第38話 秘蔵の薬と二人の母親

 乗合馬車を降り、旧市壁を歩いて越え、いくつかの屋敷を通り過ぎた辺りで、ソランジュの足はとうとう止まってしまった。

 元々、寝たきりだった期間が長く、足はすっかり萎え切っている。ここまで歩き続けてこられたのは、ひとえに気力ゆえにだった。

 だがこの先は、乗合馬車の運行はない。通りを行くのは紋章入りの馬車ばかり。

 歩き続けるしかない。

 だが。


(だめ……もう、眩暈が……)


 気を抜くと意識が遠ざかりそうになる。ソランジュはとうとうどこかの屋敷の門前で座り込んでしまった。最後の力を振り絞って、懐の小瓶に手を伸ばす。


「こちらはあちら……高いは低い……凍れる指先、燃える踵……与えられたものは、目に見えない……掴め、飲み込め、飲み干せ……巡れ」


 一口飲むごとに、一言唱える。そうして最後の一口を飲み干す頃には、最早息も絶え絶えだった。


(飲むだけのことでも、こんなに、疲れるなんて、困ったものね)


 既に肺も心臓も悲鳴を上げていた。息を吸うだけのことが辛い。ソランジュはハァ、ハァと喘いでどうにか空気を肺に送りながら、薬が効き始めるのを待った。

 日差しが強くて、それもまた体力が奪われる。だがソランジュの頭は、すぐ先にある日陰に行くことよりも、昨日から戻ってこないジゼルのことでいっぱいだった。


「とうとう、相談してはくれなかったわね……」


 ソランジュは、家のために生きてはきたが、それは大好きな父母のためであり、自由意思であり、何かを我慢することなど一度もなかった。

 夫のイヴァンもまた、出自を嫌い、国を捨て、自分の力と一本の剣だけでどこまでも自由を求めた。

 しかしその二人の子供は、皮肉にもいつも自身よりも家族を優先し、自己を犠牲にし、そのことに気付きもしない。


(これでは、母親失格ですわよね、お母様)


 こんな時、いつも九歳の時に死んでしまった母を思い出す。

 生来病弱で、子供など産める体でないと言われていたのに、だからこそ産みたいと強情を張った母。

 病みやつれて、病床から起き上がられなくなっても、母はソランジュのために絵本を読み、王家に伝わる逸話を聞かせ、童歌を幾つも歌ってくれた。

 そんな風にねだってばかりのソランジュに、父はいよいよ母に会うなと言った。九歳の自分には、大好きな母に会えないのは何より辛かった。

 主治医もダメだと言ったが、父が仕事でいない時間にだけ、こっそり会わせてくれたことには、今でも感謝している。

 だから、十六歳のあの日、憎々しげに出て行けと言われた時、これは母の死期を早めた罰なのだと受け入れた。


(けれど、それとこれとは話が別でしてよ)


 ソランジュは、決して良い母親ではない。

 そしてまた今なお、良い娘でもないのだ。

 あの時は、大切なものなど他になかったから引き下がったけれど、今は違う。


「返してもらいますわよ、お父様」


 やっと薬が効いてきたらしいと、足に力を込める。だが症状が軽減されても、足の疲れまですぐ消えるわけではない。立ち上がる途中でまた体がふらつく。

 倒れる、と目を瞑る。その体に当たったのは、固い石畳ではなく、細く柔らかい腕だった。


「……あの、大丈夫ですか?」


 心配げな声が、優しく問いかける。ソランジュは小さく頭を振って平衡感覚を取り戻しつつ、自分を支えてくれた人物を見上げた。


「あの、お怪我は……痛いところとか、ありませんか?」


 そう言いながら、ソランジュが起き上がるのに手を貸してくれたのは、嫋やかな女性だった。

 ソランジュよりも幾分年配だろうか。陽光にきらきらと輝く細い亜麻色の髪に縁取られた丸い顔の中、柔らかな灰色の瞳が、親しげで安心感を与える。

 その理由は、差し出された手に触れて、すぐに分かった。女性の手は、貴族の女性らしからぬ、働いている者のそれだった。

 ソランジュは相好を崩した。


「平気よ、と言いたいところだけれど……、少し休ませてもらえないかしら」

「勿論です。中へどうぞ」


 案の定、女性は困る様子も見せず優しく肯定した。背後に見える比較的小さな建物を掌で示す。

 その親切に心から感謝して、ソランジュは首を横に振った。


「それは悪いわ。それに、すぐに行かなければならない所があるから」


 門前にいるのは邪魔だろうが、少しだけそれを許してくれさえすればいい。

 だが女性は、困ったように眉尻を下げた。


「それはいけません。あなた、見るからに辛そうですもの。こんな所では良くなるものも良くならないわ」


 そんな問答を二、三度繰り返していると、建物の方から複数の蹄と、カラカラと回る車軸の音が聞こえてきた。

 先に女性が顔を上げ、それから少し慌ててソランジュを移動させようと手を引く。だが二頭立ての馬車はそれを待つことなく、ソランジュの目の前にその大きな蹄を叩き降ろした。


「っ」


 二人が身構える前で、大きな馬体がその場で何度か足踏みする。一歩間違えば人身事故にもなるというのに、それは明らかに悪意があった。


(広いアプローチと門があるくせに、随分心の狭いやり方をするものね)


 ひとまず抗議の声を上げようかと、一つ大きく息を吸い込む。その間に、馬車の御者台にいた男が先に汚い濁声だみごえを張り上げた。


「そこで何をしている! ここはエスピヴァン侯爵様のお屋敷前だぞ!」

「…………」


 居丈高な言い分に、ソランジュは発する文言を抗議から痛罵に切り替えることにした。

 その寸前。


「あらぁ。申し訳ありませんわ。お邪魔するつもりはありませんでしたの」


 女性が、突然少女のようにころころと微笑んだ。身の丈の二倍はあろうかという馬車に、少しも怯む様子がない。

 その違和感にソランジュが口を閉じた時、馬車のドアが開かれ、一人の男が現れた。


「シャーリー……貴様、何故ここにいる」

「……ッ」


 侮蔑と共に見下す淡褐色ヘーゼルの瞳に、女性の瞳が初めて僅かに揺らいだ、ような気がした。

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