第15話 葛藤と生傷
オーブリーの案内のもと、ジゼルは再び侍女のニネットに沐浴と着替えを勧められていた。昨日は詐欺を疑って断ったが、事情を理解した今回は、素直に受け入れた。
実際、頻繁には入浴も着替えもしない庶民と違い、貴族などは汗をかく度に着替えをしたり入浴したりすると聞く。汗臭い女と同衾したくない気持ちは分かる。何せジゼルは、香水の類もつけていないのだから。
(服代は請求しないって言ってたけど……)
折角だからと、
(あ、やばい。冷や汗が……)
サテンの
再び心音を上げながら、イザークの部屋に通される。だが。
「あれ、いない……?」
予想に反して、薄暗い部屋に主はいなかった。もしや今日はなしだろうかと、喜色を滲ませて振り返る。
「イザーク様は只今お食事中ですので、今しばらくこちらでお待ちくださいませ」
「あ、そう……」
期待は呆気なく打ち砕かれた。そのままパタンとドアが閉められ、仕方なくベッドに……向かう気には一つもならず、壁際の長椅子に腰を下ろす。
(待つってどのくらいかしら)
昨夜のように、先にベッドに入って眠ってしまうのが良いだろうか。しかし相手はジゼルを脅してきた相手だ。寝首を掻かれることはないだろうが、気を許すのはまだ怖い。
(あぁ、でもダメ、この部屋……)
寝心地を追求し過ぎていて、いるだけで眠くなる。
(寝てる場合じゃ、ないのに)
イザークのことだけでなく、考えなければならないことは他にもある。
オーリオル公爵嫡男ルシアンの暗殺。
あの使者は、また来る。次がいつかはいつも分からないが、何度も時間稼ぎができる相手ではない。あの使者もそれなりの手練れのようだし、下手に誤魔化し続けるのは、逆にジゼルたち一家を危うくするだろう。
(連絡、早く来ないかな……)
ジゼルは嘘を吐くのも誤魔化すのも苦手だ。次に来た時はどうしようと考えても良い案はなく、考えれば考えるほど眠気が募る。
「やば……ねる……」
そう、ついに瞼が重くなってきた時、
――バンッ
「!?」
一切遠慮のないドアの開閉音が響き、イザークが脇目もふらずベッドに飛び込んだ。
「くそ……ッ、ふざけんなよあのジジイ、殺す気か……!」
俯せになりながら、くそ、くそ、と何度もシーツに悪態を吐いている。
昨日見せた支配階級らしい余裕はどこにもなく、まるで上手くいかないことに苛立つ子供のようだ。
その意外な幼稚さに、ジゼルはすっかり眠気が吹き飛んでいた。面倒臭そうなので、静かになるまで気配を殺して待つ。
そして数分と経たないうちに、寝息が聞こえてきた。
「……え、寝たの?」
まさかと思いつつ、そぅっとベッドに近付く。シーツの中の横顔を覗き込めば、しっかり瞼が閉じられていた。
「…………。帰ろ」
即断即決。ジゼルは足音を殺してドアに手をかけた。
「いけません」
「ッ」
ドアに隙間ができた途端、オーブリーの顔がドアップでそう言った。思わず叫ばなかった自分を褒めたい。
「なん……何なんですかいつもっ」
ドアの隙間越しに、小声で訴える。オーブリーもまた隙間越しのまま、相変わらずの慇懃さで用件を続けた。
「イザーク様とご婚約なさった以上」
「してません」
「このような時間にご帰宅なさるのはよろしくありません」
「だからしてないって」
「イザーク様は大変お疲れになって、気を失っているようなものです」
「でもそれって結局寝れて」
「すぐに目を覚まされてしまいます。ですから」
「もうっ、分かりましたよ!」
パタン、と静かにドアを閉める。
眠れないと言いながら寝ているのだからお役御免で帰りたかったが、イザークが寝てしまったのなら、恐れることはないとも言える。
(なんか、傷だらけだったし)
先程寝顔を盗み見た時、あちこちに擦り傷や紫色の痣があった。手当はしてあるようだが、昨日二の腕に見た古傷とは違い、真新しかった。
(喧嘩っていうより、虐め? ……なわけ、ないか)
最上位貴族である侯爵家の子息をあそこまで痛めつける相手など、早々いるはずがない。
ジゼルは改めて長椅子に横になると、静かに瞼を手で覆った。先程うたた寝したせいか、目が冴えてしまった。
(……もし)
頭の片隅にある不安が、気を緩めた途端舞い戻ってくる。
(もし、私が嫌がっている間に、叔父さんが死んだら、どうなるんだろう?)
ジゼルが拒否しても、貴族が誰かを排除しようと考えるのなら、必ず殺すだろう。その時、犯人がすぐに捕まるのならいい。だがもしそうならなかった場合、ジゼルもまた容疑者に上がるのだろうか。
或いは、積極的に犯人に仕立て上げられるような気もする。
(その時は、どうしよう)
オーリオル公爵家にとって、実の娘である母や、男児であるファビアンと違い、ジゼルには何の価値もない。いざとなれば、父と二人、国外にでも逃亡するしかないのかもしれない。
(離れたくないのは、私の我が儘、かな)
母と弟の未来を思えば、いつかはそうなるかもしれないし、その方がいいのかもしれないとは思う。けれどまだ、覚悟はできていなかった。
あの使者が現れるようになって、いつかは二人ともちゃんと話さなければならないとは思っているけれど。
(本音を聞くのは、まだ怖いな……)
ぎゅっと瞼を閉じる。
苦しそうな声が聞こえてきたのは、その頃だった。
「……くるな……っ」
静かだったベッドから、喘ぐような掠れた声が上がる。
「悪夢って、本当だったんだ……」
ジゼルは長椅子から体を起こしながら、どうしたものかとそれを眺めた。だが、
「ぃ……いたい……!」
悲鳴のような声が聞こえ、ジゼルは思わず駆け寄っていた。
「ちょっと、大丈夫?」
不眠に悩む者を起こすのは気が引けたが、覗き込んだ寝顔は真っ青で、放っておけなかった。怪我に気を付けながら、イザークの筋肉質な体を揺さぶり起こす。
「ねぇ、起き……」
「――母上……!」
「!?」
ハッと目が開いたと思ったら、がばっと抱き着かれた。幼子が母親に縋りつくように、太い腕がジゼルの背中に回る。
「ちょっ、なにす……!」
反射的にぶん殴ろうとしたが、なおも寝息が聞こえてきて、ジゼルは振り上げた拳の行き場をなくしてしまった。
首筋に浮いていた脂汗が、つぅと流れて胸元に消える。
「……もう、なんなのよ」
怒るに怒れず、イザークの腕を優しく引き剥がす。寝息が少し深くなったのを確かめてから、ジゼルはやっと長椅子に戻って、目を閉じた。
「寝よ……」
なんだか、どっと疲れた。
◆
――……こから、だして……
声が聞こえる。自分の指先すら見えない闇の中、女が今にも死にそうな声で喘いでいる。
それは知らない誰かのはずなのに、知っている誰かのようで、いつも耳を塞いでしまいたいのに、抗えなくて聞いてしまう。
――……たしを、いつまで、ここに閉じ込めておくの……
(俺じゃない……っ)
イザークはいつもそう答える。お前を苦しめているのは自分ではない。だから俺に言うな、恨み言を囁くなと。
けれど声は、まるで他にどこにも行けないように、いつもイザークの夢の中で囁き続けるのだ。まるで、自分の痛みを少しでも分からせようとするかのように。
(……いたい……ッ)
ざくりと、背中を真っ二つに斬られたような衝撃が走る。熱いような痛いような、火掻き棒を傷口に押し当てられたような、頭が焼き切れそうな痛み。
痛い痛い痛い痛いッ!
痛くて堪らない。全身が引き裂かれそうに軋む。
この腕の中には、守らなければならない何かがあった気がするのに。
そう、自分よりも小さな……否、違う。
イザークが守るべきは、ただ一人しかいない。
そこに。
――ちょっと、大丈夫? ねぇ……
声がした。遠慮がちで心配げな、女の声。
イザークが守るべき、ただ一人の相手。
(母上……!)
喘ぐように叫ぶ。守りたい温もりが腕の中に確かに感じられて、悪夢が砂の城のように掻き消えていく。
ハッと目を開けた時には、痛みは跡形もなく霧散し、ただ気持ちの悪いいつもの脂汗だけが全身に残っていた。
部屋はまだ薄暗い。朝日は今日もまだ遠い。
けれど。
「……あぁ……」
部屋の片隅がぼんやりと明るいような気がして、気付けばふらふらとベッドを降りていた。
夢から完全に醒めないまま、明るい一角――長椅子の方へと歩く。
「……ここに、いたのか……」
薄明りの中でも、自ら発光しているのかと思うような小麦色の肌。太陽の匂いがする、ふわふわの栗色の癖毛。長い睫毛の下の薄い瞼の内側には、誰が相手でも物怖じしない、射抜くよう碧眼が隠されていることを、イザークは知っている。
「やっと、見つけた……」
安らかな寝顔を眺めているうちに、再び泥のように重い眠気がイザークを襲う。そうすると最早自分の体を支えるのも億劫で、イザークはそのままその場に膝を折った。
(温かい……)
やっと訪れた純粋な睡魔に、イザークは静かに身を委ねた。
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