第26話 傷と腕輪
手を繋いだまま、ジゼルはイザークの言葉を改めて思い返した。
「もしかして、一か月以内に片付くって言ったのは……」
「……伯父上が、奴の足取りを掴んだと言っていた。その前に見つけて殺さなければ、母の命はないかもしれない」
独り言のつもりで呟いた言葉に、イザークは顔を上げないままそう答えた。
(消えた使用人って、そういうことなのね)
自由に動ける使用人を使って、マルスランの動向を窺い、先回りし、最悪の事態を防ごうとしている。その計画性からも、イザークの言葉が衝動的でないことが分かる。
(実の父親なのに、なんて、綺麗事だよね)
ジゼルが父を好きなのは、父が必ず帰ってくるからだ。もし帰ってこないまま、母を不幸にするようなら、きっとイザークと同じようなことを考えただろう。
前国王の娘を母に持つ、フェヨール家の氷の令嬢と呼ばれた母。自分以外の女性を選ぼうとした婚約者に、母が何をしたかは知らない。
けれど子供の頃から家のため、王家のためと育てられ、自分を律してきたのに、相手の身勝手な心変わりのせいで家族からも見限られて、殺されそうになって、母は生まれて初めて、自分の力ではどうにもならない絶望というものを知ったと語った。
『もし父さまと出会っていなければ、きっとでっち上げられた罪を真実にしていたでしょうね』
そう笑った母の目は、まだ穏やかにはなりきれていなかった。
だから、きっと。
「……私も、母さまをまた危険に晒すなら、殺す……かもしれない」
呟きながら、一つの面影が胸を過る。
けれど。
「アレット・バイエか」
「え?」
思わぬ名前を言われ、ジゼルはぱちくりと目を瞬いた。
アレット・バイエ。母のかつての婚約者ラフォン・セシャン・ミユリーに嫁ぎ、伯爵夫人として三人の子を設けた幸せな
何も言わないジゼルに、イザークがそっと顔を上げる。ぶつかった瞳は、まるで何かを知っているかのように思わしげで。
「……『そんな些末なこと、忘れたわ』」
「え?」
「そう、母さまは笑ってた」
否定も肯定もできず、いつかに母が語った言葉を引用した。けれど裏を返せば、忘れなければ恨みが残ってしまうからではないかと、今では思う。
(やっぱり、私は仇を討った方がいい? 母さま)
直接、そう聞けたらいい。
母はきっと必要ないというだろう。仇ならば、自分で討つと。
でもそれが自分の心を殺して娘を守るための方便なら、ジゼルはやはり実行するだろう。そうなれば、母を余計に悲しませるだけだ。それでは本末転倒だ。
『我々ならばもみ消せる』
あの使者の言葉を、信じるしかない。
「……そうか」
イザークが、長い睫毛を揺らしてそう言った。
「やはり、忘れてしまうのが、一番いいんだな」
まるで親に置いていかれた子供のように、とても寂しそうに。
だから、ついまた項垂れたその頭を撫でていた。昨日、夢の中でしていたように。
「…………」
イザークが一瞬動きを止め、それから、再びジゼルの肩に額を預ける。重くて温かくて、くすぐったい。
「……昨日は、悪かった」
肩に吐息の熱を感じながら、イザークが言う。驚いて見れば、乾き始めた金髪の中に見える耳がほんのり赤くて、ジゼルは意地を張るのをやめることにした。
「私の方こそ、ごめんなさい」
昨日のこともそうだが、結局イザークはジゼルや家族を脅すと言いながら、何もしていない。一緒に眠るだけで、ジゼルに対価を与え、食事を与え、身綺麗にさせてくれた。母と弟も一緒に住むという提案も、今ならイザークなりの誠意だと分かる。
その全てを、ジゼルは理解しようと努力もせず、嫌悪感だけで拒絶していた。
もう少し早く話し合えば、二人はもっと分かり合えたかもしれないのに。
そんな後悔が、少しだけ頭をもたげた時。
「それと、もう一つ、謝ることがある」
「?」
「眠る時、お前に触れていないといけないみたいなんだ。だから……」
「…………。え?」
続けられた言葉を理解するのに、すごく時間がかかった。
視線を動かせば、イザークがいつの間にか顔を上げていた。互いの鼻が触れ合うほどに、顔が近い。
「えっ!?」
驚きすぎて、ずりっと背もたれから体が落ちた。その首筋を、骨張った大きな掌が受け止める。そのせいで、長椅子に倒れたジゼルの上に、イザークが覆いかぶさる形になっていた。
「あ、あの……っ」
事態が呑み込めなくて、言葉が上手く出てこない。薄い下着越しに、どくどくと脈打つ熱が伝わって首筋がぞわぞわと粟立つ。
今更ベルガモットと石鹸の香りに混じって、イザークの汗の匂いがする気がして、くらくらする。
(に、逃げなきゃ……! いやでも何もしないって言われたんだった!?)
どうするのが正解か分からなくて、言葉が出てこない。今までだったら先に手が出ていたが、さすがにそれが正解でないことくらいは分かる。
「……ジゼル」
「!」
初めて名前を呼ばれ、ぞくりと背筋が震えた。唇が近いからか、意識のし過ぎか、どことなく声質まで甘く聞こえるのは何なのか。
(なんで、急にそんな風に呼ぶのよ……!?)
しかしその訴えが声になるより先に、うなじにあった大きな手が、今度はゆっくりと肩を滑っていく。
「……イ――」
なんと返したら良いのか、もう頭は動いてないも同然だった。唇が、勝手に音を紡ぐ。その寸前。
「……この、傷」
イザークが、ジゼルの右肩で手を止めた。その眼差しの真剣さに、ジゼルは少しだけ我に返った気持ちで「あぁ」と苦笑した。
「これね。昔、父さまの仕事についていった時にヘマしてついた傷なの」
ジゼルの背には、右肩から背中にかけて、大きな裂傷痕が斜めに刻まれていた。胸元が大きく開いた下着だから、少しだけ覗いてしまったようだ。
(もう九年くらい前になるのかしら)
当時は父についてあちこち回るのが楽しくて、半分くらいは父の言いつけを守っていなかった。近所の悪ガキには負けたことがなかったし、中途半端に自信があったのだ。そのせいで何度も失敗したが、この傷の時は特に最悪だった。
森の魔獣を刺激し、自分だけでなく、無関係な兄妹まで巻き込んでしまった。兄妹だけは必死に守ろうと庇った時に魔獣の爪にやられたのだ。父が駆けつけるのが少しでも遅ければ、三人とも死んでいただろう。
ジゼルはそのせいで一ヶ月近く寝込み、母からも以降冒険禁止を言い渡された。苦い思い出だ。
「消えないのか」
「うーん……でもまぁ、背中だし、生きてるし」
イザークの聞き方があまりに深刻で、ジゼルは誤魔化すように笑うしかなかった。
(やっぱり、貴族の婚約者にこんな大きな傷痕って、ダメだよね)
貴族の女性ならば、肩や背中の空いたドレスも着るものだ。傷のある妻など、論外だろう。
(って、いやいや、なに考えてるの私!?)
さっきから思考が変な方にずれている気がする。婚約者など、変な噂が立つ前に作ったただの名分に過ぎないのに。
収まったと思ったのに、また顔が熱い。
などと考えていたら、突如体がふわりと浮き上がった。
「へっ?」
見れば、イザークがジゼルを横抱きに抱え上げていた。そのまま、当たり前のようにベッドに向かう。
「ちょっ、何で……!?」
「大人しく運ばれていろ。……傷に響く」
進行方向を向いたまま、イザークが素っ気なく言う。その横顔に一瞬見惚れ、
「……もう、痛くない、けど」
「…………」
小さな声でぽそりと言ってみたが、返事はなかった。
そのまま、いつもよりずっと丁寧にベッドに降ろされる。
ジゼルはどうして良いか分からず、結局いつものように背を向けてひたすら眠りを待った。
その背後で、イザークもぎし、とベッドを軋ませて布団に入る。目を閉じている分、背中越しに感じるイザークの体は、酷く大きく感じられた。
「……すまない」
小さな謝罪のあと、シーツの上からジゼルを包むように腕が回される。反射的にびくり、と体が強張ったけれど、跳ね退けることはしなかった。
既に寝たふりをして、その重みと体温を、本当に寝入るまでどきどきしながら感じ続けた。
(イザークが、優しい……)
想像もしていなかった事態に、頭が追い付かない。
そしてそれは、朝が訪れても続いていた。
「ん……」
近くで動く気配がして、ジゼルもゆっくりと覚醒する。
「……ん?」
開けた視界で、イザークが不貞腐れた顔で、ジゼルの腕と腕輪を弄んでいた。
思わず自分の腕を胸元に取り返す。
「なっ、何してたの!?」
「……その腕輪、いつも付けてるなと思って」
「え? あぁ、これ、魔除けだから」
「道理で……微かに妙な気配がすると思った」
「気配?」
何のことかと、首を捻る。だがその疑問を口にする前に、半眼で勘繰られた。
「男か?」
「父さまよっ」
「そうか」
食い気味に赤面して答えれば、何故か今度はにやりと頷かれた。
不機嫌は治ったようだが、なんだか釈然としない。
昨日からイザークが変なので、今日も早々に退散しようとドアを目指す。その背に、随分機嫌の良さそうな声がかかった。
「ジゼル」
「!」
「ありがとう。今日もよく眠れた。また、今夜」
「…………!」
初めて聞くお礼はまるで少年のような満面の笑みなのに、最後に結ばれた約束がどうにも大人の色気を醸していて、ジゼルは言葉も出なかった。
(確かに、お礼がいいとは言ったけど! 笑ってほしかったけど!)
何かが違うと、ジゼルは顔を真っ赤にしながら侯爵邸を飛び出した。
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