第29話 不審と不穏

 郊外の自宅に辿り着く頃には、日はすっかり暮れていた。だが寝静まるにはまだ早い。

 ジゼルは蝶番がきぃきぃと鳴る玄関扉を、少しだけ押し開けて静かに滑り込んだ。椅子兼寝台の長櫃に、ファビアンはいない。まだ勉強中のようだ。

 食事は、既に片付いている。食卓に使う架台も片付かれ、主室はいつも以上にしんとして、どこか他人行儀に思えた。

 竈の火は消えているが、自在鉤に掛けた鍋にはまだスープが残っている。それを少しだけ腹に入れると、ジゼルはそのまま長櫃に横になった。

 シーツを広げるのも億劫だった。瞼に腕を乗せ、そのまま眠気を待つ。

 だが案の定、眠気は少しもやってこなかった。胸の奥がざわついて収まらない。何もない左腕が、軽すぎて居心地が悪い。

 結局、夜が更けても闇に目が慣れるだけで、ジゼルは諦めて身を起こした。


「内職……は、ないんだっけ」


 カード作りは、先日納品が終わり、新しい仕事は断ったばかりだ。薪割りは、深夜にするには音が響く。あれこれと考えてみるものの、時間を潰す手段は見当たらなかった。


(楽に稼げる仕事、向いてなかったみたい)


 内省する時間も、思索に耽る時間も、今までの人生にはないもので、ジゼルはどう扱っていいのか困り果てた。

 イザークのことを考えねばならないような気もするけれど、上手く考えが纏まらない。


(明日……謝りに行った方がいいのかな)


 呪いがジゼルのせいだと言われても、あの魔獣以外に思い当たることなどない。けれどジゼルにはその呪いを解く術もなければ、どう償っていいかも分からなかった。

 何より、あの腕輪を調べて、もし本当にジゼルが原因だと言われたら。


(……平気よ。いつもそうだったじゃない)


 ぎゅっと目を瞑り、自分に言い聞かせる。

 子供の頃もそうだった。あの『悪役令嬢』の娘だと知られると、途端に仕事を取り上げられた。当たり前のように掌を返され、石を投げられた。

 何も変わらない。


(そうだ……手紙、書かなきゃ)


 イザークのことがあって忘れていたが、大事なことだ。

 ジゼルは長櫃の中から連絡用に使っている上等な紙と羽ペンを取り出すと、月明かりを頼りに日付や時間、大まかに決めている内容を走り書きした。


(明日は、これを渡して……その後、侯爵邸にも、寄ってみようかしら)


 うん、そうしようと、手紙を書き上げる頃には、幾分か気持ちは持ち直していた。

 けれどその後にファビアンが眠りに来て一緒に横になったものの、結局眠気が訪れることはなかった。




       ◆




「……ん……」


 朝、ファビアンは荒々しい水音が耳について目を覚ました。


「姉さま……? もう戻ったの……?」


 昨日も遅くまで勉強していたせいで、まだ瞼が開かない。目を擦りながら炊事場の方を見れば、姉が何かをごしごしと洗っているのが見えた。

 そこで、やっと違和感を覚える。


(あれ? そう言えば、昨日の夜にも姉さまがいたような……?)


 姉はここ一週間、侯爵邸で夜間の仕事をすると言って、寝る時はいなかったはずなのに。


「姉さま、何して……ぎゃ!」


 不思議に思って覗き込んだ姉の顔は、人でも殺してきたかのように血塗れだった。乾いた血のせいで、辺りが鉄錆臭い。


「ななっ、なにを……何をしたの!?」

「何って……血抜きだけど」

「へ?」


 蒼褪めてのけ反るファビアンに、ジゼルが呆れながらあっさりと答える。ファビアンは恐る恐る流しの中を覗き込んだ。

 その言葉の通り、水を張った盥の脇には、ぐったりと伸びた茶色い毛皮の小動物が広がっていた。他にも、久しぶりに見た姉の短剣や革袋、布などが折り重なっている。


「あぁ……野兎?」

「そう。丁度捕まえられたから、今のうちに下処理して、夜ご飯にしようかと思って」


 言いながら、また兎の皮を剥ぐ作業に戻る。その手元は、何だか軽やかだ。


「……なんか、随分元気だね?」

「そう? 久しぶりの獲物だからかしらね?」


 姉が野生の動物を狩ってくるのは確かに久しぶりだ。ここ最近は仕事を入れすぎて、動物を狩る時間もなかったから。


(時間があるのは、やっぱり侯爵邸の仕事を受けたからなのかな)


 良いことのはずなのに、何かが引っかかる。


「姉さま、大丈夫?」


 ファビアンは、理由も分からず、ついそんな風に聞いていた。


「大丈夫よ」


 姉は、振り返りはせずに、朗らかにそう答えた。

 だから、ファビアンは確信した。


(何かあったんだ、きっと……)


 ファビアンはまだ十二歳だが、姉が落ち込んだ時にはわざと忙しくすることを知っていた。そしてそんな時、母が無理やり聞き出さない限り、決して正直に言わないことも。

 だが何度大丈夫かと尋ねても、姉は平気と答えるだろう。姉は母や弟を守るべき者と決めてから、姉は一度も弱音や愚痴を吐いたことがなかった。

 こんな時、ファビアンはいつも自分の幼さが嫌になる。

 必要な資格を取得して学校を卒業するまでには、最低でも六年は必要だ。突然現れ、レノクール家の財政をあっという間に向上させてしまったあの侯爵子息のようになるには、更に長い時間と労力がかかるだろう。


(早く、姉さまの力になりたいのに)


 だがファビアンの心配の甲斐なく、翌日以降も姉の様子は変なままだった。

 翻訳の仕事には、毎日行っている

 朝方の仕事や内職を全く入れていないことや、夕方早くに帰ってくることも、まだいい。収入の良い仕事があるのなら、他の仕事を詰め込む必要がないのは普通のことだ。

 仕留めた獲物の血抜きを家の中でしていたのも、変ではない。庭では、野生動物が血の匂いに引き寄せられてしまうから。

 滞りがちだった薪割りを、まるで一年先の分まで作っておくように山積みにしていたのも、まぁ、今までにもたまにはあった。

 だが内職はもうしていないはずなのに、目の下にうっすら隈ができ始めていることは明らかに変だし、夜にはこそこそとどこかに出ているのも気になった。


(姉さま、また一人で抱え込んでるのかな……)


 そんな日が三日も続き、ついにファビアンは姉にもう一度尋ねることにした。


「姉さま、いつも夜に何してるの?」

「え? 狩りよ。時間のある今のうちに、保存食も作っておこうと思って」

「これから夏になるのに?」

「しばらくは持つわ」


 今朝も仕事はないはずなのに日の出前から炊事をしていた姉が、振り返りもせずそう答える。

 ファビアンは今朝の予習は止め、手を止めない姉の横に並び立った。


「姉さま、今度は何を隠してるの?」

「……や、やぁねぇ。何も隠してなんてないわよ」

「正直に言わないなら、母さまに代わってもいいんだよ」

「え」


 半眼で言えば、姉がぎくりと肩を揺らした。姉は、強がるのは得意だが、嘘はいまだに下手だった。

 じぃっと顔を見つめて切り札をちらつかせれば、すぐに観念した。


「……別に、隠し事って程じゃないけど。侯爵邸の仕事に、ちょっと、問題が起きて」

「また暴れたの……?」

「すごい偏見! 違うわよ」


 また口より先に手が出たのかと思ったのだが、姉は苦笑しながら否定した。だがすぐにその瞳を僅かに翳らせて、こう続けた。


「でも、もしかしたら、これから数日は、帰れない日が続くかも」

「そうなの?」


 それは、今までにも何度かあったことではある。繁忙期などは泊まり込んで手伝うのだ。だから、ファビアンは深く追求しなかった。


「そうなったら、母さまをよろしくね」

「うん。任せて」


 いつもするような会話を交わして、胸を叩く。

 姉が姿を消し、オーリオル公爵の使いを名乗る者が現れたのは、その翌日のことだった。




       ◆




 日が傾き始めたことで途端に暗さを増した森の中で、ゴベールは不安と焦燥から更に声を荒げていた。


「逃がすな! 左右から回り込め! 今度見失ったら次はないぞ!」


 共に森に入った部下四名に何度目とも知れぬ檄を飛ばしながら、自身も必死に光の射さぬ森の奥に目を凝らす。

 腰まである草や、縦横に張り出した枝の向こうに、一人の男の影が見える。先程まではあと少しという距離に思えたが、森が深くなるにつれ、その距離は再び離れつつあった。


(王子と聞いていたのに、まるで野生の猿じゃねぇか)


 ミュルミュール森林は、外縁部であれば普通の野生動物や植物が繁茂しているだけだが、少し奥に足を運ぶと、途端に昼でも陽の射さない陰鬱な空間になる。木々は一切間伐されず、根が地上に大きく張り出して波打ち、進むだけでも困難だ。

 暗闇に慣れない目では足元も覚束ず、気を付けて進まなければ二、散歩で方向感覚を失ってしまう。初めて《奥》に踏み込んだ時には、ここだけ世界が切り離されているように感じたものだ。

 だが何よりこの森を不気味にしているのは、時折聞こえてくる声だった。


《クスクス。クスクス……》


 人語を弄して人々を惑わす虫や獣、弱い魔獣たちが、まず現れる。不気味な謎かけのような言葉を無意味に散りばめて、やってきた者の心を惑わすのだ。


《愚か者が歩いている。餌を抱えて歩いているよ。美味しそう、美味しそう。そのまま進め、迷って進め、魔女の髪に気をつけて》


 女のような、男のような、低く地を這うような不気味な声。それは一歩進むごとにはっきりと、直接鼓膜に響くようだった。


(早く……早くここから出ないと……!)


――……帰さない……


 魔獣とはまた別の声が、呪いそのもののように、おどろおどろしい気配を放つ。その気配が、一歩進むごとに皮膚から染み込むようで、ゴベールは耐え切れずにまた叫んでいた。


「早く捕らえろ! 最悪口が利ければいいと言われている! 下半身を狙え!」

「で、ですが、奴は現れてはすぐ消えてしまい……!」

「なら草ごと焼き払え!」


 森の《奥》に分け入ってから、部下は明らかに弱腰になっている。ゴベールは自分の持つ松明を大きく振り回しながら、手当たり次第に草に押し付けていった。

 その手に、黒い靄がかかった。


「ヒッ」


 本能的に手を引く。だが黒い靄はまるで意思があるように、ゴベールの体に纏わりついてくる。

 声が、更に煩くどよもす。


――……その体、ちょうだい……!


「やめ……やめろ!」

「隊長!?」


 闇雲に松明を振り回すゴベールに、左右に広がっていた部下たちが恐れ戦いて集まりだす。

 その騒ぎに、更に厄介なものまで引き寄せられた。

 グルルゥゥ……


「!」


 魔獣だ。木々が作る闇に潜み、黒い靄をまるで生気を取り込むように纏いながら牙を露わにする、狼に似た異形。


「ま、魔獣だ!」

「魔女が怒ってるんだ……!」


 たった四人の部下が、大型の狼に恐れをなしてじりじりと下がる。その恐れを敏感に読み取った魔獣が、涎を垂らして無抵抗の獲物に狙いを定める。

 離れていてなお、喉元に牙が立つ感覚が怖気を呼ぶ。その恐怖に晒されながら、ゴベールは見た。狩猟態勢に入る魔獣のその奥、昏い森の枝の上に易々と立ち、矢をつがえた弓を悠々と引き絞る男の姿を。


(あんなの、捕まえられるかよ……)


 絶望感で立ち尽くすゴベールの耳に、鋭い弦音がカーンと鳴り響いた。

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