第37話 魔女の森に噂の影
一歩進むごとに、気温が下がり、頭上に落ちる影が濃くなる。
足元の草むらの背丈が大きくなり、根が張り出し、剪定されない枝葉が道を塞ぐ。
だが歩きにくいくらいは、まだ序の口だ。
この森の『奥』という言葉には、歴然とした定義がある。
それは。
「あれ、なに?」
ジュストが、驚いたように宙を指差す。その指先では、ベルベットのような産毛を揺らしながら、鉱石のような艶を放つ黒蝶が青白い鱗粉をまき散らしながら飛んでいた。
《クスクス。愚か者が歩いている。餌を抱えて歩いている。若い生き胆は蜜の味。幼い臓物は蕩けてしまう。クスクス、クスクス。早く進め、早く進め。
男とも女ともつかない声で、呪いのような言葉を囁きながら。
「あれも魔獣の一種だね。森が深くなると、蝶や羽虫や、小さな魔獣が現れだすの」
その言葉通り、昼なお薄暗い森の中には、あちこちで魔力を帯びた光が明滅していた。足元で光るのは、魔化――強い魔力のせいで毒を帯びた草の実や野苺、茸の類だろう。もし実を潰せば、触れた肌はかぶれてしまう。
「まだ、奥に進むの? これ以上は危険だと思うけど」
「もう少し……探しているものが、見つかるまで」
魔獣が現れるのは、危険区域に踏み込んでいる合図だ。
ジゼルは公爵家の追手から逃れるため、ミュルミュールの森に身を隠すことは決めていたが、それでも奥に棲む魔獣を刺激しない辺りまでと考えていた。
だが悪夢から目覚めたジゼルがジュストに帰るよう促しても、ジュストは一向に頷くことはなかった。
『探しているものがあるんです。それを見つけるまでは……帰れない』
ジゼルは追われている身であり、何かあれば一緒にはいられないと何度も説明したが、ジュストは頑なに引き返さなかった。
体調は戻ったから、進める所まで進むと。
(危険が迫ったら戻るって約束はしてくれたけど)
ジュストのどこか切羽詰まったような瞳は、まるで後がないとでも言うように前だけを見つめていて。
(
腰に差した、子供でも扱える小さな短剣にそっと触れる。もう何年も、まともに使っていない。子供の頃に遭遇したような大型の魔獣では、少しも歯が立たないのは明らかだ。
それでも、ジゼルはジュストに請われるまま、進み続けた。
森は益々深く昏くなり、肥大化したトンボのような悪食の
辺りは黒い靄のような瘴気が少しずつ立ちのぼり始め、視界が更に悪くなっている。
(そろそろ、限界かしら)
先程から、寒気が止まらない。謎かけのような囁き声が幾重にも重なって、頭が混乱する。
《骸骨の生き肝をちょうだい?》
《この先に行くには、虹の根がいるよ》
《蝶の後ろ髪を差し出せば見逃してやるぞ》
《枯れた花の蜜がいい。魚の涙でもいいぞ》
加えて、ジゼルは先程からずっと視線を感じていた。肌の上にぴたりと張り付いて、その下の血管にいつ舌を這わそうかと狙い定めている、捕食者のそれを。
だが、違和感もある。
(なんで、襲ってこないの……?)
九年前と違い、今この森にいるのは魔獣狩りの力などない子供二人だけだ。短気な魔獣なら、もっと早い段階で襲ってきそうなものだが。
(様子を、窺ってる? 何の……?)
魔獣の気配が向いている方――父なら分かったろうが、さすがにジゼルにはそんな芸当はない。
「ねぇ、ジュスト。そろそろ、戻った方が……」
隣を行く少年に、小声で促す。それを、魔獣もまた聞いていたのかもしれない。
草藪の向こうに忍んでいた魔獣が、二人目掛けて矢のように飛びかかってきた。
「!?」
「下がって!」
脊髄反射でジュストを背に庇うとともに短剣を引き抜く。白刃が鞘を離れたのと、ギザギザの細かな牙がそれを弾くのは同時だった。
「
短剣の切っ先を一噛みして後ろに跳躍したのは、黄色い毛皮に長い胴体を持つ狂暴な小動物だった。化相貂が目の前を横切ると、運命が反転するという言い伝えもある不思議な魔獣だが。
「化相貂が自分から人を襲うなんて……っ」
「ここはそういう場所なの! 本来穏やかなどんな種も、魔女の放つ瘴気にやられて狂暴化する……!」
背後で震えながら周囲を見渡すジュストに忠告しながら、改めて短剣を構える。だがその右手は震え、足は竦んでいた。
(動け、動け、動け……!)
化相貂が鼻の頭に皺を寄せる。ジゼルもまた、下がりそうになる足に力を込めて構える。
化相貂の威嚇音が次第に大きくなる。
「ギュゥ、ギュギュゥ……ッ」
「!」
来る、と思った時には反射的に短剣を突き出していた。切っ先が、腹の柔らかな毛と皮を裂く。が、浅い。
そのこめかみを、ヒュン! と何かが横切った。
トスッと背後で何かが地面に突き立つ。
「お姉さん、ふせ――!」
「伏せて!」
考えるよりも先にジュストを引っ掴んで地面で覆いかぶさる。だが予想された次弾は、どこにも着弾しなかった。
そろりと目を開け、草むらの間に目を凝らす。腹を一本の矢に貫かれた化相貂が、泥と血溜まりの中に横たわっていた。息は、ない。
(まさか……討伐隊?)
だが害獣討伐が最も盛んに行われるのは、冬を前にして餌がなくなる時期だ。森の外から見た時も、待機している一団や、道具を乗せる馬車なども見かけなかった。
何故と、慎重に首をもたげて、射線の先を見る。
少し離れた木の枝上に、長い髪と外套をはためかせた人影が不気味に立っていた。その姿に、今更ながら森の噂が脳裏に想起する。
(長い髪を振り乱して、魔獣の生き血を啜って、子供を……)
攫って食べる、というところまで思い出して、サーッと血の気が引いた。
(……やばい!)
信憑性の有無も分からないながら、ジゼルは覆いかぶさったままのジュストを両手で抱え上げるとそのまま走り出していた。
「お、お姉さんっ?」
「静かに! 息も気配も殺してて!」
両手足を垂らしたまま担がれるジュストに、ジゼルは耳打ちするように一喝する。
咄嗟に逃げ出したせいで、どちらが奥か外か分からない。ただでさえ陽が射さず、方向感覚を狂わせる森だ。だが立ち止まるのは死を意味するとジゼルは知っていた。
枝や草の鋭い刃を短剣で切り払いながら、とにかく走った。あの魔女が、二人から興味を失うまで。
しかし。
「待て」
「!」
突如頭上から降り立った影が、二人の進路に立ち塞がった。
「お前たち、何者だ」
低く太い声が、険を滲ませて誰何する。
生木を削りだしたような無骨な弓と、骨製の矢尻が、ジゼルの額を揺らぐことなく捉えていた。
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