第22話 後悔と接触

 無自覚だということは、女性経験の少ないイザークにだとて大体分かる。だが。


(何故そこで頬を赤らめる……)


 ジゼルは、自分が湯上りで、髪がふわふわで肌がすべすべしていい匂いがするという自覚がないのだろうか。

 いつもは強気なくらいの碧眼が困ったように潤むさまは、度々イザークに言葉を詰まらせるに十分の威力があった。

 だが何より攻撃力が高かったのは、やはり最後の一言だ。


(俺は弟と同じか)


 ファビアンは確か十二歳の少年だ。それと同列に語られるのは、十九歳の健康な男子として何となくモヤッとする。だがそこで口を挟めばまたもやベッドが遠ざかるので、イザークは賢明にも沈黙を選んだ。


(この形を望んだのは、そもそも俺だ)


 ベッドに入るなり背を向けて布団にもぐり込んだジゼルの小さな背中をぼんやりと眺めながら、今更なことが頭をよぎる。


『お礼を言われた方が、お互い気持ちがいいでしょ?』


 そう言って、花が咲くように笑ったジゼルの顔が、ずっと脳裏から離れない。

 マルスランに扱かれてボロボロのイザークと同じか、それ以上に汚れていたのに、ジゼルの笑みは変わらず無垢で眩しかった。


(礼、か)


 それは実に単純で当たり前のことなのに、そう言われていざ考えると、イザークは自分が礼を言った記憶がすぐには出てこなかった。

 礼を言うような相手などいなかったということはある。だがそれ以上に、言おうという気が、イザークの中になくなっていた気がする。

 十歳の時、助けてくれた礼を言いそびれたあの時から、ずっと。


(こんなつもりでは、なかったんだがな)


 目の前に、ずっと触れたかった栗色の癖毛があるのに、イザークは自分の行いのせいで手を伸ばすことすらできない。

 できることなら、こんな強引なやり方はしたくなかった。

 だが目的のためならば、イザークの感傷や思い出など二の次だ。覚悟は既に決めている。

 それでも、ジゼルの張り詰めた表情や隠すことのない警戒に、時折心が騒めく。


(そうさせているのは、俺か)


 それでなくとも、年頃で言えばリリアーヌと同じなのに、ジゼルの瞳には常にどこか、家族のためにしっかり者にならざるをえなかった硬質さがある。


(自由気ままな子供のままでいることは、許されなかった、か)


 平気で床で寝ると言えるのも、今まで当たり前のように自分を後回しにしてきたからだろう。そして今、イザークもまたそれを強要している。ジゼルの弱味に付け込み、ジゼルの自由意思を奪う。

 そうしなければ、イザークは目的を遂げることすらできない。


(ほんと、最低だな)


 先程も、傷の心配をしてくれたのに、誤魔化すことしかできなかった。だが正直に事情を話すことは、情けなくて嫌だった。家族に嫌われて虐められて、抵抗できないだけだとは。


(情けないことばかりだ)


 よくよく自分が嫌になる。市中警邏隊に入って鍛えたのも、ずっと探していたのも、こんなことのためではなかったのに。


「ち、ちが……」


 一人苦悶していると、目の前で微かな声が上がった。まさか起きているのかと聞き耳を立てるが。


「……おかみ、さん……違うんです……これは……気合が有り余ってるだけで……」


 寝言のようだ。どうやら夢の中で言い訳でもしているらしい。


(……なんだそれ)


 イザークが深刻ぶって考えている横で、ジゼルは健やかな寝息を立てているのがあまりに違いすぎて、イザークは何だかどうでも良くなってしまった。


(悩むだけ損だな)


 苦笑しながら目を閉じる。すると現金なもので、すぐに眠気が襲ってきた。自分で自覚する以上に、相当疲れていたらしい。意識は呆気なく手放された。





『……ク、イザーク』


 声がする。ぼうっとしていたイザークは、その声にはっと振り向いた。


『母上っ』


 目で追っていた蝶から、自分を呼ぶ母へと視線を動かす。厩舎で厩番の手伝いをしていた母が、手招きしている。イザークは走って母の元に戻った。


『母上、今日は何するの?』

『このにごはんをあげてくれる? その間に体を拭いちゃうから』

『はーい』


 幼いイザークは、素直に飼い葉の積んである場所まで走った。

 物心ついた頃には、母とイザークは別館に押し込まれていた。その当時は使用人はおらず、オーブリーが自ら志願して来るまで、広い別館を二人で管理していた。

 食事も洗濯も掃除も、母と二人で全てを行った。母は先代侯爵の娘のはずなのに、していることは使用人と同じだった。

 加えて、本館の汚れ仕事も度々回された。厩舎の手伝いもそうだ。馬糞を拾い集め、肥溜めまで運ぶのはいつもイザークの仕事だった。そのせいで、本館の人間からはすべからく馬鹿にされていた。


『臭いんだよ。近寄んな』


 そうしてイザークが不貞腐れて帰れば、母はまるで理解できないという風に笑った。


『ほら見て。綺麗にしてくれてありがとうって、喜んでるわ』


 母はいつだって無邪気だった。今では四十歳も過ぎたというのに、まるで少女のように笑っている。子供の頃はそれに救われ、少年の頃にはそれが嫌で仕方なかった。

 母は最愛の男に捨てられたことにも気付かず、今も迎えが来ると信じて笑っている。本館の連中に馬鹿にされているのに、気付きもしない。


『母上は、嫌じゃないの? こんな、使用人みたいなことさせられて』

『……ごめんね、イザーク。イザークは、お仕事、嫌いだった?』


 イザークが辛そうな顔をすれば、母はイザークよりも辛そうな顔で抱き締めた。

 そうじゃないと、イザークは言えなかった。あいつらは、いつか母を殺すつもりなのだとは。

 だが、言わなければならない。父親が――王弟が見付かれば、ずっと先延ばしにしてきた真実が、否が応でも暴かれてしまうのだから。


『ねぇ、イザーク。テオフィルはまだかしら?』


 母が笑っている。何も知らぬ、無垢な娘のまま。


『私、ずっと待っているの』


 知っている。イザークはその姿を、もう十九年見続けているのだから。


――ねぇ、ずっと待っているのに、どうしてあの方は来ないの?


(母上、それ、は……)


 あなたが捨てられたからだ。そう、残酷な真実を告げようとして、声が出ないことにイザークは遅れて気付いた。

 闇が、在る。


(……!?)


 いつの間にか、子供だったはずのイザークは大人の姿になり、その足元にはいつもの闇が黒々と蠢いていた。

 足が動かない。闇が、ずるずると体を這い上がってくる。

 また、あの痛みが来る。


――ねぇ、どうして、あの方はいまだに迎えに来てくれないの


(やめろ……やめてくれ……!)


 懇願が、誰にも届かず消える。どんなに足掻いても足は闇に食べられ始めたように動かず、憐れな両手だけが、じたばたと宙を掻く。だがそれも、いつも何も掴めず終わる――はずだったのに。

 ハシッと何かを掴んだ感触が確かにあって、イザークは藁に縋るように目を覚ましていた。


「はっ、はっ、はっ……」


 視界が薄暗い。まだ夜は明けていない。脂汗が止まらない。心臓が、命の危機を訴えている。

 だがいつものことだ。今日もまた眠れなかった。そう考えて。


「ん……」


 掴んだものが身じろぎして、イザークは咄嗟に手を放していた。ジゼルだ。

 そしてやっと思い出す。


「な、んで……」


 ジゼルと寝れば、悪夢は見ないはずなのに。

 何故と考えて、理由はすぐに思い当たった。

 寝ぼけてジゼルの足にしがみついた時もそうだった。悪夢にうなされ、逃げるようにふらついて、そしてジゼルを見つけたのだ。まるで暗闇から脱するたった一つの救いのように、ジゼルはぼんやりと明るかった。

 今も、イザークはジゼルの腕を掴むことで、悪夢から逃れることができた。

 それはつまり。


「触れていないと、いけないのか……?」


 導き出された答えに、イザークは今度こそ頭を抱えた。

 自分の身勝手でジゼルに嫌な思いをさせていると自覚があるからこそ、手は出さないと最初に誓ったのに。婚約という形を取ったのもジゼルを守るためで、都合よく扱うためではない。

 そもそも、イザークは女は嫌いだし苦手だった。リリアーヌのせいで決定的なものとなったそれのせいで、女の媚びるような笑みも、科を作る仕草も、果ては香水まで、女性的なものは何から何まで苦手だった。

 命の恩人がジゼルだと知っても近寄らなかったのも、それが一因でもある。

 だというのに、今度は自分の都合で触らせてくれなどと、どうして言えようか。


「詰んだ……」


 はぁと、この世の終わりのように項垂れる。その視界に、薄汚れた腕輪を嵌めた腕が伸びてきた。


「……ファビアン? 眠れないの……?」


 ずっと背を向けていたジゼルが、何かを探すように寝返りを打って手をぽんぽんと動かしていた。寝ぼけているらしい。或いは、また寝言か。


「だから、俺はお前の弟じゃないっての……」


 泣き笑いのように、イザークは呆れるしかなかった。その頭に、ジゼルの手が届いた。


「なっ」

「大丈夫よ。姉さまならここにいるわ……」

「…………っ」


 赤子をあやすように、優しくよしよしと頭を撫でられ、イザークはたった今悩んでいたことが全部吹き飛んでしまった。

 呆気に取られ、けれど次にはすっと気持ちが落ち着く。

 気付けば、とろんと瞼が落ちていた。

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