第3話 希望と失望

「……い、先輩ってば!」


 体を揺さぶられる強引な振動と、聞き馴染みのある声の煩さに、イザーク・アルマンはようやっと得た深い眠りから呼び起こされた。


「……なんなんだ、いったい……」


 まだくっついていたいとごねる瞼をどうにか押し開いて、辺りを見回す。最初に見えたのは、イザークが毎日着ている制服。その背後には、年季の入った薄汚れた板壁と、その前に整然と並ぶ幾つかの真っ白なベッド。

 イザークは、首を捻った。


「何で、ここに……」

「先生ー! イザーク先輩起きましたー!」

「はっ?」


 妙にすっきりしている頭を抱えて悩み始めた矢先、目の前の制服が――もとい、同じ治安警備部隊に所属するアゼロが突然大声で叫んだ。

 それに抗議しようとしたら、今度は別のところから実に迷惑そうな声がかかった。


「よーし。さっさと出ていけ今すぐ出ていけー。もうすぐ怪我人がわんさか来るからなー」

「なっ」

「了解っすー」

「おいこらっ」


 理解するよりも早く、アゼロがイザークの首根っこを引っ掴んで退室する。その扱いに文句を言いつつも、廊下に出されてやっと、イザークは状況を半分ほど理解した。

 今までいた所が治安警備隊の兵舎に隣接する救護所であることと、今が救護所の来客が増える時間帯――上官に散々に扱かれた訓練兵たちが午後の鍛錬を終えて手当てに来る夕刻だということ。

 場所については、まだいい。イザークはセニェ王国軍直轄の首都治安警備部隊に所属する市中警邏隊の一員であり、その付属施設である救護所を利用することは不自然ではない。

 問題は、何故そんな所でそんな時間まで寝ていたのか、ということだが。


「俺は、寝てたのか?」


 俄かには信じがたかった。仕事中に寝るということもそうだが、あんなに揺さぶられるまで熟睡するなど、ここ十年でほとんどなかった。

 何より、有り得ない・・・・・

 だというのに、隣を歩く後輩のアゼロは何を言ってんだかとでも言いたげに頭の後ろで腕を組んだ。


「そりゃ寝るでしょう。先輩、自覚がないかもしんないすけど、目の下の隈、すごいっすよ」

「…………」


 あっけらかんと指摘され、イザークは思わず目の下を手で隠した。

 無論、自覚はある。毎日鏡を見る趣味はないが、それでも時折目に入る顔は、金髪も灰色の瞳もくすむほど顔色が悪い。屋敷から一切出ていないはずの母の方が健康的に見えるくらいだ。

 だからこそ、突然の眠気には慣れている。だがそれで熟睡できたことなど一度もなかった。


「お前が運んだのか?」

「そうっすよ。先輩、警邏の途中で突然倒れて爆睡するんすもん。びびりましたよ」


 腕を組んで状況整理をしながら歩き始めたイザークの横に並び、アゼロが「あーあ、疲れたー」などと言いながら伸びをする。


(こいつ、俺を看病するとか都合の良いことを言って、残りの仕事をサボって一緒に寝てたな)


 相変わらず要領の良い奴だと思いながら、倒れた場所から救護所ここまで運んでくれたのも恐らくアゼロだろう。そのことに関してだけは、感謝するにやぶさかでない。言うとまた調子に乗るだろうから、伝えはしないが。


(それにしても……そうか)


 イザークは今日も今日とて、午前に鍛錬と武器や道具などの手入れをしたあと、午後から受け持ちの区画を班行動で警邏していた。


(それで、市場でスリを一人捕まえて、詰所シャトルに連れて行く班長たちと別れてアゼロと二人で警邏を続けて……)


 人混みを避けて歩いていた後の、その記憶がない。誰かにぶつかったような気もするのだが。


「まーったく。毎日女をとっかえひっかえしてお盛んなのは結構っすけど、そろそろ夜は寝た方がいいっすよ?」

「……余計なお世話だ」

「そのお綺麗な顔じゃ、引く手数多なのは分かりますけどね」

「いいから、少し黙ってろ」

「あっ、何なら、オレが一人か二人貰ってあげましょーか?」


 イシシッと下卑た笑いを上げるアゼロの脳天に、イザークは無言でげんこつをかました。


「いってぇ!」


 涙目で騒ぐアゼロを無視して、イザークはスタスタと救護所を後にする。


(だが、一緒にいたのがアゼロで助かった)


 アゼロは大柄で無神経で口から先に生まれたような男だが、それでも最後の一線をちゃんと弁えている節がある。イザークの素行の悪さや巷の噂を引き合いに出しては茶化してくるが、核心には無闇に触れてこない。

 もしこれが他の班員だったら、通りに放置されるか、救護所に連れて行かれたあと、家に連絡を入れられていたかもしれない。


(それだけは、断固御免こうむる)


 その想像は頭の中だけでもぞっとしないものだったが、一方で、今回のことでイザークの中に小さな希望が萌していた。


(眠れた……眠れたのか)


 アゼロを捨て置いたまま、兵舎に顔を出して班長に帰宅の挨拶をして帰路についた頃になって、やっと実感がじわじわと広がり始めていた。

 繰り出す足が軽い。

 視界が晴れやかで、頭が重くない。

 思考がいつもの倍はすっきりしている。

 その事実に、イザークは生まれて初めて自宅に帰るのに意気揚々と歩いていた。


(もしかして、ついにが解けたのか……!?)


 期待が、いつもは遠ざけている屋敷をぐんぐん引き寄せる。

 そうして、晴れやかな気持ちで本館を素通りし、別館に入り、いつもよりも早々に寝床につく。


(ね、寝れなかった……)


 希望は、一夜が明けるよりも早く打ち砕かれた。


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