第32話 弟と客

「ジゼルはいるか!?」

「…………」


 バンッと大きな音を立てて玄関扉を開けるなりそう叫んだ男に、竈の前に立っていたファビアンは心からの冷眼を差し向けた。


(あなたのところの高価な扉と違って、うちの扉はそんな乱暴にしたらすぐ壊れてしまうんですけど)


 心の中でひとまず嫌味を吐いてから、ファビアンは鍋を掻き回す匙を置いて客らしくない客を出迎えた。


「何の御用でしょうか」

「お前は……弟か」


 貴族のくせに、まるでここまで走ってきたかのように息を切らしながら、金髪灰目の男が言う。名乗りもしないとは失礼なと思いながらも、相手の素性は既に見当がついている。

 ファビアンは静かに相手の出方を待った。


「ジゼルは? いないのか?」

「……姉は、昨日から泊りがけの仕事で不在ですが」


 言いながら、ファビアンは内心どきどきしていた。

 眼前の男が例の侯爵邸子息イザークであれば、恐らく用件は、ジゼルが起こしたと思われる『ちょっと、問題』のことだろう。


(……賠償金とかじゃないといいんだけど)


 十二歳ながら、ファビアンは我が家の財政状況が良くないことは大いに知っていた。

 それでも母の病気を治すために散財する父と、家族のことでは我慢のきかない姉のせいで、賠償金とか借金とか弁償という言葉には嫌でも耳馴染みがあった。

 だが眼前の男は怒りだすどころか、どこか後ろめたそうに右手を出したり引っ込めたりした後、こう言った。


「ジゼルが戻ったら、侯爵邸に来るようにと伝えてほしい。その……腕輪を、返すから、と」

「腕輪?」


 言われて、そういえば姉の左腕になかったなと気付く。洗い物をする時でも灰を捨てる時でも、真っ黒に汚しながら外さなかったのに。


(姉さまが、自分から預けたのかな?)


 そうだとしたら、姉はこの男を随分信用したことになる。ファビアンは少し寂しく思いながらも、喜ばしいことだと思った。

 姉は家族のために頑張ってばかりで、自分のことはずっと後回しにしてきたから。

 相手が貴族というのは少々心配だし、いつかこの家からいなくなってしまうのは寂しいが、それでも、幸せになれるのなら良いことだ。


「じゃあ、帰って来たら伝えますね」


 ファビアンは少しだけ警戒を解いて、年相応の笑顔でそう応じた。

 だがイザークは、何故か凛々しい眉根をぎゅっと寄せて、そのまま帰ってしまった。


(何がしたかったんだろう?)


 姉に会えないのがそんなに不満なのだろうかと考えるが、姉はいつだって忙しい身なのだ。夜には一人占めしているのだから、日中くらい我慢してほしい。


「あの人が兄になるとか……ないよね?」


 声に出してみると非現実的にすぎて、ファビアンはそんなわけはないかと笑って、また竈の前に戻った。

 それから再び匙をとって鍋の様子を見ながら味見をして、また首を捻る。


「何が違うんだろう?」


 何でも入れて煮込めばいいと姉は言っていたけど、鍋の中のスープはあまり上出来とは言い難かった。香辛料などは高くて買えないから、味付けが薄いのは同じはずなのに。


「ハーブとかかな?」


 庭に出て、それらしいものを探してみるが、よく分からなかった。

 今までもジゼルがいないことはあったが、食事は多めに用意するなどして、いつも家族が困らないようにしてくれていたから、ファビアンは料理をしたことがなかった。精々、パンやチーズを切り分けたくらいだ。

 今回も、スープはたっぷり、肉も下処理済みだったから焼くだけで済む。だが今日は学校が休みだし、姉がいつ戻ってきてもいいように、たまには料理をしてみようと思ったのだ。

 きっと姉が帰れば、そんなことよりも勉強をして良かったのにと言うだろうけれど。


「母さまに聞いてみようかな」


 思い立ち、母の寝室に向かう。今朝は調子がいいからと、朝食も一緒に食べた。少しくらいなら平気だろう。


「母さま、起きてますか?」


 遠慮がちにドアから顔を出せば、何度も読んでいる本をまた開いていた母が顔を上げた。


「あら。どうしたの?」

「スープを作ってみたのですが、どうも美味しくなくて……」


 ファビアンとしては真剣な悩みだったのだが、母は本を閉じながら「ふふっ」と笑った。ぷくりと頬を膨らます。


「……なんですか」

「昔のジゼルと一緒だわと思ってね」


 そう笑う母の顔は、相変わらず青白く、生気がない。風邪や肺病のように咳をしたり吐血したりすることはないのだが、まるで何かに生気を吸われているかのように、日に日に生命力が弱くなっているようだった。

 一度だけ診せた医者が言うには、ただの栄養不足とのことだったが、父はその言葉を信じていないようだった。


「一緒に作りましょうか」

「でも、体が……」

「平気よ。今日は調子がいいの」


 母は、目が覚めている時はいつも決まってそう言う。だから本当は信じてはいけないのだが、ファビアンは信じてしまった。姉がいない寂しさのせいかもしれない。

 そのことを、後で大きく後悔することになるとも知らずに。


 コンコンコン。


 母を支えながら主室に戻ると、そんなノックがした。


「今日は千客万来ね」


 そう笑う母を椅子に座らせてから、玄関扉を開く。

 また、貴族が立っていた。四十代くらいの、鹿爪らしい顔をした男だ。光沢のある高そうな絹織物の上着を纏い、背中に定規でも入っているかのようにぴしりと直立している。

 その顔に、ファビアンは見覚えがあった。


「……何か、御用ですか」


 母に見せたくなくて、扉を少し戻しながら男の前に立つ。


「ファビアン様をお迎えに上がりました。ご主人様がお待ちです」


 慇懃にそう答えた男に、やはりかとファビアンは顔を顰めた。

 この男と前に会った時も、こんな風に分不相応な敬称をつけて呼ばれた。理由を尋ねれば、ファビアンはオーリオル公爵の正当な後継者だと言われた。


『あなた様がお屋敷にいらっしゃれば、学費の心配も、ご家族の生活費のことも心配いりません』


 その言葉は、家族のことを思えばとても魅力的だった。けれどこの地に住むと決めた時、父が母の治療について相談しに公爵邸を尋ねた際に投げつけられた言葉を、ファビアンは知っていた。


『それが己の選んだ末路だろう。自分の失態を受け入れる度量もない未熟者に与える慈悲はない』


 婚約破棄されただけで利用価値がないと決めつけ、家を追い出した祖父のことを、ファビアンはとてもではないが好きになれない。

 家族に楽をさせてあげたいのは本音だが、そのために母を捨てたものの力を借りるつもりは毛頭なかった。


「そちらのお世話にはならないと、前にも言いましたけど」

「今回は別件でございます」

「別? そんなもの……」

「当家嫡男ルシアン様が刺されました」

「……え?」


 突然のことに、ファビアンは情報が整理できなかった。だが意味が分からないながら、やはり関係ないことだと、どうにか冷静さを取り戻す。

 だがそれも、次の一言で徒労に終わった。


「下手人は、ジゼル・レノクールと思われます」



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