第28話 過去と事実
オーリオル公爵邸の正門に立つ門番は左右に二人。通用門には一人。庭園内で不規則に移動するのは複数人の庭師くらいだが、彼らも夕方より早い時間に居なくなる。
使用人の巡回は朝夕二回。通いの下人たちが帰った後にもう一度、住み込みの使用人が最後の確認に回る。
(忍び込むだけなら、そんなに難しくないのよね)
実際、今日の仕事の合間に煉瓦塀を乗り越えての侵入を試みてみたが、問題はなかった。その後庭園でルシアンの寝室を確認しようかとしていたところで、突然気配を消して現れた女性に声をかけられ、中断してしまったが。
(綺麗なひと、だったな)
母と同じ美しい金髪に、凛と強い碧眼。そして何より、隙がなかった。少し護身術を齧っただけのジゼルでは、勝つことはまず無理だろう。
(さて、どうしようかしら)
既に猶予は残り六日。準備は進めているが、気は全く進まない。
いつもなら仕事の合間にまた小間使いの仕事を受けたりして小銭を稼ぐのだが、今はそれも止めていた。六日後に自分がどうなっているか分からないのだから、無責任に仕事は増やせない。
だが仕事がないと時間を持て余し、また悶々とするという悪循環に陥っていた。
(まだ、早いけど……)
結局その日も、ジゼルは夕食の準備を済ませるとそそくさとエスピヴァン侯爵邸に向かっていた。
(……変なの)
イザークの元に行くのに、少しだけ足が軽い。添い寝という仕事があって良かったとさえ思っている。
(最初は、あんなに嫌っていたのに)
今朝の別れ際の笑顔が、不意を突いては蘇って、困る。
首筋に触れた、剣だこで硬くなった手の感触がまだ残っている気がする。
これから顔を合わせるのに、今まで通り何でもない顔ができるか自信がない。
そんな不安はけれど、別館に入った途端浴室ではなくイザークの寝室に通されてすぐ困惑に置き換わった。
「これは何だ?」
「え?」
言葉を交わすよりも先に左腕を掴み上げられ、ジゼルは平静を装うつもりも忘れてどぎまぎした。だがイザークの灰色の瞳を見上げた途端、胸がすっと冷めていくことを自覚した。
「この腕輪、どこで手に入れた?」
それは今朝の声調とは正反対の、酷く乾いた問いだった。怪訝には思ったが、隠すことでもない。ジゼルは正直に答えた。
「どこって……だから、父さまがくれたのよ。家に帰ってきた時に、寝込んでる私に、お守りにって」
「寝込んでた?」
「そう、ちょっと父さまの仕事についていって、大怪我したことがあって、それで暫く臥せってたから」
「怪我とは、九年前か」
「何で知って……あぁ、調べるって、言ってたものね」
驚きは一瞬、すぐに初日に言われたことを思い出す。
呪いを解くためだとは分かっている。だが、どこか裏切られたような気持ちがするのは、信じてみようかと思い始めていた矢先だったから、だろうか。
「その時に助けた兄妹のことを覚えているか」
「そんなことまで調べたの?」
ジゼルは呆れながらも、苦々しく答えた。
「覚えているわよ。あの時は……私が失敗して、魔獣を逃がしちゃって……」
「――――」
ジゼルの答えに、イザークが声もなく瞠目する。だがジゼルは、自らの悔悟に目を向けていて、それに気付かなかった。
九年前のあの日のことは、嫌でも忘れられない。
『ジゼル。あまり父さまから離れるなよ』
七歳になった頃から、父がジゼルの実戦に丁度いいからと、ミュルミュールの森に連れて行くことは度々あった。
だがその日は、慣れてきたこともあってか、油断があった。
『……だぁれ?』
声が、聞こえた気がしたのだ。
八歳のジゼルは気になって声のする方に歩いていった。森の奥には行ってはならないと、言われていたのに。
そして、無心に声の主を探して歩いて、奇妙な場所に行き着いた。
乱立する木々が四方八方に枝を伸ばし、まるで自然の檻のように行く先を塞いでいたのだ。それは左右に続き、ただでさえ暗い森の中、奥の方は影に沈んで見えなかった。
けれど何かが光った気がして、ジゼルは絡み合う枝に手を触れた。
それが眠っていた魔獣の眼光だと気付いた時には、手遅れだった。
『父さま……っ、父さま助けて……!』
太い角と牙を持った、牛のような頭に獅子のような鬣の、飢えた獣を前に、ジゼルは何度も転びながら必死に父の所に走った。
森の中には目印となるものが一つもなく、暗闇に引きずり込まれているような錯覚に陥ったのを今でも覚えている。腰に下げた短剣など、何の役にも立たなかった。
その後のことは、よく覚えていない。
魔獣の太い爪に何度も捕まりそうになりながら父に助けられたこと。
父なら倒せたはずなのに、ジゼルがいたせいで森の外まで逃してしまったこと。
父が討伐のために走っていくのを追いかけて、その先で魔獣に襲われそうになっている二人の子供に気付いたこと――。
「あの二人には本当に悪いことをしたと思ってるわ。安否を知りたかったけど、父さまは探しても分からなかったって……」
あの二人のことを考えると、今でも後悔で掌に汗をかく。男の子は蒼褪め、女の子は気が触れたように泣いていた。
ジゼルは恐怖よりも罪の意識で魔獣の前に飛び出し、短剣を構えた。だが魔獣の爪に一撃で倒され、その後の記憶はなかった。
父も、魔獣を倒してすぐ、血だらけのジゼルを抱えてすぐに家に帰ったという。
『ぼくたちは、馬車があるから……』
男の子が、そう言って送り出してくれたから、と。
『あの子がそう言ってくれなかったら、手遅れになっていたかもしれない』
回復したジゼルをきつく抱き締めて、父はそう言って謝った。
だから、ジゼルもずっとお礼を言いたかった。けれど結局会えなかった。
ジゼルはその後、二度と父についていくことはしなかった。
何でもできると思い上がっていた少女を打ちのめした、苦い、苦い記憶。
それを。
「俺だ」
イザークが、目の前に突きつける。
言われた意味が、すぐには分からなかった。
「え?」
「あの日、魔獣に襲われていたのは、俺と、従妹のリリアーヌだ」
「リリアーヌ……って、あの……」
いつの朝か、突進してきた少女の顔を思い出す。だがそれがすぐに記憶の中と結びつくことはなかった。
あの日、背に庇った二人の容姿は、実はよく覚えていなかった。涎がぬらぬらと糸を引く真っ赤な口腔の記憶ばかりが強烈で、そもそも二人の顔をまともに見ていないと、今更ながらに思い知る。
そのジゼルの腕を、イザークは更に力を込めて掴み上げた。
「ぃたっ」
「その腕輪を調べさせてもらう」
イザークが、大罪人を前にした警邏のように鋭く言う。思えば市中警邏隊の制服のままだ。
イザークは何かでジゼルのことに気付き、それを確かめるためだけに、ずっと待っていたらしい。
しかしこの腕輪は、父から唯一貰ったプレゼントだ。それに、片時も離してはならないとも言われている。
「でも、これは魔除けで、手放しちゃだめって……」
「渡さないのなら、お前がこの呪いの犯人だ」
「なっ……!」
戸惑うジゼルを、イザークは腕ごとドアに押し付けた。二人の体が昨夜と同じだけ近付く。だが睨み付ける灰色の瞳に昨夜の温かみなど微塵もなく、初めて会った朝よりも強い疑念が、そこにはあった。
「……分かった」
ジゼルは、本能的に抗っていた左腕から、ついに力を抜いた。
腕輪は大切だが、高級品というわけでもない。木の幹を割いて組み上げた工芸品は珍しいかもしれないが、どうせ父の手作りだろう。
イザークの疑うような力など、あるはずもない。
「好きにすればいいわ」
投げやりな気持ちで、何年振りかに腕輪を外す。勿論、何も起こらない。
「帰るわ」
ジゼルは、もうイザークを振り返りもせずに、先程くぐったばかりのドアから出ていった。外に出れば、空には一番星が輝き始めている。
(……傷付いてなんかいないわ)
自分に言い聞かせてから、歩き出す。
(私はジゼル・レノクール。気高い母さまの娘。嫌なことなんか、しないわ)
久しぶりに、子供の頃にはよく使っていた呪文を唱える。効き目があったかは、分からなかった。
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