第20話 迎えとお礼
ドスッ、ドスッ、ドスッ、ドスッ!
麗らかな日差しの中、桶の中にたっぷりと詰め込んだ羊毛を足で踏み洗いする音が、あちこちから聞こえている。その中でも特に物々しい音を立てる桶に、ともに働いている女たちはひそひそと声を潜めて額をつき合わせていた。
「……ちょっと、あれ、何なの?」
「あれが『悪役令嬢』の娘でしょ?」
「毎年手伝いに来てるけど、今年は酷いわね」
じきに訪れる初夏を前に、羊の毛刈りはこれからが忙しくなる所だった。町の各家で飼育されている羊の毛を刈り、羊毛の脂や汚れを落とし、毛織物に使えるようにする。
基本は毛織物
その中でも、郊外に住むジゼルは子供の頃から顔を出しているので有名だった。特に、あの『悪役令嬢』の娘という点で。
だがいつもは、何でも遊びに変える子犬のように楽しげで、行き過ぎては親方の奥方に怒られていたが。
「なんか、昨日から機嫌悪いみたいよ」
「何かあったのかな?」
「誰か聞いてきたら? じゃないと……」
ドスッ、ドスッ、ドスッ、ドスッ!
「こらジゼル! そんな馬鹿力でやったら商品が傷むでしょうがあ!」
「あいたっ」
すたすたと戻ってきた監視役の奥方が、早速ジゼルの頭をべちんっとはたいていた。
◆
昨日と今日と、ジゼルはまったく踏んだり蹴ったりだった。
昨日は朝から荷揚げの仕事に入ったが、イザークに対する怒りが一向に収まらず、荷物を乱暴に置く度に親方に怒られた。そのせいか周りの仕事仲間からはいちいち遠巻きにされ、結局誰とも話さないまま午前が終わった。
今日は女が多い羊の毛刈りだから良いかと思ったが、やはり誰からも話しかけられず、遠目にひそひそと陰口を叩かれてしまった。
(なんか、昔に戻ったみたい)
最近は割と上手く溶け込めていると思っていたが、勘違いだったのかもしれない。結局ジゼルは仕事を横取りするだけの邪魔者のようだ。
(ま、いいけどね。私は母さまの娘なんだから、孤高に生きるのよ)
仕事を始めた時分には、よくそんな風に自分に言い聞かせたものだ。
だが今日はそれ以上仕事を入れる気にならず、ミュルミュールの森の外縁部で野草を摘んで帰ることにした。
(明日は給料日!)
日雇いや飛び入りの仕事はその日払いだが、翻訳などは週に一度の支払いだ。明日こそは市場で肉を買おうと、自分を慰める。
そうしてやっと、愛しのぼろ屋の扉に手をかけようとした時、
「遅かったな」
「っ!?」
突如伸びてきた腕に阻まれた。まさかまだ日没前だというのにあの使者が来たのかと、咄嗟に扉に背をつけて振り向く。
イザークだった。目の下の隈が、また濃く戻っている。
だがそんなことは関係ない。ジゼルはスッと表情を消すと、淡々と睨み上げた。嫌味たらしいことは重々承知だが、まだ腹の虫がおさまらないのだから仕方ない。
「……伝言を聞いていないのかしら」
「何故来ない」
どこか焦燥感を滲ませて、イザークがジゼルに迫る。まるでこちらの話を聞いていない苛立った声に、ジゼルは自分の判断が間違っていないことを知った。
「聞いていないようね」
「……寝ぼけていたんだ。あんなに眠れたのは、随分久しぶりだったから」
「寝れたのならもうお役御免ね。じゃ、さようなら」
ひらひらと手を振って、改めてドアに手をかける。その目の前に、再びドンッと腕が伸びてきた。前後を完全にイザークの体に塞がれる。
「ちょっと……!」
いい加減にしろと、苛立ちを隠さず振り向く。
「寝れなかった。昨日、一人で寝てみたが、やはり無理だった」
振り向いたすぐ目の前で、イザークが整った顔を苦悶に歪めていた。さらさらの金髪は沈みかけの夕陽を受けて赤く、その中に見え隠れする灰色の瞳は、いつも以上に昏く沈んで見える。
(……まるで、私がいじめたみたいじゃない)
ちくりと、罪悪感が胸に萌す。
理不尽に虐げられることの辛さと無意味さを、ジゼルは何よりも知っているのに。
(でも、私は、悪くないわ)
ジゼルは、射抜くような碧眼をひたと向けて、正々堂々と胸を張った。
「お金をもらう以上、大抵の文句は飲みこむわ。破格の値段には、その分だって入ってるってことくらい、分かってる。でも、お金さえ払えば何をしても許されると思っているような恥知らずと分かってまで、我慢して媚びへつらう程落ちぶれてはいないつもりよ」
ジゼル・レノクールは、自由な父と、誇り高き母の娘だ。
物乞いをしたつもりも、貴族に慈悲を求めたつもりもない。
そのジゼルの剣幕に、イザークもやっと事の重大さを理解したらしい。灰色の目を僅かに泳がせて、悄然と頭を下げる。
「……悪かった。その、疲れていたんだ」
そう言った顔は、確かに反省しているように見えた。隈以外にも、どことなく全体的に憔悴している感じも伺える。それに、またあちこちに新しい生傷がある。
同情の余地はあるのかもしれない。だがそれでも、ジゼルは大銀貨三枚のためとはいえ、世間にバレれば将来を失うようなリスクを犯して侯爵邸に行ったのだ。
すぐに許して、また軽く扱われてはたまらない。
「私も仕事をしてきたわ」
「前払いにする」
「そういう問題じゃ」
「昨日の分も支払う」
「だから……」
そうじゃない、と続けようとした言葉を、ぐるぅぅ~っという腹の音が遮った。
「…………」
「…………」
碧と灰の瞳が、沈黙の中で見つめ合う。
ジゼルは、じわじわと熱が上がってくるのを感じながら、必死で言い募った。
「こ、これは、もうすぐ夕飯時だから! それだけだから!」
「……飯もつけよう」
「…………」
真顔で言われ、ジゼルは居たたまれなくなって両手で顔を覆うしかなかった。これでは、まだ報酬に不満があって食事を要求したようではないか。
(言いたいことはそうじゃないのにっ)
ジゼルは赤面しながら、指の隙間からイザークを盗み見た。
さぞ業突く張りと呆れていると思ったが。
(……なんなのよ、もう)
イザークは、まるで帰る場所を失ったような子供のように、ただジゼルの返事を待っていた。その瞳に、最初に感じた独善的で傲慢な雰囲気はどこにもない。
ジゼルは気を取り直すと、こほん、と一つ、咳払いをしてからこう言った。
「お礼を言って」
「……は?」
「謝罪も大事だけど……。お金とか仕事とかの関係であっても、何かしてもらったのなら、謝罪よりもお礼を言われた方が、お互い気持ちがいいでしょ?」
「…………」
ジゼルの言葉がよっぽど意外だったのか、イザークが豆鉄砲でも喰らった鳩のように目を見開いている。どうせ、貴族はお礼を言う習慣もないのだろう。
その様子が妙に可笑しくて、ジゼルは二ッと笑ってやった。
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