第16話 令嬢とハンカチ

 チュン、チュンチュン……。

 早起きな小鳥が、今朝も今朝とて窓の向こうで楽しげに鳴き交わしている。だが今朝は、カーテンの隙間から漏れ射す朝日の眩しさに気付くよりも前に、膝にかかる重みで目が覚めた。


(なんか、痺れてる……?)


 まるでファビアンが上で寝ていた時のようだと、子供の頃の記憶に和む。寝ぼけ眼で手を伸ばす。そして。


「ぃやぁぁあああああッッッ!」


 ジゼルの絶叫が、早朝の別館に響き渡った。


「なっ、何事だ!?」

「あんたが何事よ!?」


 一瞬でジゼルの膝から飛び起きて周囲を警戒するイザークに、本能的に飛び退ったジゼルもまた大声で言い返す。

 灰色と翠色の目が数秒、全く違う温度感で見つめ合った。

 そして。


「? 何でいるん――」


 怪訝に言い切られる前に全力でイザークの頬をぶっ叩いた。

 乱暴にドアを開ける。オーブリーが、銀の盆を捧げ持って恭しく低頭していた。


「本日分にてございます」

「あいつに言っておいて。二度と来ないって!」

「承ります」


 三枚の大銀貨をぶんどると、ジゼルはふんすと鼻息も荒く別館を飛び出した。


「なんっなのよあの言い草! 自分から来いって脅しておいて!」


 腹が立って、どすどすと足音も高く通用門へと向かう。

 イザークが疲れて帰ってきたのも見ているし、寝惚けていたのも分かる。それでも、あの不審者を見る目はいただけない。


(可哀想なんて思うんじゃなかった)


 寝ている時に苦しんでいる姿は、どうしても母に重なって無視できなかった。それに、ジゼルも子供の頃に悪夢に苦しめられた経験があったから、手助けできるならしたいと思った。


(父さまが、そうしてくれたように)


 父であれば、少しの不利益など気にせず笑って手を貸すだろう。母は自ら不利益を被るなど愚か者のすることだと言うが、それでも相手が筋を通してきたのならそれを無下にはしない。

 だからジゼルも、そう在りたいと思うのに。


「ちょっと、そこのあなた」

「え?」


 悶々と考え事をしていたジゼルは、出し抜けに背後から声をかけられ、つい考えもなく振り向いた。

 そしてそこに仁王立ちする人物を見て、すぐに後悔した。だが、無視するわけにもいかない。

 ジゼルは無難に問いかけた。


「えっと……どちら様ですか?」

「あなた、まさかわたくしのことを知らないとでも言うつもり?」


 信じられないとばかりに甲高い声を上げたのは、装飾過剰とも思えるようなフリルたっぷりのドレスを身に纏った、可愛らしい少女だった。年はジゼルと同じくらいだろうか。茶褐色の髪は頭頂部で二つに可愛らしく結われているが、淡褐色ヘーゼルの瞳はいかにも勝気そうだ。


(知るわけないでしょ)


 そう喉元まで出かかったが、ジゼルは賢明にも飲みこんだ。

 高そうなドレスと美しい宝石や化粧を当たり前に身に着け、侯爵邸の敷地内で威風堂々と名乗りもしない女性など、素性は大体知れる。

 平民のジゼルは、静かに低頭する以外に術などない。


「わたくしはエスピヴァン侯爵の三女、リリアーヌ・ヴァンデュフュル・ダリヴェ。イザークの従妹で、未来の妻よ」

「はあ」


 随分強烈な人物のようだ、とジゼルは頭を下げながら思った。最早波乱の予感しかしない。だが一方的に言いがかりをつけられるのには慣れている。


「あなた、掃除婦?」

「……違います、お嬢様」


 嫌味かと思ったが、その疑問は心底のもののようだった。

 ジゼルはリリアーヌの目的を探りながら、そう答えた。

 だがそれは失敗だったと、次の質問を聞いて後悔した。


「じゃあ、あなたがイザークの婚約者というのは、本当なの?」

「…………」


 ジゼルは否定しようかどうか、一瞬迷ってしまった。イザークが悪夢のことをどこまで家族に話しているか分からないのでは、ジゼルの口から今回の依頼の件を話してしまっていいものか、判断がつかなかった。

 呪いを誰から受けたか分からないと言っていたし、無闇に口外すべきではないだろう。


(でも、それって婚約とは関係ないし、未来の妻宣言してる相手にまで嘘を吐く必要なんてないわよね?)


 肯定して恋敵認定されて殺されるなど真っ平だ。ジゼルは堂々と保身に走った。


「嘘でございます」

「わたくし聞いたのよ! イザークがお父様に正式に婚約したい相手がいるって言ってるのを!」

「…………」


 失敗した、とジゼルはげんなりした。


(人の話を聞かないタイプだった……)


「イザークはわたくしと結婚するのよ! あなたみたいなみすぼらしい平民との婚約なんて、絶対に許さないわっ」

「はい、頑張ってください」


 面倒臭くなって、ジゼルは平身低頭しながら心の底から応援した。

 だがその誠意は、正しく伝わらなかったらしい。リリアーヌが大きな目を更に大きく見開いた。


「なっ!? あなた、わたくしの言っていることが分かっていないの!?」

「重々分かっておりますとも。ですが私はお嬢様と違ってこれから仕事に行かねばなりませんので、これにて御前を失礼いたします」


 今にも頬を打とうと手を上げようとするリリアーヌを視界の端に捉えながら、ジゼルはそそくさと一礼すると一目散に背後の通用門を潜り抜けた。

 貴族が通用門を使うのを嫌がるのを知っていたからだ。それに、貴族の令嬢は自分一人で屋敷の外に出たりもしない。


「ちょっと、お待ちなさい! ちょっと! ――クロエ!」


 案の定、リリアーヌは門の向こうで大声を張り上げながら、手に持っていたらしいハンカチを力の限り引っ張っていた。


(触らぬ神に祟りなし)


 ジゼルはこそこそと侯爵邸を後にした。




       ◆




 一連のやり取りを建物の陰から見守っていた侍女のクロエは、予想通りの展開になったと思いながら主の元へとゆっくりと駆け付けた。


「お呼びでしょうか、お嬢様」

「クロエ! 今すぐあの女のことを調べ上げて。絶対イザークを脅して付け込んだに決まってるのよ。このわたくしを差し置いて、あんなブスで下品で貧乏くさい女が選ばれるなんておかしいでしょっ?」

「そろそろ五枚目を用意した方が良さそうですね……」


 クロエは主の手元のハンカチを見下しながら、次の仕事を頭の片隅に書き込んだ。

 リリアーヌは昔から、いつも嫌なことがあると手近なものを投げつける悪癖があった。侍女としてはその後の片付けに労力を割かれるのが嫌で、それとなくハンカチを持つように勧めたのだ。以来、リリアーヌは何かあるとハンカチを引っ張っては苛立ちをぶつけていた。既に四枚目だ。

 今にも悲鳴を上げそうなハンカチを見下しながら、クロエは淡々とひとまず主人の誤った認識を修正した。


「何度も申し上げておりますが、イザーク様とお嬢様とは従兄妹同士です。仮に聖拝堂の許可が下りても、旦那様は決してお許しにはなられませんよ」

「うるさいわね! 結婚なんか関係ないわよ。……イザークは、誰にも渡さないんだから」


 どこか思い詰めたように、リリアーヌがそう決め付ける。その脳裏には、昨日期せずして聞いてしまった会話が再び蘇っていた。


『婚約だと? 相手は誰だ。まさかどこぞの貴族か娼婦ではあるまいな』

『どちらでもありません。平民の、ごくごく平凡な女性です』


 リリアーヌは、仕事帰りのイザークの稽古を盗み見るのが日課だった。本当はすぐ傍で見て応援したいのだが、父から禁止されているのだ。

 イザークは稽古中滅多に口を利かないのに、その日は稽古終わりの父に深々と頭を下げていた。


(どうして……今まで、遊びばかりで本気になんてならなかったのに)


 リリアーヌの父マルスラン・ヴァンデュフュル・ダリヴェは現エスピヴァン侯爵であり、選王家の中でも武門の名家であることに強い拘りを持っていた。ダリヴェ家の男児が軟弱であることを決して許さない。

 それは父の生家であるフェヨール家への対抗意識であると、リリアーヌは知っている。

 父はフェヨール家を継いだ兄よりも優秀なのに、ダリヴェ家に婿に出されたことをいまだに納得していなかった。

 だがイザークに辛く当たるのは、もう一つ、彼の母の存在ゆえだった。


『ダリヴェ家の名に泥を塗るような女は許さんぞ。貴様の母親のような、な』


 イザークの母親。母の異母妹であり、男と見れば手当たり次第に惑わすという、亡き祖父の妾子。

 イザーク母子は、ダリヴェ家にとって不和と不吉の代名詞だった。


「いい? 弱味を握って、一刻も早くイザークから引き剥がすのよ」


 リリアーヌは淡褐色の瞳に恋心よりも仄暗い色を滲ませて、決然とそう告げる。

 だが早速方針が変わっている命令に、クロエは几帳面面をして問い返した。


「証拠ですか? 弱味ですか?」

「どっちでもいいから早くして!」

「かしこまりました」


 ついにハンカチを振り回し始めた主に、クロエは深々とお辞儀をした。

 心の中で、お嬢様の奇行がまた始まったと思いながら。

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