第27話 秘密と疑念
顔を真っ赤にしながら走り去ったジゼルを見送りながら、イザークは再びベッドに身を預けた。
(何なんだ、あの反応は……)
昨日のジゼルの表情が、ずっと瞼に焼き付いて離れない。どこまでも深く澄んだ碧色の、吸い付きたくなるような潤んだ瞳。恥じらう頬。無自覚な少女が放つ、部屋中を満たすベルガモットよりも甘い匂い。
長椅子でジゼルの肌に触れた時、無理にでも話題を逸らさなければ、理性を手放しそうだった。
(手は出さないと、自分で言ったくせに)
もしあそこで箍を外していたら、きっとジゼルは二度と一緒に寝てくれなくなるだろう。
それだけはダメだ。
だがあの後、ベッドで遠慮がちに触れてみた時、ジゼルは跳ね退けなかった。まだ眠っていなかったのは分かっている。
(もし、明日も拒まれなかったら)
この九年、ずっと蓋をしていた感情が、むくりと頭をもたげる。
(礼を、伝えてもいいかもしれない)
微かな希望が、胸に萌す。
だがそれは、一時間と経たず壊されることとなった。
◆
「イザーク!」
食事を済ませ、これから出勤という時間に、リリアーヌが別館に突撃してきた。
「ねぇ、聞いてイザーク! すごいことが分かったの!」
「…………」
仕事の邪魔になるという点だけは既に聞き分けたと思っていたのに、今日はオーブリーの制止を一切聞く気がないようだ。
(せっかく、いい気分だっのたに)
イザークはげんなりしながら、諦めとともに出迎えた。
「リリアーヌ様。私はこれから仕事がありますから、用事があるならまた帰宅後にお願いします」
昔は毎日使っていた定型文で言い捨てて、リリアーヌの横をすり抜ける。その腕を、無遠慮に掴まれた。
「待って!」
「……ッ」
ぞわりと鳥肌が立つ。リリアーヌの纏う香水が、濃い化粧が、媚びた目元が、女を示す符合の全てが、イザークに拒絶反応を起こさせる。
(ジゼルなら全然平気なのに……ッ)
だがリリアーヌは気付く気もなく、歓喜の表情で身を摺り寄せてきた。
「イザーク、あの女に騙されてたのよ!」
「……何のことです」
無視すべきだったのに、イザークは不覚にもその言葉に問い返してしまった。リリアーヌが、更に色めき立つ。
「あの女はね、あの時の
リリアーヌのキンキン声に、イザークは嘆息とともに頭を押さえた。
(そうだった……)
リリアーヌが侍女を使ってジゼルのことを調べているのは知っていた。どうせ、イザークが調べた以上のことは出てこないのだから。
だが、問題はそこではなかった。
『あいつらよ! あいつらが私たちを殺そうとしたのよ!』
ジゼルに庇われ命拾いしたというのに、リリアーヌは侯爵邸に戻って意識を取り戻した途端、そんな風に喚き散らした。リリアーヌは魔獣が飛びかかってきた時に気を失ったため、その後の彼らの奮闘を見ていないのだ。
『私たちを誘拐したのもきっとあいつらよ。ねぇ、そうでしょ、イザーク』
イザークを独り占めするため、偽りの書置きをしてイザークを連れ出したリリアーヌ。そのせいでイザークは侯爵夫妻から問答無用で責め立てられたというのに。
自作自演がバレそうになると、リリアーヌは恥知らずにも自分の罪を命の恩人に擦り付けたのだ。
あのままリリアーヌの言を認めれば、侯爵夫妻はジゼルたちを探し出して殺してしまうかもしれない。
その想像は、十歳のイザークの心を罪悪感で押し潰すのに十分だった。
だから、最初の嘘を真実にした。
『リリアーヌを連れ出したのは、僕だ』
勿論、侯爵夫妻は怖かった。だが助けてくれたあの少女が代わりに死ぬのは、もっと嫌だと思った。
お陰でイザークはマルスランから死ぬほどの折檻を受け、母が止めに入らなければ本当に死んでいたかもしれない。
結局その後、マルスランは部下を使って真相を調べたらしく、リリアーヌの幼稚な嘘だったということは簡単に分かったようだが、それが白日の下に晒されることはなかった。
「……何度も説明しましたが、彼らは命の恩人であり、魔獣の発生は事故でした」
イザークは込み上げる苛立ちをどうにか喉元で押さえながら、リリアーヌの体を押し返す。だがそれで引き下がるはずもなく。
「そうじゃないのよっ。魔獣を呼び寄せたのが、あの女だったのよ。なんか、魔女の封印に触れた? 壊したのだったかしら? ともかく、そのせいで魔獣が暴れて森から出てきたって聞いたわ。あれは、私たちを守ったんじゃなくて、自分たちの失敗を誤魔化そうとしてだけなのよ」
どこで聞いたものか、よく理解もしていない伝聞を自慢げにまくしたてた。
そんな言葉など、信じるに値しない。
そのはずなのに、たった一つの言葉が引っかかってしまった。
「ジゼルが、魔女の封印を……?」
◆
第一王女を次期選王の対象にする。
そのためのすり合わせの一環としてオーリオル公爵邸に呼び出されていたヴィオレーヌだったが、ベルトランとルシアンから挨拶と称して根回しする相手の人数が二十を超えた辺りから、小用と偽ってずっと庭園をぶらぶらしていた。
(やはり性に合わんな)
ほぼ親子喧嘩のような議論も面倒臭かったが、終始微笑みを要求される顔合わせはもっと嫌いだった。
(近衛や武官相手なら、剣の一振りで話がつくのに)
だがヴィオレーヌが目指すのは、それでは許されない世界だ。今からこんなことで億劫がっていては話が進まない。ということは、頭では分かっているのだが。
(女王、か)
現実味のない響きだ。ヴィオレーヌが女王の座に就いたとしても、そこに至るまでに様々な貴族の手を借りるのであれば、結局今までの王政と大差ない。口煩く介入してくるのが、クロード家からフェヨール家に変わるだけだ。
(いっそ、全てを壊してみようか)
自嘲している間に、庭園がすっかり終わってしまう。そろそろ戻るかと視線を巡らせた時、妙なものが視界を過った。
(……?)
腰までの高さできっちりと刈り込まれた左右対称の几帳面な庭園の端に、誰かいた。庭師ではない。
ヴィオレーヌは警戒心と好奇心を一塊にして、その人影に近付いた。
「何をしている」
「ひゃっ!?」
狩りの途中に見つかった猫のように飛び上がったのは、十五、六歳の少女だった。栗色の癖毛をあたふたとさせながら、背後で腕組みをしていたヴィオレーヌに向き直る。
「あの、ちょっと、その……友達の様子が気になって」
少女は、ヴィオレーヌをちらちらと見上げながら、そう言った。その顔色は、青いというよりはほんのり赤い。
だが今回は、流石に表情よりも内容の方が気にかかった。
「友達? 誰のことだ?」
「えっと……ルシアンさん、です」
この辺りにいるルシアンといえば、公爵家の嫡男くらいだろう。だが少女の格好は貴族というよりも、町中で見るような素朴なワンピースだ。お世辞にも、首都でも一、二を争う屋敷に釣り合うようには見えない。
(市井の友人か?)
ルシアンは堅物で融通の利かない父親と違い、時折旧市壁を越えて身分の違う人々と交流している様子がある。先日も、新市壁の写字工房で面白い翻訳本を見つけたと言っていた。性格も、子供の頃の天狗に比べて、随分丸くなったし、いたとしてもおかしくはないが。
「何の用だ?」
「えっ、いえ、用っていうか……」
一歩歩み寄ると、少女は一歩半後退った。碧眼が、右に左に泳ぐ。
(さて、これはどうしようかな)
そうヴィオレーヌが口端を上げた時、少女は突然「この後も仕事があるので帰りますっ」と言いながら猛然と逃げ去ってしまった。
「ふぅむ」
少女の背が錬鉄の門の向こうに消えるのを見送りながら、一つ頷く。
そこに、相変わらずの息切れを上げながら、ようやくルシアンが現れた。
「遅い」
ひとまず、文句を言っておく。
「えぇっ? 中座すると言って全然戻ってこない殿下の方が遅い気が……」
ルシアンが分かりやすく困惑した。もう少し揶揄っても良かったが、ヴィオレーヌの危険認知とズレがあっても困る。
ヴィオレーヌは颯爽と屋敷に戻る道を行きながら、追従するルシアンに教えることにした。
「お前を待っていた少女がいたぞ」
「え? あぁ、遅いってそういうことですか? 女の子? 何歳くらいですか?」
「あれは……十五、六だろうか」
「……あぁ。栄養がね」
少しの間を空けて、思い当たったようにそう呟く。どうやら、少女の言は本当だったようだ。
「知り合いか?」
「いえ、どうでしょう……。知っている子には、ろくに食べられず、年より幼く見える子もいるので」
曖昧に笑いながら、ルシアンが少しだけ目を細める。その意味ありげな眼差しは、いつも敵ばかりの宮廷では見せない、どこか穏やかながら寂しげなもので。
「恋人か?」
「……僕が求婚しているのは、後にも先にも殿下ただお一人です」
にやにやとつつけば、ルシアンは榛色の瞳を紳士に光らせてそんなことを言った。頬がほんのり赤い。
(……相変わらず、愚かな奴だ)
王女の婚約者はまだ正式には決まっていないが、どんなに嫌がっても結局デュガ家の次男坊になることは目に見えている。クロード家の強力な後押しがあるからだ。
敵対しているフェヨール家のルシアンが、ヴィオレーヌと結ばれることはない。
たとえ、今回の法案が通っても。否、通れば益々、ルシアンに望みはなくなるだろう。ルシアンは、オーリオル公爵位の跡継ぎでもあるのだから。
(お互い、血と家からは逃れられぬのにな)
その全てを思い知った今でも揺るがぬ瞳を向けられると、胸がざわついて仕方がない。つい数年前までは、目線だって自分よりも低かったはずなのに。
この胸に灯る感情は、羨望なのか、焦燥なのか。
「早く私に勝てるといいな」
まだ目を背けていたくて、ヴィオレーヌは視線を前に戻して歩く速度を上げた。
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