第14話 噂と幽霊

 エスピヴァン侯爵の子息がついに女遊びをやめて婚約したという噂は、町の代筆屋で働くジゼルの耳にもしっかり届いていた。


「ねぇ、聞いた? エスピヴァン侯爵様のところの」

「聞いた聞いた。イザーク様でしょ。市中警邏隊にいらっしゃる」

「ついに婚約したらしいわね。お相手は誰かしら」

「それは勿論、あちこちで色んな女性と浮名を流されてらっしゃる方だもの、とびきりの美人に決まっているわ」

「そうよねぇ。イザーク様がそもそもお美しいものねぇ」

「あの整ったお顔立ちと、いつも物思いに沈んでいるような悩ましいげな瞳……」

「「眼福よねぇ」」


 薄い壁一枚の向こうから、いつまでもきゃっきゃとはしゃぐ女性たちの声が聞こえてくる。それをどうにか耳に入れないようにしながら、ジゼルは心の中だけで叫んだ。


(眠いだけでしょ!)


 だがどんなに真実を届けたくとも、隣の代筆者と話している彼女らにジゼルの声が届くことはない。


(なっっっんでこんなに噂になってんのよっ)


 帳簿を整理してほしいといういつもの宿屋からの依頼を黙々とこなしながら、ジゼルは今にも羽根ペンをぼきっと折ってしまいそうだった。

 婚約の話は噂になってこそ効果があることは、一応分かる。ジゼルが毎夜出入りしても不審がられないためには、侯爵家だけに話を通して終わっては意味がない。理屈は分かる。

 だが肝心の婚約者についての噂がこんな風に独り歩きするようでは、何の意味もないではないか。

 もし隣の彼女らにジゼルがその婚約者だと明かして、どんな反応をされるか。


(絶対バレたくない……!)


 ただでさえ、男たちに交じって働くせいで他の女たちから毛嫌いされているのに、これ以上敵を増やしてはおちおち仕事もできない。

 だが家族を人質に取られれば、選択肢などないも同然だ。


(森の魔獣が暴れ出して、町まで雪崩れ込んでこないかな)


 そうすれば、市中警邏隊と言えど魔獣討伐に動員される可能性は高い。そうなってくれれば、最高で二度と顔を合わせなくて良くなる。まぁそうなった場合、郊外にあるジゼルの家は真っ先に踏み荒らされるだろうが。


(父さまがいれば、全然平気なんだけどな)


 魔獣といえば、やはり真っ先に思い浮かぶのは父のことだ。先日父から手紙が来ていたが、やはり当てにはできないだろう。父のそのうちなど、一年後くらいに思っておいた方がいい。


(さっ。いっぱい稼がなきゃ)


 ジゼルは改めて代筆の仕事にとりかかった。

 ファビアンの学費もそうだが、母の薬の分もある。

 年々酷くなる症状は、病名も分からず、ために特効薬もない。ジゼルはずっと、滋養強壮に良いという薬を買っていた。

 父は帰る度に「これはきっと効く!」と変な道具を持って帰ってくるが、今のところ効果はない。


(貴族の家なら、健康になるのかな)


 今朝、イザークの元を去る前に、家族三人で住んでもいいと言われたが、断った。

 イザークは善意だと言ったが、ジゼルが働きに出ている間、母を人質に差し出すようなものだ。立派な三食を母に与えることで病状が良くなるのではという期待は勿論あったが、そのために母に我慢を強いるのが嫌だった。

 何より、母は貴族を嫌っている。母が生家を追放されたのは二十年程前だが、そのくらいの年月であれば、まだ覚えている者も多い。関わるのは嫌だと、昔から言っていた。

 母と弟のために金がほしいのに、それで母や弟を傷付けては本末転倒だ。


(私が、二人を守るのよ)


 そう、覚悟したはいいものの。


(……無駄に迫力があるのよね)


 昨夜同様、三度みたびエスピヴァン侯爵邸の別館の前に立ってみても、やはり足を踏み入れるのには勇気が要った。

 貴族の屋敷というのも怖いが、何よりイザークと対面するのが気が重かった。

 きっと、また何か嫌なことを言われる。慣れていないことをからかわれるのも嫌だった。


(どうしようかな……)


 選択肢はないと言いながら、足が進まない。別館の玄関ドアを視界の端に入れながら、うろうろと庭とを行ったり来たりする。

 夕日がどんどん屋根に近付き、ジゼルの首がどんどん項垂れる。その視界に、ずいっと何かが差し出された。


「え?」


 驚いて顔を上げる。勿忘草の青い小花が、可愛らしい花束になって白く細い指に握られていた。誰が、と更に視線を上げて見えたものに、ジゼルは咄嗟に悲鳴を上げそうになった。


「ゆっ……!」


 幽霊だ。ファビアンから聞いた、男を引き入れる幽霊、と思ったけれど。


「あげる」


 にこにことそう言いながら花束を差し出され、ジゼルはやっと彼女が透けてもいなければちゃんと足がある人間だと理解した。

 だからこそ、困惑した。


「えっと、あの……」


 透き通るような亜麻色の髪に、日に当たったことのないような白い肌、風に靡く白いドレスは、まさに幽霊か少女かという感じだが、年齢的に言えば母と同じか、もう少し上に見える。


「もらって、いいんですか?」

「えぇ、どうぞ」

「でも……」

「それ、大好きな人が帰って来たら渡そうと思って摘んだの。でも、今日は会えなかったから」


 本当に貰ってもいいものかというジゼルの気持ちを察してか、女性は少し寂しげにそう付け加えた。その灰色の瞳が見せる深い優しさに、ジゼルは先程までの警戒心も忘れて、花束を受け取っていた。


「忙しい、ひとなんですね」

「ふふ。でも、必ず迎えに来てくれるわ。私と、そう約束したから」


 ジゼルの言葉に、女性は頬を染めて少女のように笑った。その言葉に、ジゼルは女性が自分を慰めるために花束をくれたのではないかと察した。

 大好きな人のために摘んだ花束を眺めるだけでも、彼女には素敵な時間だったろうに、それを悩んでいたジゼルのために譲ってくれた。その気持ちが嬉しくて、ジゼルは心から言った。


「早く来てくれるといいですね」

「ありがとう」


 嬉しそうにはにかんで去っていく女性に、ジゼルも満たされた気持ちで手を振る。


(……よし。行こう)


 気持ちを切り替え、やっと別館の玄関に向かう。そこに。


「やっとお入りになられますか」

「わっ」


 老執事オーブリーがいた。


「ぃいいいつからいたの!?」

「玄関前で数分ほど佇立なさっていた頃から拝見しておりました」

「…………」


 あくまでも恭しく言われた。

 貴族社会の察する文化など滅べばいいのにと思ったジゼルであった。

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