第36話 迫る悪夢に幽かな魔力
部屋の前で、イザークは小一時間程は待っていたろうか。
がちゃり、と再びドアが開いて現れたのは、くたびれた老人だった。血の付いた布などを抱えているのを見るに、主治医らしい。
(助手じゃなく、わざわざ自分で?)
不審には思ったが、ルシアンの安否を聞くにはこれほどの適任もない。
イザークは、しんと静まり返ったドアの向こうを一瞥すると、廊下を進む主治医を追いかけた。
周囲を確認しつつ、使用人や護衛のいない場所に行くまで待つ。てっきり、自分用の部屋にでも行くかと思ったが、主治医は厨房に氷と水を貰いに寄ると、何故かそのまま引き返してきた。
「足りるかな……」
ぼそりと、そんなことを呟く。治療にでも使うのかと思いながら、イザークはついに声をかけた。
「おい」
「ひっ!?」
「は?」
主治医は、幽霊にでも遭ったかのようにその場に飛び上がった。ベルトランよりも幾らか年上の老人がそんなに驚いては、腰を壊すのではとイザークの方が驚いた。
不審に思いながらも、まずはと用件を切り出す。
「ご子息の容態はいかがか」
「え? あぁ、ル、ルシアン坊ちゃんですか? それは、あの……」
氷と水の入った桶を両手に抱えながら、主治医が目を泳がす。それは、救えなければ自分の首が飛ぶという心配というには、どこか毛色が違うようだったが。
「じゅ、重傷です……! こ、今夜が、峠、かと……」
「…………」
思い切ったようにそう言われ、イザークは半眼で詰め寄った。
「何か隠してるな?」
「え……っ?」
ごとりっ、と桶が床に落ちる。上等な毛足の長い絨毯に、水がぱしゃりと広がった。
◆
母の病気のこともあり、それなりに知識はあるつりもでいたジゼルだったが、森に入れば治る症状が一体何なのかは、見当もつかなかった。
しかしジゼルを見上げる少年の顔があまりに切羽詰まっていて、放っておくことができなかった。
ジゼルは仕方なく、少年をおんぶしながら、当初の目的通りミュルミュールの森へと足を踏み入れた。
「どう? 少しは良くなった?」
「はい、大分……」
背中でぐったりと体を預ける少年――ジュストが、疲れた声で返事をする。
更に森を進み、大分日が遮られる辺りに来たところで、ジゼルはジュストを木陰で休ませた。少しだけだが、顔色は良くなったようにも思う。
「今日は、久しぶりに暑かったからかな?」
ジュストの傍らに立ち、すっかり重なり合う葉の向こうに隠れてしまった陽光を見上げる。この森は、夏に来ても涼しい風が通る。
だがジュストの返事は、ジゼルが予想したものとはまるで違っていた。
「ここは、微弱な魔力がありますから……」
「魔力?」
「多分、お姉さんにも、少しはいいと思いますよ」
「私? なんで?」
「お疲れでしょう?」
「それは、まぁ、そうだけど……」
当然のように話を進められたが、ジゼルは文脈が分からず当惑した。
(なんで疲れていると森の中が良いの? 森林浴ってこと?)
その疑問を感じ取ったように、ジュストは「あぁ」と続けた。
「お姉さんも、少しだけど魔力がありますよね?」
「え?」
予想もしなかった問いに、ジゼルは目をしばたたいた。
魔力といえば、生まれた時に既にその能力は定まっているといわれるものの一つだが、発現するのは特に王侯貴族に多いと聞く。平民でも時折発現するとは聞くが、ジゼルは今まで生きてきて魔力を感じたことなどない。
「ご家族に、魔力持ちとかいませんか? 結構、遺伝もあると思いますけど」
「えぇ……? そう、なのかな?」
言われるがまま家族の顔を思い浮かべるが、当たり前というか思い当たることはない。
首を捻っていると、ジュストが大人のような苦笑をしなが、ぽんぽんと隣の地面を叩いた。
「一度、ここに座ってみてください。きっと楽になりますよ」
「……じゃあ、失礼して」
幼い子供特有の円らかな瞳に見上げられ、ジゼルは気後れしながら同じように幹に背を預けることにした。
土混じりの草の冷たさと、樹皮のざらざらとした感覚が服越しに伝わる。
(そう言えば、父さまについて行った時は、いつもこんな感じだったっけ)
こてんと、幹に頭を預ける。
途端、微睡みがジゼルを襲った。
(そういえば、昨日の夜から一睡もしてない、から……)
昨夜からの一連の出来事が、頭の中で何度もぐるぐると巡る。
静かに忍び込んだ屋敷の床、短剣越しに伝わるシーツを切り裂く感触、溢れた血の絡みつく粘り……思い返せば返す程、やはり他にやりようがあったような気がして、後悔ばかりが頭をもたげる。
「……ごめん、ね……ルシア……」
「お姉さん?」
トントンと肩を叩かれる感覚と声もまた心地好く、ジゼルはそのまま眠りに落ちていた。
――……けて……
声がする。
複数の木が、まるで一本の大樹の樹皮ように絡み合う、その向こう側から。
ジゼルはふらふらと引き寄せられるように、気付けばそっと触れていた。
それが引き金だった。
『――……ル、どこだジゼル!』
林立する木々の幹にこだまして、割れるような怒号が四方八方から響く。
『父さま……っ、父さま助けて……!』
重なり合う木々の向こうから現れた魔獣から、ジゼルは必死に目を逸らさずに叫んだ。一度でも恐怖から目を逸らせば、獲物として飛びかかってくると言われていたから。
けれど、牛のような頭に獅子のような鬣の、飢えて糸を引く太い牙が見せつける死の一文字に、ジゼルは我慢できず走り出していた。
『いやっ、来ないで……父さま……!』
腰ほどもある草の中を、両手で掻き分けるようにして必死で走った。腕は弾く枝で鞭打たれ、脹脛は葉で何度も切れ、体中傷だらけだった。だが死の恐怖の前では、痛みを感じる余裕すらなかった。
(死にたくない……来ないで! こっちに来ないで!)
八歳のジゼルは必死に願った。その願が通じたのか、走り続けたジゼルを捉えていたはずの血のような目が、すぅと動いた。
助かった、と思いながら、魔獣の視線を追う。
同じ年頃の少女と、それを庇うように立つ少年が、道の先にいた。
灰色の目と、目が合う――その視界を、泥のついた太い爪が切り裂いた。
『――きゃぁぁああああ!!』
真っ二つに引き裂かれた子供の肉が、ばたりと左右に倒れる。ぬらぬらと光る真っ赤な血が、道を埋め尽くすように広がっていく。
――……お前のせいだ
耳の裏側で、声がする。
――お前のせいで、みんな死んでいく
(……ちがう)
――お前が選択を間違えたから……お前がいたから……
(違う! 私は、みんなのために……!)
――お前さえいなければ、良かったのだ
それは、言葉で心臓を一突きにする剣そのものだった。
急所は過たず貫かれ、もう、違うと叫ぶ声はない。
ジゼルさえいなければ、全ては起きず、全てはあるべき場所に収まったかもしれないのに。
(私が、いたから……)
イザークは呪われて、ファビアンは公爵の跡継ぎにならず、母は治療を受けることができない。
そんなはずはないのに、一度考えれば、もうそうとしか考えられなくなって。
――私さえ、いなければ……
ジゼルの足元まで達した鮮血が、ごぽり、と気泡を吐く。湖面のように凪いだ血溜まりには、今にも気絶しそうなジゼルの顔がくっきりと映り込んでいた。
◆
「母さま。事情を確認して、すぐ戻ってきます。心配ありませんから」
そう言いおいて、十二歳の息子が扉を締める。その直前、小さな体に隠したつもりの、公爵家の紋章がちらりと覗く。
相変わらず、年に似合わぬ配慮と落ち着きぶりだ。
だが、その表情は明らかに強張っていた。
そんな姿を見る度に、ソランジュは自責の念で心が軋んだ。
(わたくしのせいで、二人とも大人になるのを急がせてしまったわ)
ソランジュは、日に日に重くなる体を両腕でどうにか支えながら、椅子から立ち上がった。引きずるように足を前に出しながら、引き出しに辿り着く。
その中には、幾らかの小銭と、この家には不釣り合いなほど歪みのない小さなガラス瓶が仕舞われていた。
昔、母を亡くして孤独だったソランジュに良くしてくれた医者が、どうしてもという時だけ飲むようにと渡してくれた薬だ。
小さなガラスの小瓶に入った液体は、魔力耐性を一時的に強め、体力や気力を向上させ、魔法使いであれば威力を僅かだが引き上げることができると言っていた。
だが、ソランジュに魔法は使えない。
この薬は、生まれつきの魔力を正常に操作できないために引き起こされる魔力循環不全の症状を、体内に留まっている魔力の流れを強制的に流すことで、一時的に改善させる代物だ。
それを小銭とともに懐に仕舞い、玄関へ向かう。
(お願い、私の体。どうにか持ちこたえてちょうだいよ)
室内を端から端まで移動しただけで、既に息が苦しい。日差しを直接浴びるのも久しぶりすぎて、眩暈がする気がする。
すぐに息の上がる肺をどうにか宥めながら、ソランジュは改めて日陰の外に出た。
乗合馬車の乗り方は、イヴァンに教わって知っている。旧市壁までは、どうにか辿り着けるはずだ。
イヴァンが旅に出る度に買い込んでくる魔道具はほとんど効果のないものだが、それでも前回持って帰ったものは少しだけ効いたように思う。小さな木製の飾りを連ねた首飾りで、付けていると呼吸が僅かにしやすい。
これで、どこまで行けるか。
(……馬鹿ね。そんなのは問題じゃないわ)
久しぶりに動いたからか、弱っていた思考が昔のように冴えわたる。
行けるか行けないかではない。
行きたいと望むのなら、どこへでも――地の果てまでも行く。
ソランジュ・レノクールとは、そういう女だ。
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