第54話 素敵な話に不器用な愛

 テオフィルの喉元に剣先を据えたまま、イザークはずっと堪えてきた言葉を吐き出した。


「五年もミュルミュールの森でふらふらしてただと?」


 ヴィオレーヌの言うまま語り出した時から、否、ジゼルに潰されている間に母とこの男が抱き合っていた時から、イザークの中の疑念は殺意と敵意の間で揺らいでいた。


「イザーク……」


 ジゼルが、心配げに裾を引く。イザークもジゼルとは早く話して謝りたいが、それでもこの怒りを押し殺したまま冷静な話し合いができるとは思えなかった。


「その前はどこで何をしていた」

「前ってのは、何のことだ?」


 焦眉の剣もまるで見えないように、テオフィルが肩を竦める。その恬然として恥じない態度に、イザークの我慢はあっさりと限界を超えていた。


「ふざけるな! 身籠っていた母上を森に置き去りにして、迎えに来るなどと世迷言を吐いて消えた後のことだよ!」

「イザーク!」


 ジゼルの制止の声も空しく、考えるよりも先に踏み込んでいた。刃先が喉元に食い込む――寸前、ひらりと難なく避けられた。


(速い!)


 そう目を瞠る間に、そのまま剣を握る腕を取られて背中を取られる。気付けば、イザークは鮮やかにも床に引き倒されていた。


「これが、俺の愛息子か?」

「誰が息子だ! 退け!」


 イザークの背に片膝を乗せながら、テオフィルが傍観を決め込んでいたシャーリーに暢気に問いかける。これにも勿論腹が立ったが。


「えぇ。あなたに似て元気で素直で可愛いでしょ?」

「なっ……!」


 十九年間女手一つで育ててきた息子を足蹴にされながら、実に満足げに頷く母にも、イザークは血管が切れそうだった。

 そして思い出す。


(そういえば、なんか意味もなく騙されてたんだった……!)


 十数分前ににこやかに打ち明けられた真実を思い出し、ガンガンと頭が痛くなってきた。

 ずっと、愛する人に捨てられた傷心を抱え、心を病んでしまうくらい弱いひとだと思っていた。自分が守らなければと必死だった。

 だが本当の母は、虐げられてもへこたれず、辛い仕事を平気にこなし、いつか来る活路を掴むために、虎視眈々と準備を進めて機会を窺っている、強かな女性だった。

 それはある意味、イザークの奮闘に期待していなかったとも取れるが。


「やんちゃで単純馬鹿そうなのは認めるが、少々年を取りすぎではないか? とても五歳の息子には見えん」

「誰が単純馬鹿だ!」

「あら、いやね。あなたが無謀な旅に出てから、ゆうに二十年は経っているのよ。普通の子供なら、それ相応に年も取るわ」

「否定するのはそこだけか!?」

「冗談はよせ。だとしたらお前まで二十歳年を取ったということになるが、説得力はまるでないぞ」

「まぁ。相変わらず口だけは達者ね」

「頬を染めて喜ぶな……」

「口だけじゃない。お前を喜ばせることならなんだって達者だぞ」

「…………」


 にやにやと、髪も髭ももじゃもじゃの浮浪者もどきが、歯の浮くようなことを言う。ここまでくると、最早この怒りの矛先が正しいかどうかさえ分からなくなりそうだった。

 しかもそれをジゼルに聞かれているのかと思うと、もう顔も上げたくない。

 だがそれも、次に母が返した言葉に全て掻き消された。


「私を泣かせるのも、あなたが一番達者よ」


 その声は、どこまでも軽く冗談めかしていながら、震えるほどの哀切と情愛を内包していて。


「……?」


 イザークの背中にあった重みが、ふっと消える。ハッと顔を上げれば、テオフィルがシャーリーをきつく、きつく抱き締めていた。

 身形も年も、生まれも生き様も何もかも違う二人。けれど互いを抱き締める二人は、まるでそのためだけに生まれてきたようにぴたりとくっつき、そこに他のものなど、言葉の一つさえ差し挟む隙間はなかった。


「……っ、……」


 くぐもった、母の嗚咽が聞こえる。十九年一緒に暮らしていて、思えば一度も聞いたことのない声。それさえも、テオフィルはまるで誰にも渡すまいというように、固く抱き込めて離さない。


「……やっぱり、素敵な話ね」


 声にできず呆けていたイザークの横に膝をついて、ジゼルが小声で囁く。見上げれば、柔らかく細められた碧眼がイザークを優しく見つめていた。

 いつか、長椅子で並んで話した夜を思い出す。

 ジゼルが素敵と言ってくれた、恋と決意の話。


「五年間、あの森を領地にするために、一歩も外に出ずにずっと頑張っていたらしいわ」


 その言葉に、くそ、と悪態を吐くので精一杯だった。

 イザーク母子が侯爵家で嫌われていたのは、そもそもテオフィルがシャーリーを嫡子として認めるようにあらゆる手でしつこく直談判したからだ。

 それだけではなく、シャーリーを王子妃として迎えられるよう、国王や上位貴族に何度も交渉したことも知っている。テオフィルが王籍を外れるという提案にはシャーリーが猛反対したが、噂が流れてシャーリーが何度も命を狙われたこともある。

 二人で逃げる選択は、決して全てを諦めたからではないと、本当はこの十九年間で嫌でも知っていた。


「…………バッカじゃねぇの」


 床に座り直し、俯いてそれだけを吐き出す。

 溜まりに溜まった十九年分の蟠りと鬱憤が、そんなことで晴れるはずもない。だが、熱くなった自分の頭を抱きしめる腕の温かさと、頬に触れる栗色の癖毛のくすぐったさが心地好くて、今だけはもうどうでも良い気分だった。




「全く、騒がしくてかなわんな」


 それをずっと無言で眺めていたベルトランが、やっと一言口にする。

 その小さな声を、やはり同じく蚊帳の外だったファビアンは聞き逃さなかった。


「ここまで、見通してたんですか?」

「さすがに、魔女の封印までは思惑には入れておらん」


 まるでそれ以外は計算通りだとでも言うような口振りに、ファビアンはこの祖父という人物が益々分からなくなった。

 話に聞いた時は、娘を政治の道具のように扱い、利用価値がなくなったと見た途端捨てた、冷血人間だと思った。

 こうして会ってみれば、姉を犯人だと決めつけ、死にそうな息子にも無関心で、やはり人の心がないと感じた。

 けれど祖母のアメリーや母が現れた辺りから、何となく察してしまった。


(この人、とっても不器用だ)


 母が老主治医と会っていたと話した時、アメリーはそれ自体に驚いたのに、ベルトランは薬という単語に反応した。


「病名、知らなかったんですね」

「……頑固者が言わぬのであれば、知りようもない」

「でも、お祖母さまがこっそり援助していることは知っていた」

「…………」


 あの直後のアメリーの発言に、ベルトランは一言も疑問を差し挟まなかった。


『まさか、ワトーあなたに援助をしていたの?』


 あれはつまり、アメリーもベルトランの目を盗んで何かしらの援助をしていたということだろう。

 今思えば、父はアメリーの援助を知っていたのだろう。だからこそ、母の病気を治すための道具ばかり買い込んでこれたのではないか。


 ソランジュがマルスランに頬を叩かれた時もそうだ。皆は気付いていなかったようだが、ファビアンは見逃さなかった。ベルトランの形相が一瞬、鬼のように殺気を帯びたことも。

 そしてそれは、マルスランが母を糾弾し始め、アレット・バイエが登場した時に頂点を極めた。

 だがそれでも、ベルトランは取り乱すことはなかった。

 あくまでも、最終的な目的――マルスランの罪を暴くことに注力した。

 そしてそこにも、ファビアンが不器用だと感じた疑問があった。


「何故、殿下を招き入れたのですか?」

「……娘を切り捨てておいて、弟を庇うことなどあるものか」


 第一王女ヴィオレーヌを追い返せば、弟の罪を隠蔽することも不可能ではなかったろうに。ベルトランはそうはしなかった。娘の時と同様、あくまで罪を罪として扱った。

 だからこそ、過去に父が受けた言葉が、別の意味を持って蘇る。


『自分の失態を受け入れる度量もない未熟者に与える慈悲はない』


 それはもしかしたら、娘を切り捨てるしかなかった現状を、甘んじて受け続ける覚悟を表していたのかもしれない、と。


「会いたいなら、普通に会えばいいのに」


 ぼそりと言えば、ベルトランが初めてバッと視線を向けてぎょろりと睨んできた。

 だが背景が分かれば少しも怖くないと、ファビアンは苦笑した。

 母が領地に送られた時の馬車襲撃も、よくよく考えれば不自然な点が幾つもある。

 公爵家からの刺客ならば、母は父と出会った後も何度も襲われたはずだ。だが二人にそれを警戒する様子は一度もなかった。

 一方の公爵家も、公には捜索隊を出しているが、それもすぐに消息不明で処理している。殺そうとしたのであれば、死亡で発表した方が何かと都合がいいはずなのに。


 恐らく馬車襲撃は本当にただの偶然――野盗などの仕業だったのだろう。だが母はそれで父と出会い、領地に向かわないという決断をした。

 その時、アメリーに嘘の到着連絡か、或いは既に本当のことを報告したのかもしれない。心配ないと伝えたが、アメリーはどうしても気になって様子を見に行っていた。

 首都の郊外に居を構えたのも、もしかしたらアメリーの説得があったのかもしれない。

 そして妻がそこまで動けば、夫に気付かれない方がおかしい。


 ベルトランは結局、最初から全て知っていて距離を置き、会わないという罰を受けることで、娘が受けた罰に釣り合おうと考えていたのではないか。

 そう仮説を立てれば、色々と辻褄が合う。

 だがマルスランが良からぬことを考えて、動かざるを得なくなった。


「姉さまが現れなかったら、どうしていたんですか?」

「この場には、ルシアンと第一王女殿下、そしてマルスランがいれば事足りた。ジゼルには、全てが終わってから、ルシアンから迎えを寄越す予定だった」

「あくまでも、自分は関わらないつもりだったんですね」

「……わざわざ、憎い者に会う道理などなかろう」

「……ふふっ」


 何故と聞いたつもりではなかったが、そんな返事があって、ファビアンはついに笑ってしまった。眉間に皺を寄せて言うところが、またどこか可笑しい。


「ほんと、母さまにそっくりだ」

「…………」


 堪え切れずに声を上げて笑えば、ベルトランが益々仏頂面になる。

 そのやり取りに気付いたジゼルが、何事かと顔を上げる。

 その光景が、まるで家族が揃った我が家のように和やかで温かで、この部屋に閉じ込められた時に感じた冷たさなど、もうどこにもなかった。

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