終章

「ジゼル! 今日は随分ご機嫌だな」

「それはもう! 今日は何たってお給金の日だからっ」


 新しい仕事場でのお使いからの帰り道。ジゼルはこの後に待っている給金にうきうきしながら、市場の顔馴染みの店主に向かって陽気に手を振り返した。

 写字工房での翻訳の仕事から新しい仕事に移って、既に三週間ほどが経っていた。

 初めは仕事に慣れるというよりも、仕事をできるようにするための仕事に追われていた。が、最近は少し落ち着いて、今日はやっと初めてのお給金が出せると言われたのだ。

 だが最近の食卓には、ちゃんとまともな野菜や肉が並んでいる。ファビアンの進学も、もう費用面では心配の必要がなくなった。市場で目を皿にして、一番安くて量の多い肉を探さなくてもいい。

 それでも、大通りを行けばあちこちから声がかかるのは前と同じだった。


「ジゼル、この前の薬、助かったよ! またお願いしてもいいか?」

「効いて良かった! 店主に伝えて用意しておくね!」

「ジゼル、今度また来てくれないか? 看てもらいたい奴がいるんだ」

「もちろん! いつもの場所でいい?」


 代筆屋のおじさんや、水運びの屈強なお兄さんが、ジゼルを見かけては声をかけてくれる。

 本当はもう隙間仕事を必死で詰め込まなくてもいいのだが、新しい店主がジゼルの行く先々で店を紹介しくてれたら助かると言ってくれたから、変わらずあちこちに顔を出していた。

 今では仕事を貰うというよりは、仲介役で行くことの方がずっと多い。


 そんな風にしてジゼルは市場を足早に通り抜け、新市壁も越えると、ミュルミュール森林の外れに建つ小さな小屋へと元気に飛び込んだ。


「ただいま戻りましたっ」

「あぁ、おかえりなさい。困ったことはなかった?」


 そう言って振り向いたのは、夜色の髪に星色の瞳を持つ、新しいこの店の女店主、エルネスティーヌだ。壁の端から端まである薬棚を、開店三日程でぱんぱんにしてなお飽き足らず、今も新しい薬草の加工をうきうきと繰り返している。


(最初は、人付き合いが苦手ってだけかと思ったけど)


 オーリオル公爵邸での一件のあと、まず問題になったのはエルネスティーヌの処遇だった。

 ジュストとアレットは勿論バイエ家に迎え入れたいと主張したが、エルネスティーヌはこれを丁重に断った。バイエ家が再び魔女に関わるのは下策だと。

 そもそも、エルネスティーヌは目覚めた当初から、この国を出るつもりでいた。それにいち早く気付いたジュストがついて行くと言い出し、アレットが鬼の形相で断固拒否して、話が少しも纏まらなかった。

 これに折衷案を出したのが、ベルトランだった。バイエ家とフェヨール家の共同出資で、薬屋でもしてはどうか、と。

 そもそもエルネスティーヌの特技は魔法と薬だ。その処方に疑問を抱かれたことから始まった騒動なのだから、まずはその薬の信憑性を高めて堅持する方が、この先何をするにも良いと。

 そうして始まった薬屋だが、ジュストには大いなる懸念があった。


『エルネスティーヌに客商売は向いてないと思うな……』


 この発言は、ジュストが店を手伝うという意図で為されたものだったが、やはりバイエ家を理由に全員から反対された。

 だが一人で経営ができるかというとまず無理だろうという空気が流れたので、ジゼルが挙手したのだ。


『しばらく私が手伝うのではどうかしら? これからも母さまがお世話になるし、私も魔力の使い方とか、色々知りたいし』


 そうしてあっという間に小さな小屋が建てられ、魔女の薬屋は始まった。

 小屋が完成するまでの間、ジゼルはエルネスティーヌと一緒に薬草などの材料を集めていたが、その時に彼女が客商売に不向きである理由を知った。


『ほら見てジゼル。ここにラズベリーがあるわ。ちょっと多めに採って、葉も傷付けないでね。あっ、あっちにはあるのはアニスね。風邪にいいのよ? あぁ、待って。向こうにあるのはカユプテじゃないかしら? 鎮痛に使うから、実がなったらまた採りに来なきゃ。あっ、ジゼル、あっちにも……』


 一歩森に入ると万事がこの調子で、これは実や葉や根を乾燥させる段階でも終わりなく続いた。

 かと思えば、客が来ると途端に無口になり、眉間に皺を寄せて、無言で薬草を詰めて渡すということになる。

 これでは折角の薬もエルネスティーヌの評判で売れなくなると思い、ジゼルは街の知り合いに声をかけてまずは薬の良さを知ってもらうことから始めた。

 最初は風邪や疲労などの小さな症状から始め、今では繰り返し注文を貰うことも増えてきた。


「全然! よく効いたって、喜ばれたよ」

「それは良かったわ」


 ジゼルの返事に、エルネスティーヌが柔らかく安堵する。

 最初は見知らぬ人々に薬を届けるのを怖がっていたエルネスティーヌだが、ジゼルの報告を聞く度に、その懸念は少しずつ小さくなってきたようだ。


「じゃあ、今日はもうそろそろ店仕舞いでいい?」


 ジゼルは空になった鞄を棚に戻すと、作業台に広げられた薬剤や道具の片付けに取り掛かった。エルネスティーヌは放っておくといつまでも薬を作り続けて、キリがないのだ。


「えぇ? もうそんな時間かしら」

「もうそんな時間です。ほら、お迎えが来てるでしょ?」


 驚くエルネスティーヌに、店の中にある長椅子を目で示す。そこでやっと気が付いたように、エルネスティーヌは星色の瞳を瞬いた。


「ちっとも気が付かなかったわ。いつからいたの?」

「そうだろうと思った。少し前からだよ」


 そう答えたのは、恐らく大分前から長椅子に座っていたであろう、ジュストだった。

 ジゼルが帰ってきた時には、既ににこにこしながらエルネスティーヌの作業を脇目もふらず見つめていた。


「言ってくれれば良かったのに」


 困ったように眉尻を下げるエルネスティーヌに、ジュストはふるふると首を横に振る。


「君を少しでも長く見つめていたいんだ」

「見ているだけじゃつまらないでしょ? 薬草を乾燥したり、煎じて煮詰めたり、調合したりしてるだけなのに」

「それを見ているのが幸せなんだ。その時の君の真剣な瞳とか、繊細な指の動きとか、張り詰めた吐息とか、ふとした拍子に零れる髪とか……それがいつかおのずと僕を見つけてくれたら、天にも昇る想いなんだろうけどね」


 熱の籠った言葉で括って、ぱちりと片目を瞑る。その全てがあまりに流暢で、ジゼルは最早気配を消すしかなかった。


(これ、あと何か月くらい続くかな……)


 ジュストはアレットにだけは真実を話したようで、以降すっかりエルネスティーヌの薬屋に通うのが日課になっていた。とりあえず、晩課までに帰れば良いらしい。


「じ、じゃあ、ジゼル。後はお願いしてもいいかしら?」

「えぇ、勿論。戸締りもしておきますね」


 頬を赤らめるエルネスティーヌに手を振れば、ジュストが満足げに彼女の手を引いて奥のドアへと消えていく。

 ジュストが大きくなるまでは是非健全なお付き合いをと願いながら、今日も今日とて溜息が零れていた。


「ジュストって、もしかして魔性……?」


 いくらジュールの記憶があるとはいえ、エルネスティーヌに恋をしたのはジュストだと、彼自身が言っていたのだが。


「ただの変態じゃないか?」


 少年の未来を心配していると、背後からそんな声がかかった。

 ジゼルは片付けの手は止めないまま、失礼な客に半眼をくれた。


「せっかくの純愛になんてこというの」

「あいつ、小一時間くらいずっとにやにやしながら眺めてたぞ。これが町中だったら、絶対声かけてるな」


 そう呆れた声を上げるのは、市中警邏隊の制服のまま店に立ち寄ったイザークだ。

 イザークはあの後、テオフィルとシャーリーと三人で、オーリオル公爵邸の別館に世話になっていた。テオフィルは相変わらず森の浄化を進めると同時に、兄である国王に直談判を続け、シャーリーとの正式な婚姻のために邁進していた。

 一番の障害であったダリヴェ家でも、マルスランが爵位を長男に譲り、リリアーヌもまた婚約者を用意されるなどして、世代交代の真っ最中だ。テオフィルの性格に加えて、ベルトランの口添えもあり、話は順調に進んでいるようだった。


「なんで小一時間なんて知ってるのよ……」


 ジゼルはちょっと引き気味になりながらその発言に待ったをかけた。市中警邏隊の仕事は新市壁の内側までであり、ミュルミュールの森は管轄外のはずだ。

 するとイザークは、明らかに取り乱しながら否定した。


「バッ、ずっと見てたわけじゃないぞ!? 一時間前に殿下の薬を取りに来た時、丁度あいつもやって来て、それからまたここに来るまでずっと姿勢が変わってなかったから、そうなんだろうと……」

「薬? 殿下に届けに行ったのにまた戻ってきたの?」


 なるほどと思いながら、ジゼルは新たに上がった疑問に首を傾げた。

 母ソランジュが倒れた後、エルネスティーヌが応急処置をしたのを見て、ヴィオレーヌは弟フェルディナンも看てほしいと頼み込んだ。

 だが魔女が王宮に出入りするのはまだ時期尚早ということで、イザークがまずは薬と、日々の気を付けることを記した書付けを届ける役を引き受けたのだ。

 そうして徐々に体力が回復するのを待つ一方、魔女の薬屋の評判を貴族内にまで浸透させる。

 その一助になるのが、オーリオル公爵家の美談だ。


 ベルトランが娘のソランジュを首都から追放したのは病気の療養のためで、ベルトランは治療法を探すため、魔女の封印を解こうと奔走していた。それに協力していたのが王弟テオフィルで、森の浄化を進めると同時に、ソランジュを守るため世間から身を隠していた。

 ソランジュが完治した暁には、この美談は社交界の隅々まで行き渡り、魔女の誤解は解け、テオフィルは第一王子の治療のためにと、国王に魔女を紹介する。

 その時までに森の浄化まで済んでいれば、更に重畳。八方丸く収まるだろうとは、ファビアンの見解だ。

 だが一番驚いたのは。


『森の浄化って、そんなにすぐにできるのかしら?』

『父さまが手伝ってるみたいだし、きっと何とかなるよ』


 そうさらっと言われた時だった。


『えっ? なんでそこに父さまが出てくるの!?』

『だって、手紙にそう書いてあったじゃない。テオフィル様の話と照らし合わせると、そんな感じかなって』


 言われて、ジゼルは二週間ほど前に届いていた父からの久しぶりの手紙をまじまじと読み返したものだ。


(友人って……綺麗って……そういうこと?)


 読み返しても、やはりよく分からなかった。逆になぜファビアンが察したのかが謎でさえある。

 などと首を捻っていると。


「……お前って、鈍いよな」


 しみじみと呟かれた。

 心を見透かされたようで、ジゼルはムッとイザークに背を向けた。


「悪かったわね。ファビアンみたいに頭が良くなくて」

「ファビアン? 何の話だよ」

「知らないっ。用が済んだならもうお帰りください。閉店なので!」


 コツコツと近づいてくる足音には気付かぬふりで、ジゼルは器具を拭きあげる手を止めずに言った。

 二人に掛けられた魔障も、既にエルネスティーヌにより取り除かれていた。一度繋がってしまったものを完全に消すことはできないが、一方的に魔女の魔力が流れることはもうないだろうと、エルネスティーヌは言っていた。

 実際、ジゼルは腕輪がないままだが、悪夢は見ていない。それはイザークも同じはずだ。

 添い寝が不要となったため、婚約者の方便も消え、今ではイザークが薬屋を訪れる時くらいしか顔を会わせていない。だがたまに見る顔は血色も良く、隈もないから、心配はしていなかった。

 何より、腕輪のないジゼルに、もう用はないはずだ。


「そう意地悪を言うな」


 コツリ、と背後でブーツの足音が止む。ジゼルはついに、ぴくりとその手を止めてしまった。その手に重ねるように、イザークが背後から手を伸ばす。


「眠れないんだ」


 ジゼルの耳元で、しっとりと抑えられた声が囁く。その甘ったるさに脳が痺れるような錯覚に必死で抗いながら、ジゼルはその手を振り払う。


「……の、呪いは、もう解けたでしょ?」

「そのはずだが、一人ベッドに入ると、いつも胸が苦しくなる」

「そんな! だって、痣ももう消えたって……!」


 信じがたい告白に、蒼白になって振り返る。その体を、ふわりと抱き締められた。


「っ」

「お前の温もりがないと、安心して眠れないんだ」


 優しく、けれど大きな手でしっかりと抱き締められ、互いの心音が二人の真ん中で混じり合う。

 それは、かつてイザークのベッドで二人、偽りの契約と決して消えることのない距離を間に挟んで感じていた音と、似ているようで、まるで違っていて。


(私と、同じ……)


 速くて、近くて、大きい鼓動に、じわじわと頬が熱くなって、喜びが胸に広がる。

 ジゼルは高鳴る心臓と伝わる熱に身を委ねるように、とん、と目の前の大きな胸に額を預けた。

 この温もりが、彼の眠りを少しでも安らかなものにするといいと、願いながら。


「…………ばか」

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ジゼル・レノクールの眠れない憂鬱 仕黒 頓(緋目 稔) @ryozyo_kunshi

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