第49話 逃げたいと会いたい

 力が抜けていく感覚は、恐ろしくもあったけれど、どこか心地好くもあった。

 ジゼルはずっと、弱味を見せてはならないと肩肘を張っていた。

 最初から立場が悪かったから、小さな失敗も怠惰も許されなかった。工夫や改善さえ、ジゼルがやれば手抜きだ、何か企んでいると怒られた。

 だから、強くなければいけなかった。

 誰かを頼るのは危険だった。仲良くなっても、助けてと言えば人を使う気かと非難された。少しでも涙を見せれば、女を利用していると侮蔑された。

 だからずっと体中に力を入れて、自分を守ってきた。倒れないように、揺らがないように。

 その力が自分の手から離れていくことは、図らずもそんな生き方の終わりを示唆しているようで。


(私、もう、頑張らなくていいんだ……)


 焼けるような痛みも、全く吸い込めない呼吸も、紗を隔てたようにどこか遠く、もう気にならない。


(このまま、ずっと眠っていたいな)


 最近は、ずっと眠れていなかった。悪夢のせいもあるが、イザークのことや、ルシアンのことが気になってずっと考えていた。

 ルシアンとは、決行日を伝えてからも十分に話し合った。証拠は見つからずとも宛てはあると言っていたし、他にも協力してくれる者がいるとも言っていた。

 ルシアンの計画が成功すれば、ファビアンや母のことももう心配いらない。

 だというのに、結局ジゼルは逃げてしまった。

 使者が揉み消すと言ったのだから、ジゼルはそのまま普通に生活しても良かったのに。

 家族に打ち明けて相談する時間は、いくらでもあったのに。

 本心を聞くのが怖くて、後ろめたさから、ルシアンの提案に乗って逃げ出してしまった。


(でも、平気よ)


 ファビアンたって、ジゼルがいなくても上手くやっていた。しばらくは戸惑うだろうけど、そのうち慣れる。

 残るは、イザークのことだけれど。


(ちゃんと、謝りたかったな)


 イザークは、いつからジゼルのことを知っていたのだろうか。

 傷に響くと素っ気なく言った時の彼の横顔は、今であれば、きっと知っていたのだろうと思う。

 ジゼルと再会する前から、きっと知っていたのだ。子供の頃に出会っていたことを。

 けれど、会いにきてはくれなかった。

 命の恩人だと思っていたのだろうか。

 それとも、全ての元凶だと憎んでいたのだろうか。

 全てを知っていて、それでも悪夢をどうにかするため、仕方なくジゼルに会いに来たのだとしたら。


(なんて滑稽だったのかしら)


 一人で怒って、浮かれて、近付けた気になって。

 こんなことなら、最初から出会わなければ良かった。


――本当に、そう思う?


 あぁ、また、声がする。

 聞きたくない、胸の奥にしまったはずの本当の声を、優しく暴く声が。


――出会わなければ、きっとあなたは知らなかった


(知らなくて良かったわ。知らずにいれば、苦しまなくて済んだもの)


――その苦しみは、あなたを傷付けるだけのものなのかしら


 そうだと、すぐには答えられなかった。

 胸がぎゅぅっと締め付けられるように痛くて苦しくて、イザークの声が絶え間なく蘇る。初めて優しく呼ばれた時に、心が震えたことが忘れられない。それさえも、ジゼルにとっては苦しみだったから。

 全てをさらけ出して身を預けることも、同じだけの熱を込めて名を呼ぶことも、全てを捨てて手を伸ばすことも出来ない、苦しみ。

 ずっとジゼルを苛み、向き合おうとしても逃げ出し、どんどん卑怯で臆病にする。

 姿を消すまでの一週間、いくらでも時間はあったのに、結局会いに行けなかった。

 顔も見たくないと、拒絶するイザークの冷たい瞳を想像するだけで、足が竦んでしまったから。

 けれど。


――ねぇ、ジゼル。もう一度聞くわ。あなたは本当に、もう目覚めたくないの?


 声がする。

 悪夢と同じ声で優しく、揺り籠の中でいじけている少女の本当の願いを、そっと揺り起こす。


(…………本当は、会いたい)


 言葉が、若葉の上を転がる朝露のように、零れ出た。

 そして一度自覚してしまえば、もう誤魔化しようがなかった。


(会って、最後に一度だけでいいから、名前を呼んで、謝りたい……!)


 知らず、あなたを苦しめ続けてしまったことを。

 あなたの心を傷付けてしまったことを。

 あなたの腕の温かさに、安らぎを感じてしまったことを。

 あなたの腕の中だけが、等身大の自分でいられたことを。


(会いたいよ、イザーク……ッ)


 この苦しみを、苦しいだけのものにしないために。


――その想いがきっと、憐れなわたしを救ってくれる


 がらんどうの暗闇の中、遠く近く、声がする。

 自分の指先さえ分からない闇の果てに射す、一条の光に導くように。

 優しい魔女の、声がする。


――さぁ、目を覚ます時間よ……




       ◆




 ヴィオレーヌが寝台傍の椅子に腰を下ろしてから三十分ほどで、ルシアンの限界はやってきた。


(ど、どうしよう……もう何もかも限界なんだけど……!)


 何が限界かと言えば、まず全身がぐっしょり濡れていた。

 体温を下げ、顔色を極限まで悪く見せるため、ルシアンは老主治医ワトーの指示により、二の腕や太腿など太い血管の通る所をあちこち縛り、その上で氷を大量に抱えていた。

 これは定期的に氷を変えてくれるワトーの協力があって成り立つものだが、ヴィオレーヌがいることでワトーは何もできない。ルシアンは濡れるに任せるしかなかった。

 何より、頭の中では最初にヴィオレーヌが放った一言が忘れがたく、胸中でずっとワトーを叱っていた。


(なんで……なんで断るんだよ! 手ぐらい握ってもいいじゃないか……!)


 勿論、瀕死の重傷を装っている間、誰にも体を触らせない方がいいと話し合ったのは当のルシアンだ。手を握られれば、次第に温かくなったり、脈が速くなったりしてバレる危険も高まる。

 ワトーの判断は全くもって正しいと分かっているが、心の方は全く整理できなかった。


(殿下が……殿下が自分から僕に触ってくれるなんて……もう二度とあるかどうか……!)


 稽古をつけてくれる時には手が触れることくらいあるが、それも最近では滅多にない。馬車の乗り降りですら、手を貸すのを拒まれる程なのに。


(なんか……何のためにこんなことをしているのか分からなくなってきたぞ……)


 最初は、父がルシアンの出自を疑い、ファビアンを養子にしようと考えていると知り、それを防ぐために始めたことだった。

 母も父からの疑いについては知っており、一刻も早くルシアンに王統の娘との婚約を取り付けようと必死だった。

 だがルシアンは、どちらも御免だった。

 母には、王女以外は考えられないとすぐに伝えた。

 だが父には、伝えたところで意味はなかった。だから父が異母姉家族に接触したと知り、ルシアンもこっそり見に行った。

 そこで、姪のジゼルに初めて会った。


『……また公爵家?』


 最初は、酷く警戒された。それでルシアンが途端に気弱になって引き下がろうとすると、『あぁ』と大きな声を出してポンと手を打った。


『もしかして、母さまの弟?』

『な、なんで分かったの?』

『だって雰囲気がそっくりだもの。それに、癖毛』

『癖毛?』

『私と一緒』


 自分の栗色の癖毛を指に巻き付けて、ジゼルはくるくると笑った。それだけで、ルシアンはすっかりジゼルを好きになってしまった。

 それから、ルシアンはジゼルに会いに、度々郊外のあの家を訪れた。ジゼルが翻訳の仕事をしている、写字工房の本屋に顔を出すようになったのもその頃からだ。

 そうして親交を深める中、オーリオル公爵の使いだという男から脅迫されている話を聞いた。初対面の時、ルシアンを警戒していたのもそれが理由だった

 そこから、二人の計画は始まった。


『ルシアンさんが誰かに殺される前に、私が殺すよ。それで、死んだふりをしている間に、証拠を集めるなり、本音を聞き出すなりしよう』


 ジゼルのその提案に、ルシアンは心から感謝した。

 本心を言えば、身内にすら容赦のない、辣腕で知られる父に一人で立ち向かうのは、やはり心細かった。

 いざ奮い立っても、姉がいなくなる四歳頃に見た父と姉の壮絶な親子喧嘩が脳裏にちらついて、いつも足が竦んでしまった。

 こんな時なのに、改めて姉の胆力を思い知らされたものだ。


(姉上は、やっぱり凄い方なんだ)


 姉には、まだあれこれと理由をつけて、一度も会えていない。これを成し遂げれば、きちんと会って謝罪する勇気も、得られる気がした。

 ルシアンが覚悟を決めれば、あとはトントン拍子に決まった。ジゼルはできる限り依頼を引き伸ばすことを請け負い、ルシアンはその間にできる限り父の意見を翻すことと、父が使っている部下を探った。

 暗殺の偽装工作も、ジゼルが野生の動物を絞めて生き血を確保し、それを床やベッドにぶちまけることで決まった。時間は夜、経路は二階の窓から侵入し、ワトーの手引きで逃走する。

 ジゼルが下手人として捕まれば、ファビアンたちへの取引に人質として利用される可能性もあるから、暫くは身を隠す方がいいとは、ルシアンの案だ。

 だがルシアンの方はというと、ほとんど成果を得られなかった。公爵家の私兵の誰も、ジゼルに接触している様子がなかったのだ。


(僕なんかに、出来るだろうか)


 不安だけが、馬鹿みたいに肥大化した。


『私、ちゃんと逃げきるからね。ルシアンも、ちゃんとお祖父さまに言ってね』


 その不安を察したように、ジゼルは去り際、ルシアンの手をしっかりと握ってそう言った。

 初めて会った時のように、ニッと笑って。

 だから、ルシアンはこんな所で悶々としている時間などないのだ。


「…………、……殿下!」


 ルシアンは意を決すると、ベッドに飛び起きた。

 ずっと組んだ腕に額を乗せていたヴィオレーヌが、いつもは切れ長の碧眼を、真ん丸に見開いた。


「…………は!?」

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