第11話 堂々巡りと子供
「ジゼル! 手が空いたらこっちも頼む!」
「はーい! これ下ろしたら次そっち行きます!」
早朝から、ラシオン河の河岸は大勢の荷役人と大量の荷物で賑わっていた。桟橋と倉庫を行き来するのは屈強な男たちばかりで、まだ盛夏は先だというのに半数以上の者が上半身裸で鍛え上げた筋肉を晒している。
その間に揉まれながら、ジゼルもまた額に汗を浮かべながら、荷物を担いで走り回っていた。もう何度目か数えるのも無意味になるほど往復しているが、段取りを間違えると運ぶ数がぐんと減る上に、他の荷役人たちに邪魔扱いされ、酷い時には桟橋から落とされてしまうこともある。
だから、いつもは何も考えずひたすら効率的に動くのだが、今朝ばかりはイザークのことを考えずにいられなかった。
あの後、ジゼルは侍女のニネットが油紙に包んでくれたパンや肉などのおかずを大事に両手で抱えると、馬車でラシオン河の荷役場まで運んでもらった。
本当は先に家に帰って無事を伝えたかったが、昨日もらった仕事が日の出からの荷揚げだった。そこで一度遅れる許可を取ってから、ジゼルは全速力で郊外の自宅まで走った。
その途中で、まずファビアンに行き会った。どうやら、ジゼルが攫われたと思い、まず
もしかしたら、先日ぶつかった警邏が相手ではと貴族の屋敷まで行こうとしたが、馬車に乗るお金がなくて戻ってきた所だったらしい。
『無事で良かったよ。押し込み強盗みたいな勢いで連れていかれたから、心配したんだよ。知り合いだったの?』
知るわけないと言いたかったが、この後のことを考えるとそう言うのも矛盾が生じるようで、ジゼルは笑って誤魔化した。
その後、二人で家に戻ると、今度は母に心配された。
『何なのあの男。貴族でしょ。まさか、代わりに文句を聞いたのじゃないでしょうね』
貴族には少し敏感な母は、自分の苦情を娘が受けたのではないかと半眼で怒っていた。
これは全くの見当違いなので、ジゼルはからっと笑って否定できた。けれど続いた言葉には、やはり少しだけ胸が痛んだ。
『ジゼル。いつも言うけれど、嫌なことなどしなくていいのよ』
『私は母さまの娘よ? 嫌なことなんかしないわ』
そう気丈に笑って、ジゼルは河岸に戻ってきた。
(嫌なこと、かぁ)
ジゼルは今まで、辛いことや苦しいことはあっても、本当に嫌だと思うことはしなかったように思う。それはやはり父や母の言葉があったからだろう。
だが、ずっとそうやって生きてはいけないことも、ジゼルは気付き始めていた。
いつまでも子供の小間使いのままではいなられない。周りはジゼルを大人の女性として見るようになってきたし、そういう役目を求められることもある。男は少し笑って話せばすぐ手を出そうとするし、女性からは男を漁りに来ていると毛嫌いされる。
いっそ襲われる前に公娼になってしまえば、ある意味安全ではある。そう思っていた所にきたイザークの話は、正直とても魅力的だった。
(一人で寝たらゼロ大銀貨……二人で寝たら三大銀貨……)
初対面から強引で非常識で、最後は金に物を言わせる典型的な貴族のボンボンだったが、人を殺すことを考えれば、貴族と一度だけ一緒に寝るくらい、大したことではない。
(一人で寝たらゼロ大銀貨……二人で寝たら三大銀貨……)
そもそも、たとえ共寝したとしても、バレなければ何の問題もない。違えば二度と関わらないと言っているのだから、とっとと済ませてしまう方が賢いのかもしれない。
嫌だと逃げて追われ続ける方が厄介だ。
(一人で寝たらゼロ大銀貨……二人で寝たら三大銀貨……)
だが向かう先はあのエスピヴァン侯爵の大邸宅だ。夕方や朝方に見知らぬ者が屋敷を出入りしていれば、嫌でも目立つ。
だが待っていると言った以上、再び馬車で迎えにくることはないだろう。
(一人で寝たら……あぁもう分かったわよ!)
いつまでも同じ所を巡り続けるイザークの最後の言葉と自分の中の損得勘定に、ジゼルはついに見切りをつけた。
◆
河岸での荷揚げを終えたあと、いつもの翻訳の仕事と幾つかの雑用を済ませてようやく帰路に着く頃には、すっかり日が暮れようとしていた。
(一人で寝たらゼロ大銀貨……っていやいや! もう腹は括ったでしょ)
刻一刻と茜色に染まる夕空を眺めて、ジゼルの思考はまた堂々巡りを始めていた。そのため、ジゼルはふらふらと歩いてきた子供とまともにぶつかってしまった。
「っ」
「ご、ごめん! 大丈夫っ?」
慌てて、尻餅をついた男の子に駆け寄る。その姿を見て、ジゼルは益々心配になった。
「……ごめん、なさい。ちょっとふらついて……大丈夫です」
そう言いながら立ち上がった七歳くらいの男の子は、身形こそ上等だがあちこち泥がつき、手や足にも擦り傷らしきものもあった。どう見ても大丈夫には見えない。
ジゼルは、立ち上がってもどこかふらふらしている男の子に目線を合わせながら、その額にそっと手を当てた。
「……、あの……?」
「ちょっと、熱があるんじゃない? 怪我のせい?」
ジゼルのお節介に、男の子が驚いたように目を円くする。その後に一瞬見せた笑みが随分大人びていて、ジゼルは少しどきりとした。
「これは、その……ちょっと力を使いすぎただけというか……」
「力? やっぱり、喧嘩でもしたの?」
「え? あぁ、いや、そういうことじゃないので、本当に大丈夫です」
言いながら、男の子が逃げるように踵を返す。その腕を掴んでいた。
「待って。帰るなら送るよ」
喧嘩でないとしても、体調の悪い子供がこんな時間に市中を歩くのは危険だ。首都で人攫いに遭うという話は滅多に聞かないが、狡猾な連中はどこにでもいる。
だが、強制的に立ち止まらされた男の子は、その言葉よりもジゼルの左手を凝視しているようだった。
「……あれ……あなた、も……」
どこか驚いたように、ゆっくりとジゼルを見上げる。
「?」
ジゼルは首を傾げた。ジゼルの方も、気が付かないだけで熱でもあるのだろうか。
(あるかもね。知恵熱出そうだもの)
などと考えていると、優しく手を解かれた。
「何でもありません。お気遣い感謝します。あなたも、お気を付けて」
「え? っとぉ……」
まるで大人のような丁寧な対応に、引き留めるのも忘れて呆気に取られる。その間にも男の子は元気に走り去り、近くの路地を曲がってしまった。
どうやら、本当に大丈夫だったらしい。
「…………ちぇ」
遅れていく丁度いい口実を失ったジゼルは、仕方なくとぼとぼと家路に着いた。
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