第53話 信じることと小さなこと
「あ、姉上?」
実に二十年ぶりに会う姉に、ルシアンは無沙汰の挨拶もできないままおろおろした。そんな弟を尻目に、ソランジュは溜まりに溜まった鬱憤を父親にぶちまけた。
「最初からマルスラン叔父様を疑っていたのであれば、わたくしの可愛い娘と
「効率を重視しただけだ。この点でいえば、お前もこそこそとうちの主治医を利用していただろう」
「ワトーはわたくしに相談をしただけよ。独善的で独断専行が酷い主人にどうしたら一泡吹かせられるかとね」
「ちっ、違いますよ、お嬢様!? 儂はただ、ルシアン坊ちゃんが困っているから、お嬢様への罪滅ぼしのためにも、何かお力になれればと……っ」
「わたくしの力になるのは、この効率至上主義で頑固で家のことしか頭にない、夫としても父親としても落第点のこの男の鼻を明かしてやることよ」
誤解しかない言葉に慌てふためくワトーに臆面もなく言い返して、ソランジュがふんと鼻を鳴らす。
ワトーはベルトランがいつまた昔のように怒り出すかと気が気でなかったが、その懸念が当たることはなかった。
ベルトランが、呆れたように嘆息する。
「相変わらず、お前は言葉を濁すということを知らんな」
「濁しても言いたいことは同じなのだから仕方ありませんわ」
「では儂も言わせてもらう。何故病気のことを言わなかった」
「追い返されたと聞きましたわ。二度も縋ったり致しませんわ」
「病名はないと聞いた」
ソランジュの決然とした拒絶に、ベルトランが鋭く問う。
途端、ソランジュの語調は悪役令嬢のそれから、一人の娘のそれに戻っていた。
「……二度と、聞きたくない病名だったでしょう」
「……愚かな」
生涯癒えることのない父の苦悩を想う身勝手な娘の配慮に、ベルトランはそう言葉を絞り出すので精一杯だった。
ベルトランは最初の妻フォスティーヌと出会い、亡くなるまで、その病名が頭から消える日はなかった。それが娘にまで発症するなど、あり得ないと考える以上に、あってほしくないと無意識に拒んでいたのだろうと、今なら分かる。
あの男の話をもう少し親身に聞き、事実を確認しようと思えば、その先にある真実に至ることなど容易だったろうに。
だがベルトランは、ソランジュと結婚したという男が現れた時、最初は一切信じなかった。もしソランジュが病気を得たのが本当だとしても、あのソランジュが、一度自分を追い落とした相手に助けを求めるなど、あり得ないと思ったのだ。
ソランジュと結婚したという、いかがわしくも忌々しい男を追い返すことにばかり気を取られ、その考えに至らなかった過失は、未熟の一言に尽きる。
ソランジュが一度も自らフェヨール家を訪れなかったのも、ひとえにベルトランに知られたくなかったからだろう。フォスティーヌが日に日に衰弱していくさまに苦しむベルトランを最も間近で見ていたのは、他ならぬソランジュだったから。
「母さま、病名って……知ってたの?」
ジゼルが、恐る恐る尋ねる。どうやら、ソランジュは子供たちにも病名を伝えていなかったようだ。
全く、愚かしい程に気が強い。
その嘆きが、説教となって口から出る寸前。
「魔力循環不全症ね」
それまでずっと沈黙を守っていたエルネスティーヌが、ついに口を開いた。
その単語に、ベルトランだけでなく、アレットとヴィオレーヌもやっとエルネスティーヌを認識する。
こんなにも魔女としての自分を注目されなかったのは初めてで、エルネスティーヌは少し可笑しく思いながら言葉を続けた。
「恐らく、耐魔性か魔化治療の効果がある薬草を使った薬を飲んだようだけれど、あまり何度も飲まない方がいいわ。肉体本来の耐魔性を上げてからでないと、急性中毒になる危険もあるから」
「あら、そうなの? 道理で、さっきから視界が歪んで息が詰まって、足がふらつくと思ったわ……」
言っているそばから、ソランジュの体がふらりと傾ぐ。これに、ジゼルとファビアン姉弟、そしてルシアンもぎょっと目を剥いて駆け付けた。
「「母さま!?」」
「姉上!」
倒れる寸前で、ルシアンがその痩躯を受け止める。その後ろでは、同じくワトーやアメリー、シャーリーやアレットまでが心配げにその顔色を覗き込んでいた。
「意思に肉体がついていかないのは相変わらずだな」
それを一歩離れた所から悠然と眺めながら、テオフィルがにやにやと訓告した。
久しぶりに再会した婚約者を早速奪われたのは業腹だが、可愛い姪っ子に免じ、今ばかりは許してやるのもやぶさかではない。
それに。
「お兄様……」
久しぶりの叔父の言葉に、ソランジュがやっと張り詰めていた気を解いて、苦笑しながら意識を手放す。
それはこの場でテオフィルだけができる芸当だと、ベルトランは承知していた。
「……相変わらず、殿下には敵いませんな」
ルシアンやジゼルがどんなに心配しても、ソランジュは平気だと笑って気丈に振る舞うだけだ。兄と慕うテオフィルの一言がなければ、再び立ち上がろうとしただろう。
だがソランジュは、素直に異母弟に身を任せた。その周囲に、その身を心配する者が数多いるのを見ながら。
それは、ベルトランにとっては酷く感慨深いものだった。
テオフィルが消えた後には、娘を支えようという者など、誰一人としていなかったから。
「義兄上も、相変わらずのようで何よりです」
鹿爪らしい顔で肩を落とす義兄に、テオフィルが懐かしいものだと破顔する。
どこまでも気丈に一人で自立しようとするソランジュと、それを知っていて乞われるまで手を貸すタイミングが分からないベルトランの手加減のないやり取りは、相変わらずだ。
そして、それを知らない周囲の者たちには、刺激の強すぎる親子喧嘩に見えることも。
「それで、魔女殿は魔力循環不全症の治し方も知っているのか?」
テオフィルは、まるでこのために連れてきたかのように今度はエルネスティーヌを見やる。
だがそれは、彼女にとって気安く触れて良い話題ではなかった。
隣に立つジュストは、気が気でなかったが。
「……知っているわ」
エルネスティーヌは、低い声でそう答えた。
だがそこには、やはり拭いきれない仄暗い皮肉が含まれていて。
「けれど、そう言って信じる者が、ここにはどれ程いるのかしら?」
「エリー……」
手を繋ぎ合う二人の間に、二百年前の苦い記憶が嫌でも蘇る。
ジュストがやっとエルネスティーヌの封印を解いたと言っても、魔女の悪名まで雪げたわけではない。ミュルミュールの森の魔女の伝承は、歪みに歪んで真実などないに等しい。
城に入り込み王妃を治すふりをして呪った大罪人。王子を誘惑して謀反を起こさせ、逃げた先で呪いをまき散らして封印された稀代の悪女。
エルネスティーヌがどんなに尽くしても、それを信じる者がいなければ、誰も救えはしない。
だが。
「信じるわ」
そう、声が上がった。アレットだ。
息子の表情を一度だけ見てから、息子が連れてきた女性を真っ直ぐに見つめる。
「アレット・バイエは、父祖ジュール・カディオ・バシュラール・セニュールの名に誓って、あなたを信じます」
「バイエ……」
その名を、エルネスティーヌが忘れるはずはなかった。
最初にエルネスティーヌを貶め、汚名を着せた男の名。そして、ついぞ迎えに来なかったジュールが戻ったはずの家の名。
何より、エルネスティーヌが唯一犯した、紛う方なき罪の名。
「バイエの娘が、最初にそれを言うのね」
晴らされることのなかった恨みと憎悪と、その中に紛れてなお消えることのなかった後悔と呵責の念が、その一言にこもる。
それを肌身に感じながら、アレットは毅然と応えた。
「バイエの娘だからこそ、最初に言いたかったのです」
アレットは、母から語り継がれてきた魔女の話にずっと憧れてきた。魔女とジュールの真相を知るため、魔女の治療や謀反については特に入念に調べた。
当時のリュイヌ公爵の罪を明らかにすることはできなかったが、代わりに症状に対する治療法や薬の処方の正当性については、素人ながら大方調べ尽くしている。
だからこそ、断言できる。
「わ、儂も……っ」
おずおずと、もう一人手を上げる者がいた。ワトーだ。
魔女という言葉に誰よりも怯え切っていたのに、治すという言葉に誰よりも希望を見出している。
「儂もこの病気については随分調べましたが、いつも最後に行き着くのは魔女……さんの治療法でした。お嬢様に渡した薬も、それを元に作ったんです。だから……」
たどたどしく言い募る医師の言葉が、ベルトランを見、ソランジュを見る。その眼差しは、かつて一縷の望みに縋った王と何も変わらない。
知らずエルネスティーヌの指先に力がこもる。それは、昔にはただ掌に爪の先が食い込むだけのものだったのに。
「エリー」
ジュストの小さな手が、それを優しく受け止めてくれる。
痛みが、そっと解かれる。
あぁ、と、エルネスティーヌは思った。
そんな小さなことが、幸せというものなのかもしれないと。
「部屋を、借りても良いかしら」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
ベルトランが、静かに頷く。
「僕がご案内します」
「私も同行しよう」
ルシアンがソランジュを横抱きに抱え上げながら先導に立ち、ヴィオレーヌが扉を開ける役目を買って出る。その後にエルネスティーヌとジュスト、更にワトーとアレットも続く。
そうして大人数だった部屋は一気に半分になり、代わりにしんと静寂が訪れる。
その中で、最初に口を開いたのは。
「……そろそろ、お前の話を聞かせてもらおうか」
すらりと剣を鞘から引き抜いた、イザークだった。
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