第9話 頼みと脅迫

 詐欺師も変態も、問われて自ら名乗ることはしないと、ジゼルは聞く耳を持たなかった。

 それに否定されたところで、寝台に入るという単語まで覆ったわけではない。

 ジゼルはじりじりと間合いをはかりながら、男の背後にある唯一の出入り口までどう向かうかを思案する。

 などとやっていたら。


「俺はイザーク・アルマン。ここは俺が暮らしている侯爵邸の離れで、金にも女にも困ってはいない」


 男が嘆息とともにドアに背を預けると、そう名乗った。

 だがジゼルが驚いたのは、その行動よりも、突然の自己紹介の方だった。

 犯罪者であれば、素性を秘匿するのは大前提のはずだ。身分があるなら尚更だ。

 治安警備隊の市中警邏隊は基本的に平民の集まりだが、金に物を言わせて入隊した者も多く、怠惰と賄賂が当たり前のように横行している話はよく聞く。

 この男――イザークも、その手の類なのかと思ったのだが。


(自分から名前も住み処も明かして……どういうつもり?)


 疚しいことはないという意思表示か。或いはあの使者と同じく、不祥事などいくらでも揉み消せるという考えなのか。

 どちらにしろ、長居をするべきではない。

 ジゼルはじりじりと天蓋の柱の影に移動して間合いを測りながら、イザークの隙を伺った。


「だったら何でこんなことしたのよ。いくら警邏だからって、職権乱用にも程があるわよ」

「確認したいことがあるだけだ。二日前、市場で俺とぶつかったのはお前だと聞いている」

「え」


 どんなこじつけで来るかと思ったら、全く身に覚えのある話だった。

 ジゼルは再び動揺した。


「そ、そんなことなら、尚更こんな所まで連れてこなくても良かったじゃない。何なの? やっぱり警邏にぶつかったのに謝罪に行かなかったことに腹を立ててるの? まさか、制服を汚したから弁償しろとか? でもあれは私も悪かったかもしれないけど、そっちもよそ見してたからぶつかったんでしょ? これはあれよ、痛み分けってことで……」

「待て待て、だから何故全てそんな話になる?」


 自分の非と不安からどんどん早口になるジゼルを、イザークが眉間に皺を寄せて止める。


「だから、金に困ってはないと言っただろう。俺が知りたいのは、何故あの時だけ熟睡できたのかということだ」

「……は?」


 何のことか分からないと、ジゼルはもう何度目となるか分からない疑問を抱いた。

 道端で熟睡したことが罪だとでもいうのだろうか。


「どういうこと? 熟睡が……何なの?」

「それを説明しようと思って食事の場を用意したのだが、拒否したと聞いたぞ」

「え?」


 青天の霹靂であった。

 最低最悪の礼儀知らずと思っていたら後出しで筋を通そうとしていたらしいことよりも、それを知らず無下にしていたらしいことよりも、ただただタダ飯を逃したという事実がジゼルを打ちのめした。


「あ、あれ、食べて良かったの……?」


 愕然と問い直すと、鷹揚と首肯された。ジゼルは知らぬ間にイザークに数歩にじり寄りながら、慌てて希望を付け足した。


「じ、じゃあ、帰る時に少し包んで持って帰ってもいい? ちゃんとお下がりの分は残すから」

「それくらい、別に構わないが……」


 突然の態度の急変に、イザークが引き気味に頷く。意外と話の分かる相手かもしれないと、ジゼルはない胸を撫で下ろした。

 が。


「但し、今から俺と一緒に寝てくれたら、だが」


 最後に忘れかけていた話がぶり返した。

 イザークの勝ちを確信したような口元に、先ほど一瞬芽生えた好意がじりじりと踏み潰された砂のように消えていく。


「だから、さっきから何なの!? 寝台に入るとか一緒に寝るとか……嫌に決まってるでしょ!?」


 知らず閉じていた距離を再び離す。その倍の歩幅で、イザークがジゼルとの距離を詰める。離れたいのに、室内の感覚と歩幅が違いすぎて、どんどん間合いが削られていく。


「俺だってこんなことはしたくない。だが確かめるためにもこれは必要なことなんだ」

「だから何を!?」

「あの時熟睡できたのは、お前が一緒だったからなのかどうかを、だ」

「なにそれ。一人じゃ怖くて眠れないとでも言うつもり?」


 地の利がない分少しでも勝機を見出だそうと、たっぷりの皮肉を込めてやり返す。いつもの男共なら、ここで逆上して隙が生まれるのだが。


「……その通りだ」

「え……」


 予想外の肯定を返され、ジゼルは何と返せばいいか困惑してしまった。


(なんでそんな、傷付いた顔するのよ)


 暴力は良くないが、人の心を傷付ける言葉はもっと良くない。

 母が昔、それで酷く傷付いたから。

 ジゼルもそんな人間にだけはならないと決めていたのに。

 薄暗い明かりに浮かび上がるイザークの顔が、酷く辛そうで。


「だから、頼む」


 気付けば、腕を取られる程に接近を許していることに、気付くのが遅れてしまった。


「俺と一緒に寝てくれないか」

「っ」


 まるで離れゆく恋人に懇願するような声が、耳元で囁く。左手首を絡め取った手付きも、朝の時とは違ってどこか優しいような気すらする。


(な、なんで突然しおらしくなるのよ)


 ジゼルは自分が鏡のような人間だと自覚していた。強気で来られれば強気で返せる。だから、弱っている人は見捨てられない。

 こんなに困っているのなら、少しくらいいいのではないか、という気持ちが、ちらりと芽生える。

 だがここで引き下がったら、絶対に後悔する。

 相手は男で貴族だ。それと一緒に寝るなど、世間にバレれば私娼扱いされてしまう。

 一旦そうなれば、公娼になることはできず、どこで何をしていても色眼鏡で見られる。外を歩くだけで常に男に襲われる覚悟をしなければならない。

 たかが貴族の不眠で、人生をふいにする気はない。


「そ、それでも無理なものは無理よ。眠れないって言ったって、死ぬわけでもないのに……」


 ジゼルはイザークの真剣な眼差しから逃げるようにしながら言った。これが命に係わるというなら、自分にできる範囲で努力することもやぶさかではないが、そんな大仰な話であるはずもない。

 そう、思ったのに。


「……いや」


 返された否定は、どこまでも重く昏く。


「このまま悪夢を退けられなければ、恐らく、命はない」


 イザークのその声のどこにも、嘘や誇張のような駆け引きの気配はなかった。


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