任者は他にない。


「どうやら、お困りのようですね」


 マルスランは、宮廷用の笑みを貼り付けてアレットに歩み寄った。


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