第18話 女たちと独り

 ぐったりして家に辿り着くと、聞き慣れた木剣の音がカンカンと別館にまで響いていた。


(まだやってるのか)


 ダリヴェ家当主がつける稽古はこの家に住む男児の日課であり、早く帰宅した者から順に時間のある限り扱かれていた。それはイザークだけに限ったことではなく、マルスランの嫡子である二人の兄弟もまた同様だった。


(今日は……ロイクか)


 鍛錬場として使っているのは別館と本館の間にある場所で、少し足を延ばせばすぐに見える。それがいつも仇となる。


「イザーク! おかえりっ」

「げっ……」


 まず待ち構えていたリリアーヌが、イザークに向かって突進してくる。その声を聞きつけた長男のロイクが、イザークを呼びつけるのだ。


「イザーク! とっとと来い!」

「…………」


 こうなると、イザークに拒否権はない。鍛錬と警邏で疲れた体に鞭打って、鍛錬場に向かう。


「構えろ」


 ロイクに投げつけるように渡された木剣を握り、虚無感を覚えながら剣先を中段に構える。そこから一時間近く、稽古という名の扱きが続く。

 そして決まって、マルスランの剣筋には殺気があった。まるで稽古の途中であれば、死んでしまっても仕方がないとでもいうように。


(ふざっけんなよ……!)


 打ち込み返してもいいが、掠りでもしようものなら倍返しに遭う。結局、イザークは適度に手を抜いて、毎日ぼろぼろになりながら終わるのだ。

 だが、面倒なのはこの後だった。


「いい加減、あれを諦めさせろ」


 マルスランが去り際、疲れた声で命じる。その視線の先にいるのは、あれでいつも隠れているらしいリリアーヌだ。


「……分かっています」


 イザークは嘆息とともに頷くしかない。何を言っても、この家では誰にも通じないというのに。


「イザーク、大丈夫?」


 自分のことを言われているなど露ほども思わないのか、リリアーヌが親切そうな顔をして水を持って駆け寄ってくる。それを冷たく断りながら、イザークはあちこち痛む体を無理やり歩かせた。


「俺に構わないでください、お嬢様」

「二人の時はリリィって呼んでって言ってるでしょ?」

「それはできません。俺が奥様に怒られてしまいます」


 上目遣いで可愛らしく要求してくるリリアーヌに、イザークは頭痛を堪えながら拒絶する。するとリリアーヌは、方針を変えたように表情を険しくした。


「婚約したって、本当?」


 やはり来たかと、イザークはやっと足を止めてリリアーヌに向き直った。

 婚約はジゼルを守るためと言ったが、この従妹を諦めさせるためでもあった。

 リリアーヌに言い寄られてからずっと、女遊びに耽るポーズをとることで嫌われることを待ったが、無理だった。酷い時には、噂になった相手に脅迫状めいたものを送りつけて、商売をできなくしたこともある。


「ええ」


 イザークは神妙な顔で頷いた。リリアーヌの目に、いつもの敵意が宿る。


「どんな女なの」

「あなたと同じ年の……強くて、しっかりした女性、ですよ」


 他に良い表現が見当たらず、イザークはそれらしい言葉で誤魔化した。

 イザークが知っている今のジゼルといえば、働き者だが金にがめつくて、感情表現が真っ直ぐで騒がしくて、貴族相手にも容赦なく張り手をかますくらい行動に躊躇がないということくらいだ。

 そんなことを正直に伝えて、リリアーヌが認めるわけもない。


「イザークは、しっかりした女性が好きなの?」

「ええ。特に、男女関係に無闇に口を挟むような子供っぽい方は無理ですね」


 待っていた問いに、イザークは今まで覚えた中で最も爽やかな笑顔でそう答えた。


「……イザークの馬鹿!」


 リリアーヌが泣きそうになりながら逃げ去った。あれはあれでまた正妻からお小言を食らいそうだが、少しは溜飲が下がったので良しとする。


(これだから、女は……)


 イザークは、本当を言えば女が苦手だった。

 結婚を約束した相手に捨てられ、それでも迎えに来てくれると信じている母も、夫であるマルスランの顔色ばかり窺ってヒステリックな正妻も、自分の都合しか考えないリリアーヌも、どれも理解できない生物にしか思えない。

 色街の女たちの部屋に泊まることがあるが、それもリリアーヌを諦めさせるためで、女と恋仲になったことも、寝たことも一度もない。いつも、面倒な女を諦めさせるにはどうするかを相談するくらいだ。

 そして彼女たちは口を揃えてこう言うのだ。


『気を持たせないことね。そして、会わないこと』


 だが会わないことなど不可能だし、そもそも気を持たせたつもりは一度もない。だというのに、気付けばまとわりつかれていた。

 そして、十歳の頃。


『これを最後にするから……だから、ね? お願い』


 家での居場所がなくなるからやめてほしいと懇願したイザークに、リリアーヌは最後の思い出がほしいと、しつこくねだった。最後ならと、頷いたのが運の尽きだった。

 二人で内緒で街を巡っているところを攫われ、気付けば新市壁の外に連れてこられていた。いつもは遠くに樹頭を眺めるだけだったミュルミュールの森が、不穏に大きく蠢いていたことを、今も覚えている。

 そこで、魔獣に襲われた。


『大丈夫!?』


 通りがかりの冒険者父娘が助けてくれなければ、命はなかったかもしれない。

 しかも這う這うの体で屋敷に帰ると、イザークがリリアーヌを無理やり連れ出したことになっていた。

 そのせいでイザークは一週間も折檻された上に食事抜きにされた。その時の傷はくっきりと痕が残り、その後一か月近く、イザークは体調を崩した。

 それからだ。悪夢が襲ってくるようになったのは。

 最初は、正妻が呪ったのかと思った。リリアーヌを一番可愛がっていたのは彼女だったし、夢の中でも女の声が聞こえた気がしたから。

 けれど証拠などは得られなかった。

 次に魔獣のせいかとこれも調べたが、魔獣と呪いの因果関係は探せなかった。

 リリアーヌにも疑いの目は向けたが、これ以上関わりたくなくて、何も問い質さなかった。


「女なんか、ろくでもない」


 だというのに、呪いを解く鍵もまた女かもしれないというのだから、自分の女運の悪さに辟易する。


「ねぇ、イザーク。テオフィルはまだかしら?」

「…………」


 やっと別館に入ったと思った途端、いつもどこかでふらふらしている母から声をかけられた。

 ニネットに手入れしてもらっているお陰でさらさらの亜麻色の髪に、少女のような灰色の円らな瞳。逃げた無責任な恋人を今も待っている、憐れなシャーリー。


「そんな男は、見かけていませんよ」

「まぁ、イザーク。そんな言い方は良くないわ。お父上でしょ?」

「…………」


 にこにこと訂正され、イザークは今日一日の疲れが倍増したような錯覚を覚えた。母の純粋さが、いつだって辛い。


「……失礼します」


 イザークは、逃げるように自室に入った。

 そこに、待ち構えていたらしいオーブリーが叩扉とともに入室する。


「イザーク様。今宵はいかがいたしましょうか」

「? 何のことだ」

「ジゼル様のことでございます」

「あぁ……。……いや、いい」


 言われてやっと、今朝の伝言のことを思い出す。

 昨夜はジゼルのことを忘れてそのまま寝てしまったらしく、悪夢にうなされて、無意識に長椅子にいるジゼルにしがみつく格好で寝直していたとは、オーブリーが教えてくれた。

 だがすぐにその状況を理解できなかったイザークの失言により、ジゼルは怒って帰って行った。


「いつも、怒らせてばかりだな……」


 いつも誰もいない部屋だというのに、その事実を思い知らされて益々無人の部屋に気が滅入る。だが今から釈明に行く気力も、今のイザークにはなかった。


「……そうか。今日は、来ないのか」


 一人呟く。冷たい寝台で、眠れるはずもなかった。

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