第21話 手当てと添い寝

 あの後すぐ、イザークが乗ってきた馬車に乗り、二人は侯爵邸に戻ってきていた。ジゼルが先に食事と入浴を済まし、今はイザークが湯を使っている。

 何となく定位置となった長椅子の端に座り、いつもの下着シュミーズに着替えてどきどきしながら待っていると、イザークが疲れ切った顔で戻ってきた。髪をよく拭いていないのか、濡れた金髪の先から幾粒かの滴が滴っている。


「待たせたな」

「べ、別に」


 濡れた髪を掻き上げるイザークに、ジゼルは思わず目を背けていた。


(なんっ……なんなのこの無駄な色気は!)


 油断していると、胸元に吸い込まれていく滴を目で追ってしまいそうだ。

 ジゼルは慌てて本題に入った。


「はい、ここ座って」

「……ん?」


 ぽんぽんと、なるべく平静を装って自分の隣を勧める。だがイザークは、警戒するように眉根を寄せた。


(まぁ、あんなに嫌がっておいて、今度は自分から接近しろっていうのは、ちょっと怪しいか)


 ちょっと失礼じゃないのかとは思ったが、気持ちは分かる。

 ジゼルはちょっとムッとしながらも、膝に抱えていた薬籠くすりかごをとんとんと叩いてみせた。

 イザークを待っている間、オーブリーに頼んで用意してもらったのだ。


「早く座ってよ。立ったままじゃ、手当てできないでしょ?」

「体はちゃんと流してきたぞ」

「まさか、いつもそれで終わりにしてたんじゃないでしょうね?」


 まるで大袈裟だと言うような口振りに、ジゼルは本気で驚いた。

 確かに、毎日怪我をしているみたいだから、こんなことは日常茶飯事なのかもしれないが、それでも傷を放置するのはよくない。毎日怪我をするのなら尚更だ。


「いいから座って。じゃないと寝ないわよ」


 口を尖らせながら最強の脅し文句を使う。するとイザークは、軽く肩を竦めながら静かに隣に腰を下ろした。


(あれ……なんか、距離が……)


 ジゼルが座るだけなら十分に思えた長椅子だったが、イザークが座ると途端に狭く感じる。右肩にイザークの体温を感じる。


(ええいっ、気にしないの!)


 これは自分から言い出したことだ。時間稼ぎをしたいのもあるが、気になるのも本当だ。

 ジゼルは自分に言い聞かせると、事前に確認していた薬籠の中身を取り出して手際よく軟膏を塗り始めた。

 大小を含めれば、擦り傷や打ち身は無数にあった。イザークの精悍な頬や額、筋肉のよくついた二の腕や手の甲、それらに一つずつ丁寧に塗っていく。


「警邏って、毎日賄賂を貰いながら散歩してるだけなのかと思ってた」


 まだ血が滲む箇所には包帯を巻きながら、思わず本音が漏れる。庶民代表のような言葉にイザークは怒るかと思ったけれど、返されたのは苦笑だった。


「そういう連中がいることは否定しない」

「そんなに大変なの?」


 上目遣いに問えば、イザークは何かに気付いたように瞠目した。それから、一度だけ目を逸らして、言葉を濁した。


「これは、……別件だ」

「ふぅん」


 どうやら、言いたくないことらしい。別に興味があるわけでもないので、ジゼルも追及はしない。

 代わりに、何となく父のことを思い出して、懐かしくなった。


(そういえば、父さまもこんな感じの時があったな)


 子供の頃は一番怪我が多かったのはジゼルで、しょっちゅう母にこうやって薬を塗ってもらっていた。だが父もまた負傷して帰ってくると、甘えるように母に手当てをしてもらっていた。

 その時、失敗したり、誰かを助けて損をしたりした時には、母に問い詰められてもこんな風に誤魔化していた。いつも大抵は父が根負けしていたけれど。


「はい、終わり」

「ぃてっ」


 母が父にしていたように、脛の傷をぱしりと叩いて、終わりの合図にする。距離が近いのも、もう気にならなくなっていた。

 だというのに。


「さぁ、ベッドに行くぞ」

「っ」


 薬籠をゆぅっくり片付けていたジゼルは、当たり前のように手を差し伸べられ、ぎくりと硬直した。


「どうした?」

「え……っと、あ! 薬籠、返しに行かないと」

「…………」


 あたふたと言い訳すると、はぁぁーっと実に面倒臭そうな嘆息がぶつけられた。イザークが指を立て、ジゼルの隣を示す。


「そこに置いておけばいい」


 だよね。とは勿論言わない。


「で、でも、他の人が怪我したら困るし」

「オーブリー」


 イザークは両手をパンパンと叩き合わせて、強行手段に出た。


「お預かりします」

「!?」


 ものの数秒で、慇懃な老執事が薬籠を回収していった。


(だからいつもどこにいるのよ!?)


 従者が控えの間にいて主人の安全を守るのは普通とはいえ、なんだか納得がいかない。


「で、あとは?」

「えぇっとぉ……」

「また横抱きにされたいのならそうするが?」

「行く行く! 自分で行くからっ」


 両手を出して近寄って来られ、ジゼルは即行で立ち上がった。もう二度とあの運ばれ方はされたくない。

 ジゼルは手と足を一緒に出しながら、ついにベッド脇に辿り着いてしまった。


(も、もう初めてじゃないんだし、ベッドで待ち構えられているよりは百倍ましよっ)


 最初の夜のことを思い出し、どうにか覚悟を絞り出す。

 その背後で、再びイザークが呆れたような嘆息を零した。


「お前が嫌なら、俺はベッドの下で寝る。それならばいいだろう」

「え」


 突然の折衷案に、しかしジゼルはかちんと目を据わらせた。


「労働の大変さを知らない貴族と同じにしないで。怪我人を床に転がせて平気なほど鬼畜じゃないわ」


 折角手当てまでしたのに、床で寝かせては治るものも治らない。それで仕事に支障が出て稼ぎが減っても、ジゼルに責任は取れない。

 という意味で言ったのだが。


「なら、一緒に寝るんだな?」

「うっ」


 当然の反論に遭った。

 だがこれには、ジゼルもちゃんと反論できる。


「私が、下で寝るから」

「却下」

「なんでよ!?」

「俺を、手当てまでしてくれた女を床に寝かせる下衆にしたいのか?」

「……別に、言い触らしたりなんかしないわよ」

「俺が嫌なんだ」


 ぴしゃりと言い切られ、ジゼルはそれ以上言い返せなかった。ジゼルも、立場が違えばきっとそう言っただろうから。


(床なんて、いつも寝ている所と大差ないんだけどな)


 ジゼルの家には専用のベッドなどというものは母のものしかなく、寝ているのは食事用にも使っているただの長櫃だ。その上にシーツを敷いて、ファビアンとくっついて寝ている。


「どうしても、一緒じゃないとダメなの?」


 ジゼルは諦めきれず、縋るようにイザークを見上げた。

 イザークは強引だし傲慢だが、所々では筋を通そうとしているし、平民相手だというのに礼儀や節度もある。話せばきっと分かってくれると思ったのだが。


「……離れすぎていると効果がないようだ」

「……近くにいなきゃダメってこと?」

「…………」


 予想内のことを言われ、ジゼルは頬が赤くなるのを感じながら最後の確認をした。

 まぁ、先日の足引っ付き事件を思えば、そういうことにはなるのだろう。むしろそうでなければ、ただの変質者だ。


「……分かった」


 ジゼルは致し方なく腹を括った。


「ファビアンとはいつも狭いベッドで一緒に寝てるし、まぁ似たようなもんよね。うん」

「…………」


 そう自分に言い聞かせ、そそくさとベッドに足をかける。同意も反論もなかったのは気になったが、今更気にしても仕方がない。


(そして今夜もとっとと寝るのよ!)


 こうして、二人は両側からそれぞれベッドに潜り込んだ。

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