第1話 出会いと睡魔

 事の起こりは、数日前に遡る。


「ジゼル! 今日は随分ご機嫌だな」

「それはもう! 今日は何たってお給金の日だからっ」


 翻訳の仕事を終えた夕刻の帰り道。ジゼルは一週間ぶりに温かくなった懐を手でしっかりと押さえながら、市場の顔馴染みの店主に向かって陽気に手を振り返した。

 建国王クラージュの銅像が建つ中央広場まで伸びるこの市場通りは、首都オトゥールの城下の中でも、特に賑やかなエリアだ。色とりどりの花や野菜、果物から、乳製品、陶物すえものや皮革製品の小物や日用品まで、大抵のものは何でも揃う。

 だがジゼルにとっては、買い出しよりも隙間仕事をもらう格好の場所だった。お陰で、ちょっと進むだけであちこちから声がかかる。


「ジゼル、この前は助かったよ! また手伝ってくれ」

「私も助かった! また声かけて!」

「ジゼル、明日明後日とまた人手が足りないんだ。来られるか?」

「もちろん! いつもの場所に日の出からでいい?」


 荷車で牛乳缶を牽くお爺さんに、首都の東側を流れるラシオン河の河岸かしで働く荷揚げ屋のお頭と、以前に仕事を回してくれた人たちが、すれ違う度に声をかけてくれる。それに笑顔で応えながら、ジゼルは迷うことなく通りの奥にある肉屋を目指した。

 市場はやはり朝が良いが、今日ばかりは少しでもいいから肉を買って母や弟に栄養をつけさせたかった。母の薬や学校用品の分も残しておかなければならないから、毎日贅沢するというわけにはいかないけれども。


「お肉っ、お肉っ」


 るんるん気分で市場を走る。だがその軽やかな足取りは、ある路地にさしかかった所でずしりと重くなった。


(ここ、薔薇小路だ)


 広くて人通りも多い賑やかな通りとは一転、細くて薄暗い路地の左右に、幾つかの看板が見える。夕方の今時分に明かりが灯り始め、徐々に店の者が戸口に立って客引きをするのだ。

 男たちのための薔薇。女たちが春をひさぐ場所。


(ここなら、もっと沢山稼げるのかな……)


 公娼という仕事があると知った時、幼かったジゼルは何となく怖いと思っただけだったが、年頃の今になると、どうしても目を背け続けることが難しくなっていた。

 女子供の仕事は、その気になればいくらでもある。だが男や正式な徒弟と比べると、やはりその賃金は圧倒的に安い。家族三人が毎日満腹になるほど稼ぐには、頼りないばかりだった。

 父の仕事がいつも大成功で戻ってきてくれるならいいのだが、冒険者というやくざな商売のせいで安定性は皆無だった。

 しかも母への愛が強すぎるのか、母の病を治すための薬やら道具やらを収入分買い込んでくるため、いっかな家計の足しになることがない。

 ジゼルの腕輪もそうだ。子供の頃にジゼルが熱を出して長く寝込んでいた時、よく効く魔除けだからと、木の枝を細く裂いて加工された腕輪を渡された。


『いいかい。片時も外しては駄目だよ』


 子供心に渋くて全然可愛くないとは思ったが、いつも母にばかり土産を買う父が初めてくれたものだから、内心嬉しくて素直に言いつけを守っている。

 そんな父から、つい先日も母宛てに手紙が届いたばかりだが。


『今は友人と一緒にばったばったと魔獣を倒してるよ! 目標まで綺麗にするにはまだしばらくかかりそうだけど、そのうち良い報せを持って帰ることができるだろう』


 言葉の通りに魔獣を倒しているのなら、その分だけ市や組合ギルドから報奨金が出るはずだが、父のことだ。当てにはならない。

 お陰で父が放浪癖を堪えきれなくなった七歳の頃から、レノクール家の稼ぎ頭はジゼルになっていた。

 だがそれすらも、最初の頃は行き違いなどが度々あって、どこで働くにも苦労した。理由も聞かず石を投げられることもあった。今も時々その風潮はある。

 それを思えば、気軽に仕事を回してくれる人々が少しでもいることは、本当にありがたいことであった。


(そうよ、真っ当な仕事があるだけでも大感謝じゃない。まだまだやれるわ)


 改めて町の人々に感謝しつつ、路地からぐっと視線を外して前を向く。早く行かなければ、良い肉がなくなってしまう。


「……っ」


 力みすぎたのか、二、三歩進んだところでふらりと体が傾ぐ。


(やば……)


 ここ数日は家族が寝たあとで内職をしているせいで、少し寝不足気味だった。子供の頃に父についていって鍛えられたお陰で、体力だけならば自信があるのだが、眠気に勝つ方法は教わっていなかった。


「あれ? なんか、道が歪んで……」


 こんな所でもたもたしている場合ではないのに、体が言うことを聞かない。

 しっかり立たなきゃと思った時、何かにぶつかった。


「……、おい?」

「はぇ……?」


 おでこに固くて温かいものが当たっている。人だろうか。

 だが思考できたのはそこまでで、謝らなきゃとか退かなきゃという考えは、泥のように重い睡魔に飲み込まれてしまった。


(ね、眠い…)


 後にはただただその思考だけが、ジゼルの頭を占める。


「おい、お前! おい、まさか寝るんじゃ……な!?」


 誰かの呼び掛けが遠く聞こえるような気がすると思いながら、ジゼルの祖母譲りの碧眼はついにゆっくりと瞼の下に消えていった。


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