第24話 居場所と疑念

 この日は、自分でもびっくりするくらい翻訳の仕事が早く終わった。

 翻訳は写字工房の一角で行っており、工房の奥では挿画や彩色、製本などが行われているが、ジゼルのいる部屋は工房の表に構えた書店の方に近い。

 客層は貴族が多く、日に二、三人は無茶な注文を付けてくるのだが、それがなかったのもあるだろう。

 だが一番の要因は。


(眠気がないと、仕事ってさくさく進むのねぇ)


 しみじみと、当たり前の事実を改めて実感する。加えて、手が空くと考え事をしてしまうので、ずっと黙々と仕事を詰め込んだのも要因だろう。

 だがお陰で早く帰宅できた分、一週間ぶりの給金でゆっくりと買い物もできた。念願の肉もやっと買い込んだ。

 それで張り切って晩御飯の支度をしたのだが、それでも時間が余ってしまった。

 家でゆっくりしていても良かったのだが、母は薬が効いているのか眠っていたし、ファビアンはいつも晩課の鐘が鳴るまでは勉強しているから部屋から出てこない。

 内職はこの前で一区切りをつけてしまったし、ジゼルは久しぶりに時間を持て余していた。


(なんか、やることない……っていうか)


 居場所がない、ような気がする。


(……ダメダメ、そんなわけないじゃない)


 よくない考えが浮かんで、ジゼルは慌てて打ち消した。こういうことを考えだすと際限なく落ち込んでしまう。

 ジゼルは今まで生きるために仕事しかしてこなかったから、同年代の友達もいなければ、相談できる相手などもいない。気晴らしに遊ぶにもお金がないから、落ち込みそうになるといつも気付かないふりをして体を動かした。


(よし、薪でも割ろう)


 そう自分で自分の背を押して、西日が眩しい庭に出る。そこで、嫌なものを見てしまった。


「……なんで、こんな時間にいるの」

「夜には会えないようなのでな」


 そう答えたのは、顔をフードで隠した長身痩躯の男だった。西日に沈む影は濃い中に、尖った顎だけがよく見える。

 ジゼルは男の向こう側にある薪割りの斧を視界に収めながら、肩を落とした。


「夜はもうずっと忙しいんです。諦めたらいいと思うんですけど」

「そうしたいのは山々だが、こちらも事情が変わった」

「事情? まさか……」

「一週間以内に実行してもらう」

「そんな!」


 思わず叫びながらも、内心ではついに来たかと身構えた。

 以前から決めていたことをついに切り出す。


「……だったら、条件があります」

「ほう。聞いてみよう」

「依頼主に会わせてください。それなら、引き受けます」


 使者の口振りから、依頼主がオーリオル公爵本人だということは明らかだ。もし会えるのなら、仕事を引き受けるか否かに関わらず、一言言ってやりたいとずっと思っていた。

 どうせ、ジゼルがやるかどうかに関わらず、ルシアンが死ねば容疑者に仕立て上げられることは最早逃げ切れない未来だのだから。

 しかし、返された答えは当然というか、ノーだった。


「下手人相手に、素性を晒す依頼者がいると思うか?」


 愚かな素人に、使者は憐れみを込めて侮蔑する。


「お前は、一週間以内に仇を殺せばいいだけだ。望むなら、お膳立てはしてやるぞ」


 予想通りの答えに、ジゼルは抵抗する気力もなく項垂れるしかなかった。

 ジゼル程度の存在では、直接文句を言うどころか、否やと跳ね退けることもできない


(思い直して欲しかったのだけれど)


 貴族には、そのような甘い期待も考えも通用しないらしい。


「……だったら」


 と、ジゼルは腹を決めて、口を開いた。


「日時は、私が決めます。あと、道具や侵入経路も。その方が、あなた達にも都合がいいでしょ」

「……いいだろう。その日には、警備が薄くなるよう手を回そう」


 案の定、使者はこの提案にすぐに乗ってきた。ジゼルが全て用意すれば、依頼主に足がつく可能性は限りなく低くなる。願ったり叶ったりだろう。


「じゃあ、一週間後の、夜に」

「最後の足掻きか」


 最大限に引き伸ばした答えに、使者はたっぷりの皮肉をもって鼻で嗤った。しかし、今度は否やとは言わなかった。




       ◆




 使者が去った後、ジゼルはなんとなく家にいるのが辛くなって、まだ早い時間だったが侯爵邸に向かうことにした。

 とぼとぼと歩きながら、埒もないことを考える。


(そういえば、イザークには言っておいた方がいいのかな)


 仮初の婚約者が殺人犯では、さすがに外聞が悪いだろう。

 だが仮にも市中警邏隊に所属する相手に「私これから殺人するから」と忠告するのは、何だか引き留めてほしいと言っているようにも聞こえて、いかにも含みがありそうではないか。


(……ま、いっか)


 イザークの婚約の話は大々的に流れているが、相手については明言されていない。いざとなれば、切り捨てれば済む。

 そう考えてまた、つきり、と胸が痛んだ。


(……走ろ)


 そうして、市場を走り抜け、中央広場の建国王の銅像も過ぎ、旧市壁を潜ってエスピヴァン侯爵邸に辿り着く。

 息も切れ切れになる頃には、そろそろ見慣れ始めた別館に到着した。

 例の花束の女性か、オーブリーがいないかどうかを注意深く観察する。


(今日は……誰もいない、のかしら?)


 だがそう思わせて、オーブリーはいつもどこからか見ていたりする。

 などと考えているうちに、気付けば本館が見える位置まで移動していたようだ。

 カン、カン! と何かを打ち付けるような甲高い音が聞こえる。子供の頃、ジゼルもよく聞いた音だ。

 もしかしてと覗き込めば、案の定、建物の間にある空間で、二人の男性が木剣で激しく打ち合っていた。


(やっぱり。でも、稽古……じゃない?)


 久しぶりに見た打ち合いはしかし、記憶にあるものと随分違っていた。受け手と攻め手でもなければ、立ち回りでもない。力任せに振るわれる、一方的な剣戟。

 打ち込み続けているのは、茶褐色の髪に、淡褐色ヘーゼルの瞳の五十代半ばの、眉間に皺を刻んだ壮年の男性だ。年齢的にも、あれがエスピヴァン侯爵マルスランだろうか。

 そして受けているのは。


(イザーク、よね)


 後ろ姿だが、恐らく間違いない。だが妙だ。間合いの取り方も剣筋の読みも悪くないのに、先程から一方的に打たれるばかりで反撃しない。実力差があって手が出ないというよりは、今という一瞬にいつも逡巡があるように見える。


(どうして……)


 イザークの動きが鈍いのか、どこか調子が悪いのか。ジゼルは結局、稽古が終わるまで見続けてしまった。

 ボロボロになりながら一礼したイザークに声を掛けようかと思ったが、近くで待っていたらしい少女がすぐに駆け寄ってきたので、静かに見送ることにした。


(あれが、いつもの怪我の原因?)


 ダリヴェ家が武門の名家だという話は有名だ。家の名を守るため、稽古に熱が入るのは当然とは思うが。


(なんか、やな感じ……)


 明確な言葉に出来ないまま、胸がざわめく。

 だがここにいてもジゼルに出来ることはない。

 別館に向かおうと、静かに立ち上がった時だ。


「……まだ捕まえられんのか」


 苛立ちを含んだ声が鋭く響いた。思わず物陰に隠れて視線を向ければ、一人になったマルスランの傍にまた別の男性が立っていた。使用人かと思ったが、腰に剣を佩いている。


「なにぶん、ミュルミュールの森は深い上に迷いの結界もありまして、捜索が思うように進まず……」

「だからこそ隠れているのだろう。あとで魔術師も一人送る。少しくらいなら森を燃やしても構わん。迅速に見つけ出せ」

「はっ」


 男が一礼してその場を立ち去る。魔術士とはまた随分大事だと驚いたが。


「……あの男を引きずり出せば、もうあの目障りな母子おやこも用無しだ。やっと排除できる」


 続いて聞こえてきた言葉にこそ、ジゼルは呆気に取られた。


「排除……?」


 どういうことだと、思わず腰が浮く。その口元を、何かで塞がれた。


「!?」

「静かに」


 すぐ背後から耳元で男の声が囁く。知らない声だと思った瞬間、ジゼルは自分の口を塞ぐ腕を掴んで横ざまに放り投げていた。


「なっ?」


 反撃されるなどとは露ほども思わなかったらしい男が、呆気なく地面に転がる。それを見届ける前に、ジゼルは一目散に別館へと逃げ込んでいた。


(なんなの突然!?)


 まさか盗み聞きしたせいだろうかと、心臓をどくどく鳴らしながら廊下の角を曲がる。そこに、彼女がいた。


「まぁ、あなた……」


 それは美しい亜麻色の髪に灰色の瞳の、少女のような婦人だった。今日も小さな花束を持っている。


「……、こっち!」

「え?」


 ジゼルは考えるよりも先に婦人の手を掴んで一緒に走り出していた。

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