第39話 仮初の令嬢と生粋の令嬢
「シャーリー……貴様、何故ここにいる」
そう言いながら顔を出したのは、眉間に深い皺を刻んだ、五十歳前後と思われる男だった。茶褐色の髪に
(たしか、お父様の弟……マルスラン叔父様、だったかしら)
ソランジュは、子供の頃に会った数回の記憶を掘り起こした。
父に会う前に嫌な相手に見つかってしまったと思ったが、マルスランの視線はにこにこと笑う女性ばかりに据えられていた。
「まさか、逃げ出そうとしたのか?」
「まぁ、逃げる? どうしてですの?」
「……チッ」
ことりと小首を傾げる女性――シャーリーの仕草に、マルスランが憎々しげに舌打ちする。
一方、蚊帳の外にされたソランジュは、そのやり取りに久しぶりの懐かしさを感じていた。
(この方、もしかして……)
マルスランの険悪な雰囲気も気にせず、一人勝手な推論を立てる。と、今度はソランジュが睨まれる番になった。
「……まさか、お前……ソランジュ・フェヨールか?」
「えっ」
驚きの声を上げたのは、何故かシャーリーだった。灰色の瞳と、ぱちりと目が合う。
だがその先は、不届きな言葉に邪魔された。
「何故ここに……最早自力では動けないという話ではなかったのか?」
その驚きは、生きていたということよりも、この場所にいることにこそ向けられていた。
首都に『悪役令嬢』が戻ってきたという噂は、もう随分昔に市井には広まっていた。貴族街の連中が気に掛けるとは思わなかったが、耳に届いていても不思議ではない。
だが、その病状まで知られていたのであれば、話は違ってくる。夫も娘も、言い触らしたりはしないからだ。
何より、マルスランが利用価値もない姪の消息を正確に把握していることに違和感がある。
(……そういうことなのかしら)
胸中で、一つの結論に辿り着く。だがソランジュはそれら全ての思考をおくびにも出さず、ふらつきながらもドレス(と言うよりは、上等なワンピースといった程度だが)の裾を持ち上げて優雅に一礼した。
「ご無沙汰しております、マルスラン叔父様」
貴族の前では貴族の礼を。
既にその身分になくとも、品のない狭量な男の前で失態を見せることを、ソランジュの矜持は許さなかった。
だが今は、シャーリーが死角から支えてくれたことが、何より有り難かった。
そんなことには露も気付かず、マルスランが馬車上から見下ろしてふんと鼻を鳴らす。
「一生涯無沙汰で構わなかったがな」
「それは残念にございますわ」
「よもや、ひと昔前に見捨てられた令嬢二人が、我が家の前で揃うとは……何という縁起の悪さだ」
独り言のように吐き捨てられたその言葉には、ソランジュにだけでない悪意と侮辱がはっきりと含まれていた。
お陰で、ソランジュはずっと脳内で揺れていた選択肢を放り捨てることができた。
(今更、お父様への面目も気遣いも不要だったわね)
この男は敵だと、本能と理性が同時に結論を出す。
「……今の言葉、聞き捨てならないわ」
ゆらりと、笑みを切り崩す。怒りが、ソランジュの体を押し上げる。
その隣で。
「ひどいわ」
シャーリーが、さめざめと泣き崩れた。
「わたし、見捨てられてなんかいないわ。テオはきっと迎えに来るって、そう約束してくれたもの」
いやいやと、子供が駄々をこねるように首を左右に振る。その様を、マルスランは白々しく見下した。
「まだそんな下らん妄言を吐いているのか。一時の熱情にほだされて下した愚かな選択の結果を、もう十何年と突きつけられたというに」
「違うわ! 彼は私に永遠の愛を誓ってくれたもの――」
パァンッ、と小気味良い音が門前に響く。
呆れと嫌悪を混ぜた顔で、マルスランがシャーリーの頬を平手打ちしていた。
そしてそれは、馬車のステップを踏むのと何ら変わらない日常だとでもいうように、マルスランが続ける。
「頭のいかれた女に諭しても意味はない。――おい、こいつを別館に連れ戻せ」
言いながら、馬車の後ろに随行していた
その脛に渾身の一蹴りを入れられない自分の脆弱さに歯噛みしながら、ソランジュはその場で踵を返した。
いまだにめそめそと泣き真似をするシャーリーの手を、はっしと掴む。
「こんな所にいる理由などなさそうね。行きましょう」
「え?」
シャーリーが、驚いたように顔を上げて立ち上がる。その前に、慌てて従僕が回り込んできた。
「ま、待ちなさい。その女をわた――」
「お退きなさい! 誰の前を塞いでいるか分かっているの!」
「ッ」
病気などないかのように、そらは毅然と完璧な立ち姿で一喝した。従僕がびくりと後退る。
それを冷ややかに一瞥して、再び悠然と歩き出す。
その前に、今度はマルスラン自身が飛び出してきた。
「待て! いつまで自分を公爵令嬢と勘違いしているつもりかは知らんが、これは我が家の問題だ。貴様には関係ない。寄越せ!」
その狐のような狡猾な細面に、明らかに苛立ちと不快感が募っている。だがソランジュは、威圧も恐怖も失敗への不安も、毛ほども感じてはいなかった。
(この方、社交界での立ち回りというものをご存知ないのかしら)
社交界では、笑顔で嫌味を言い、裏の裏をかき、先の先を読んで口に油を塗っておかねばならない。そこで一番見せてはならないのは、本物の感情だ。
だからこそ、ソランジュは何の勝機も策略もなくても、不敵に笑った。それは、豪華なドレスや高い化粧を上回って余りある、実に華やかな笑みだった。
「関係なら大いにありますわ。シャーリー嬢はわたくしが唯一兄と慕う叔父様が愛した方。その方が迫害されているのなら、助けるのが道理というものでしょう」
「……!」
その言葉に、マルスランが大きく目を見開く。
よもや、亡き王姉の忘れ形見であるソランジュと王弟テオフィルの関係を忘れていたとでも言うのだろうか。
詰めが甘くて笑ってしまう。
その笑みを、マルスランはやはり直球で受け取ったらしい。
「生意気な……!」
ギリリッと盛大に歯噛みして、マルスランが今度はソランジュの襟首を掴み上げた。
「ッ」
「お前を兄上の前に引きずり出してやる。一族の恥晒がこんな所でのうのうと生きていたと知れば、兄上も相応の罰をくれてやるだろう」
にぃやりと、マルスランが嫌らしい笑みを浮かべる。マルスランの平手が、再び高々と掲げられる。
多少の痛みぐらいは覚悟の上だと、奥歯を噛みしめる。
その視界に、白いものが大きく翻った。
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