第10話 実践と反撃

「命はないって……比喩、とかじゃなくて?」


 イザークの憂いに満ちた灰色の瞳を直視できず、ジゼルは視線を意味もなく彷徨わせながら、一縷の希望にかけた。

 だがイザークは、ふるふると金髪を左右に振った。


「眠りに落ちると、悪夢が来るんだ。俺を殺そうとする悪夢が」

「でも、どのみち夢なんでしょ?」


 重ねた問いに、イザークが顔を顰める。それから、何故かおもむろにリネンのシャツを脱ぎ始めた。


「なっ、なに……!」


 するつもり、と叫ぶ声はけれど、口から出ることはなかった。

 片肌脱いで現れたのは、あちこちに新旧の切り傷や擦り傷がある、よく鍛えられた思いのほか太い二の腕だった。

 だが、何よりジゼルの目を惹いたのは。


「それ……痣?」


 肘から二の腕にかけて広がる、小さな手形のように見える紫色の痕だった。痣とは言ったものの、そんな形の痣がどうやったらつくのか、ジゼルには分からなかったが。


「最初は、指先だった。突き指でもしたかと思ったが、痛みはなかった。だがそのうち、悪夢から醒める度に徐々に近付いてきていることに気付いたんだ。悪夢の内容とリンクするように――心臓に」


 あり得ない、とは、すぐには言えなかった。

 左の二の腕についたその手形は、まるで足元から縋って這い上がる腕が見えるようなリアルさがある。


「その悪夢って……何なの?」

「呪いだと、俺は思っている」


 恐る恐る聞いたジゼルに、イザークは確信をもって答えた。まるで、呪う相手に心当たりがあるとでも言うように。

 だが呪いと言われれば、確かに説得力はある。

 呪いと聞いて真っ先に思い浮かべるのは、やはりミュルミュールの森の魔女だろう。

 その昔、この国に現れた魔女は良く効く薬を作ると有名で、当時の王妃の病を治すために王宮に滞在していた。薬は評判通りで王妃は徐々に快復したそうだが、その代わりに王子を虜にし、反乱を起こさせた。それに気付いた国王が討伐隊を放ち、封印される間際には瘴気の森を生み落とし、それからずっと王家と王国を呪っているのだとか。

 その呪いを防ぐために、森には結界が張られ、物理的な被害から市民を守るために、新市壁を建設したという逸話は有名だ。


「誰とか、いつとか……心当たりは、あるの?」


 どこまで聞いていいものかと思いながら、問う。だがこれに、イザークは一瞬間を開けたあと、何故か長く息を吐き出しながら首を横に振った。


(なに、今の間……?)


 心当たりがあるならば解呪の宛てもあろうが、分からないのであればそれも難しい。

 そもそも呪いや魔術の類は使い手が減り続けており、この数百年で衰微の一途を辿っていた。闇雲に解呪できる者や方法を探しても、埒が明かないのかもしれない。


「だが」


 と、イザークは声調をワントーン引き上げた。


「あの市場で倒れた時だけは、悪夢が遠ざかっていった。その理由が何なのか確かめることができれば、悪夢を根本から排除することができるかもしれない」


 そういうことかと、ジゼルはやっとイザークの強引なやり方に少しは納得できる理由が明かされたと思った。

 誰かに呪いをかけられたのであれば、他者がいる場で軽々しく口にするのは憚れるし、理由を説明しないまま「同衾しろ」と言われても、ジゼルならまず承諾しない。


(とりあえず話を聞いてもらうために、自宅の食事の席に連れてこようと思ったってところかしら)


 それにしてももう少し段取りのやりようがあった気もするが、今更言っても後の祭りだ。

 問題は、これからのことだ。


「ちなみに、私じゃない可能性はないの?」

「場所と時間は既に試した。もう一人、一緒に警邏中の同僚がいたから試したが」

「試したのっ?」


 思わず問い返す。


「無意味な時間だった」

「へー……」


 一応、イザークは先輩として誠意をもって頼んだ。


『アゼロ。ちょっとそこに横になれ』

『嫌っすよ』


 だが聞き入れてもらえなかったので、足を引っかけて転がして、無理やり地べたに一緒に寝たのは、記憶に新しい。手も繋いだ。徒労に終わった。


「だから」


 と、イザークが更に一歩距離を詰める。


「一緒に寝てもらうぞ」

「いや、だか、ら――?」


 ちょっと待って、と言おうとした時には、ばふんっと柔らかい衝撃が来て、天蓋が見えていた。


(……はい?)


 足が床につかない。背中がふわふわと温かい。見上げていたイザークの整った顔が、目の前にある。

 近い。先程までは気付かなかった目の下の隈が、見てとれるくらいには。

 気付けば、ジゼルはイザークにあっさりとベッドの上に押し倒されていた。


「ちょ、ちょっと何すんのよ!?」

「実践してみないと分からないと言っただろう」


 ジゼルの左手は頑として押さえたまま、イザークが説明は済んだとばかりに自分もベッドに上がる。その覆いかぶさるような姿勢は、二人の体格差を如実に表していた。

 先程見た腕の傷は、やはり毎日の稽古の結果なのだろう。顔の右側に置かれた腕の太さや、はだけたシャツの隙間から見える堅そうな腹筋に、その努力が現れている。

 だから、ジゼルは。


「だから……! いいって言ってないって、言ってんのよッ!」


 目下の筋肉質な腹に、一切の遠慮なく右の拳をめり込ませていた。


「ッッッ!?」


 ぐふっ、とイザークの長躯が僅かに浮き上がる。その隙をついて半身を捩り、そのままずっと目の端に捉えていたドアまで走った。

 その背後で、掠れた声が絞り出された。


「ま、待て……!」


 イザークが、腹を抱えた姿勢のまま、ベッドの上からジゼルを見上げている。油断していたのか、随分良い所にヒットしたらしい。

 それを満足げに見下して、ジゼルは言下に断った。


「嫌に決まってんでしょ、この変態。今度私や家族に近付いたら、今日のこと言い触らすからね」


 捨て台詞をぶつけてドアに手をかける。

 しかしそれを、侮蔑と嘲弄を隠しもしない声が引き留めた。


「金がいるんだろう」

「――――」


 それはジゼルにとって、昨夜に続き二度目の侮辱だった。

 憐れに思っていた感情が、刹那に冷める。


「詐欺師で変態な上に、最低なのね」


 殺意を込めて睨む。だがイザークは悪びれることすらせず、話を続けた。


「一緒に寝てくれたら、金を出す。それで眠れなかったら、金輪際関わらない」


 腹が立つ、とジゼルは思った。こんな提案をされると、途端に無視できなくなる自分に。


『お金も欲しいけど……やっぱり楽しくないとな!』


 子供のように笑いながら一緒に冒険に連れていってくたれ父の言葉が、いつもジゼルを苦しめる。


(私だって……)


 できるものならそうしたい。苦しいことも辛いことも、惨めなこともしたくない。

 けれどそれでは、生きていけないのだ。


「……いくら」


 ジゼルは、口中に広がる苦い味をすり潰しながら、そう聞き返していた。


「一度につき、大銀貨三枚。もし呪いが解けた時には、別に成功報酬を出す」

「……!」


 眠るだけで三大銀貨は、今のジゼルには魅力的だった。四回寝るだけで、今月の学費が賄えてしまう。

 何より、あの使者の仕事を受けずに済む。


「……少し、考えさせて」


 ジゼルは、俯きながらそう言うしかなかった。要らないと、断固とした強さで言えない自分が、恥ずかしくてならない。

 だから、ジゼルは気付きもしなかった。

 父に鍛えられたとはいえタメもない女の拳で、イザークがいつまでも起き上がない理由も。来客があるというのに、いつも通り部屋を薄暗くした理由も。


「引き受けてくれるのなら、決してお前と家族に不利益が生じないようにすると誓う」


 既に半身をドアの隙間に滑り込ませていたジゼルに、イザークがまるで命をかけるように言う。


「だから、待っている」


 力強く続けられた言葉は、ドアの閉まる音に重なって消えた。




       ◆




「よろしかったのですか?」


 ジゼルが部屋を出て少しした後、別館唯一の老執事オーブリーがタイミング良く姿を現した。オーブリーが聞き耳を立てるはずもないし、こうなることが分かっていたのかもしれない。


「平気だ」


 イザークは、腹の痛みと全身にかかる気怠さをどうにか振り払って、ベッドから起き上がった。

 ジゼルが護身術程度を身につけていることは確認済みだったが、意外に威力があって不覚を取った。加えて希望と失望が続いた分、余計に心身に負担がかかっていたようだ。

 ジゼルが了承するまで弱味は隠すつもりでいたが、あれではバレてしまったかもしれない。


「オーブリー。しばらく大銀貨を大量に用意しておいてくれ」


 イザークはシャツの襟を正しながら、大股で廊下に出た。

 最初から、ジゼルがあのまま共寝を引き受けてくれるとまでは思っていなかった。先ほどは感情と期待が先走ってしまったが、元から今日は仕事に行くつもりだった。


「それは、坊ちゃまの財産から、ということでしょうか」


 ぴったり三歩分下がって追従しながら、オーブリーが確認する。

 十九歳にもなろうという男を掴まえて、いまだに坊ちゃまと呼ぶオーブリーの慇懃さに苦笑しながら、イザークは首肯した。


「当然だ。これでもだてに稼いではいない」

「しかしあれは、お母上様のために貯めてらしたものでございましょう」

「どんなに金を貯めても、死んでは助けられん」


 珍しく心配を声に出した老執事に、イザークは苦笑気味に正論を返した。

 ジゼルとの共寝は目的のための手段だが、そのために目的が叶わなくなっては元も子もない。そのくらいは承知している。

 だがオーブリーは、まだ納得がいかないような声で続けた。


「ずっと、お探しになられていた御方ではかったのですか? もう少し本音でお話しになれば、このような交渉など……」

「言うな」


 オーブリーの言いたいことを悟り、イザークは最後まで言わせる前にこの話を切り上げた。

 オーブリーは子供の頃から別館で働き、イザークの秘密も何もかも筒抜けだが、それでも、今は触れてほしくはなかった。


「……御意に」


 頷く声はまだ何か言いたげだったが、それ以上口を開くことはなかった。


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