第40話 怪しい男に危険な少年
ごくりと息を呑む。その音が、静まりかえった森の中でいやに大きく反射して、ジゼルはしまったと思った。
(最初から弱味を見せてどうすんのよ……!)
だがここまで接近されれば、相手が実体のない魔女の魂でも、ましてや女でもないことは明らかだった。
背中まで伸びる長い金髪はごわごわに荒れているし、顔を覆う髭は伸び放題で、薄暗い中では年齢も推測が難しい。外套も服も靴も何もかも薄汚れていて、弓矢がなければ気の触れた物乞いかと思っただろう。
そのみすぼらしさはある意味でこの森に馴染んでいて、だからこそ逆に違和感が際立っている。
その理由は、やはり外套の下からちらちらと伺える、重たそうな筋肉だろう。二の腕や背中のラインは、イザークよりも太く、いかにも実戦的だ。引き絞られた弦を引く妻手は、ぴくりとも震えない。
この距離では、とてもではないが逃げられない。
ジゼルはぎゅっと短剣を握り直すと、思考を最大限に巡らせて口を開いた。
「何者って言われても……肩書きは特にないんですけど」
「……なに?」
ぴくりと太い眉が跳ね上がる。だがそれしか言いようがないのだから仕方がない。
さぁ次は何と脅すのかと身構えていると、眼前の矢尻がスッと下げられた。
「へ?」
「
思わず間の抜けた声を上げたジゼルを諭すように、男が簡潔に説明する。
だがそうなると、安堵と同時に疑問が湧こうというものだった。
だがその疑問を声に出したのは、ジゼルではなかった。
「お前こそ何者だ」
「……え?」
「ここは御領林で、《奥》への立ち入りは
「え、ジ、ジュスト……?」
腕の中で突然豹変した少年に、ジゼルは目を白黒させた。
早熟な子だとは思っていたが、目の前の乞食のような男を睨むその目は、明らかに人の上に立つ者の風格を有している。
(貴族の子供って、こんな小さい頃からそうなの?)
思わずジュストの腹から腕を引いていた。
地面に下せば余計にその小ささが際立ったが、対する男は不思議に思うでもなく応答した。
「《奥》に入らなきゃ浄化できねぇんだから、入るしかないだろ」
「浄化、だと……? 何のために……」
「領地として賜るために決まってんだろ」
「は……?」
今度は、ジュストが間抜けな声を上げる番だった。
だがその後ろで、ジゼルは昔に父から聞いた話を思い出していた。
確か、この森が首都郊外に広がるせいで、他の都市へ移動するにもいちいち迂回する必要があるのだとか。この森がなくなれば真っ直ぐに街道を通すことができる上、首都近隣の畑を増やすこともできる。そうなれば、ここ一帯の食糧価格をぐんと下げることもできるだろう、と。
食費軽減万歳と、幼いジゼルは飛び上がって喜んだものだ。しかし母は能天気な父娘に呆れながら、実に現実的な忠告をくれたのだった。
『それが簡単にできるのなら、そもそも
それもそうだと、父は笑った。だからこそ面白いんだと言っていたが、ジゼルは儚い夢だったと、それきり父の話には付き合っていない。
「浄化とは、具体的に何をするつもりなんだ」
動揺から立ち直ったらしいジュストが、更に幼い顔を険しくして問い直す。
これに、男は長い顎髭を弄びながら答えた。
「魔力が薄れれば次第に土地の浄化作用が追い付くと、友人は言ったがな。俺としては、魔女をどかせば一番手っ取り早いと思っている」
最後の一言に、ジュストの気配がピリリと張り詰める。
「魔女を、殺す気か」
「必要とあらば」
「――――」
男の答えに、ジュストの体がぶわりと広がった――ように見えた。隣に立っているだけのジゼルの全身から冷や汗が噴き出る。
だから、ジゼルは考えるよりも先にジュストの体を後ろから抱き上げていた。
「なっ!? 何す――」
「ダメよ、力を使っちゃ」
抗うジュストの耳元で素早く囁く。その二人の首筋に、いつの間にか白刃がぴたりと据えられていた。
「ん? もういいのか?」
男が、刃を一寸も動かさずに肩を竦める。ジゼルは冷や汗がたらりと垂れるのを感じながら、口の中で「ええ」と肯定した。スッと刃が外套の下に帰る。
「気が済んだなら、早く戻れ。死んじまうぞ」
「……ぼくは戻らない」
「忠告はしたからな」
呆れたとばかりに、男が肩を竦める。だがそれ以上は何も言わない。本当に、親切心だけで現れたらしい。
ジゼルはそっとジュストを下ろしながら、既に歩き始めていた男の背に問いかけた。
「あたなは戻らないんですか?」
「そのうち戻るさ。もう五年も息子をほったらかしにしてるからな。あんまりちんたらしていたら息子が騎士になっちまう」
「五年? 浄化を始めて、まだ五年なの?」
安全な場所でもあるのか聞き出そうと考えていたジゼルは、思わぬ情報に喰いついた。
魔女が夜な夜な歩き回るという噂の正体はこの男かと思ったのだが。
「そう聞いているな」
「聞いてる?」
「俺はこの森から一度も出ていなくてな。友人がたまに家族に会いに行くから、そのついでに聞いた話だ」
答えながら、男はカッカと笑って今度こそ立ち去ってしまった。嵐のような男だと思ったが、その生き様も随分大雑把なようだ。
だが男が去って、確信したことがある。
(魔獣が、また……)
男が現れた途端遠のいていた魔獣の気配や視線が、再びさわわと集まりつつある。
(すぐに襲ってこなかったのは、あの男を警戒してたのね)
あの男が森で何をしているかは不明だし、魔獣を片っ端から殺しているわけでもなさそうだが、一目置かれていることは確かなようだ。
だがその理由を考える前に、ジュストが恨みがましい声を上げた。
「……どうして、止めたんですか」
「こんな所で魔法を使ったら、何が起こるか分からないでしょ。魔獣がうじゃうじゃ寄って来たらどうするの?」
ジゼルは、やっと年相応の子供を相手にしたように説明した。
ジュストは、魔力のある森で体力が回復すると言っていた。つまりジュストは魔力持ちなのだ。
先程感じたのは、明らかな怒気であり、そして魔力の発露だった。止めていなければ、周囲一帯が焼け焦げていたか、凍り付いていたか。
ともかく、ミュルミュールの森にいる魔獣は、魔女の放つ瘴気に惹かれて集まったというのが定説だ。となれば、魔法を使う行為は自殺行為になるかもしれない。
そのことを、ジュストも分かってくれたらしい。しゅんと項垂れながら、素直に謝った。
「ごめんなさい……。でも、ぼくは彼女に会わないといけないんです」
「探してるものって、もしかして……」
奥へ進むと言ってきかなかった言葉を思い出す。だがジゼルは、それなら協力するとは、とても言えなかった。
(ミュルミュールの森の奥にいて、生き永らえる女性なんて、いるとは思えない)
人の生息地に適していないはずの場所で、先程の男は実に不羈奔放に生きていた。可能性が皆無とはまだ断定できない。
だが、それだけだ。生きて会えるなど、夢想に近い。
という思惑を感じ取ったように、ジュストは苦笑した。
「けれど、あなたまで付き合わせて、危険な目に遭わせるのは間違っていました。ここまで、ありがとうございました」
そう言って、改めて頭を下げる。子供特有の柔らかな髪が、森の風にふわふわと揺れる。
その決意の固さに、ジゼルは見えもしない天を仰いで、それから苦笑した。
「こんな深くまで来て、か弱い女の子が一人で帰れると思う?」
「え? でも……」
「君のそばにいた方が安全そうだから、一緒に行くわ。……それに、まだ戻れないだろうし」
できるだけ軽口めいて、ジゼルは言った。だが最後には、本音が零れてしまった。
ここまで森の奥に入れば、もう外の時刻を知ることは難しい。だが、まだ一時間も歩いていないのは確かだ。
今森の外に出ても、ジゼルに行き場はない。
自宅はきっと公爵家が監視している。町中も危険だ。罪状は伏せて、警邏に捜索させている可能性もある。
次にイザークと会う時には、犯罪者として捕まって
(……有り得そうね)
最後に見た、灰色の瞳の冷たさを、嫌でも思い出す。胸の奥がつきん、と痛んだが、ジゼルは気付かないふりをした。
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