第50話 恋の終わりと目覚め

 長髪の怪しい男――テオフィルと名乗られたが、怪しい男で十分だ――が促すまま、ジュストは森の中を走っていた。


(心臓が……くるし……ッ)


 魔力を使い過ぎた上での全力疾走で、今にも足がもつれそうだった。魔力濃度の高い森の中でなければ、またいつものように倒れていただろう。

 だが目の前を行く男は一切ジュストを振り返らなかった。しかも悠々と歩いているように見えるところがまた腹立たしい。

 どうにか大きな背中に食らいついて走り、樹頭から陽光が射し込む辺りに来た所で。


「あれは……ジゼルお姉さん?」


 栗色の癖毛を風に揺らして、一人の少女が立っていた。


(そういえば、立て込んでるとかまだ戻れないって言ってたっけ)


 まだ森の中にいても不思議ではないが、それでもあんなに危険な目に遭ったというのに、豪胆なものだ。などという悠長な思考は、彼女のすぐ後ろにいた魔獣の姿を捉えて、完全に停止した。


「ジゼル! 逃げて!」


 からからに干上がった喉で絶叫する。だがジゼルは動かない。よく見れば、右腹辺りがぐっしょりと血で濡れている。


(既に怪我を……!?)


 気付いた瞬間、ジュストは後先も考えず飛び出していた。その腕を、背後からぐっと掴まれる。


「!?」


 振り向けば、テオフィルが顔色も変えずジュストを引き留めていた。


「平気だ」

「何を……!」


 言っているんだ、という抗議はけれど、すぐに萎んで消えた。近付いてきた魔獣の喉に、ジゼルの方から手を伸ばして撫でていたからだ。

 獅子の頭に大鳥の足と翼を持つ魔獣はジゼルよりも頭二つ分は大きいが、その喉を撫でる手付きは、まるで飼い猫を甘やかすような親愛がある。魔獣もまた、目を細めて身を預けている。


「ようやっとお目覚めのようだな」


 状況が飲み込めなくて目を白黒させるジュストはほったらかしで、テオフィルがジゼルに話しかける。だがそこには、先程森の中で会った時と違い、どこか挑発するような響きがあった。


「……ずっと私の周りをうろちょろしていたのは、あなたね」


 対するジゼルの様子も、どこか妙だった。まるで初対面のような話しぶりだし、何より喋り方が違う。

 ジゼルの明るく素朴でいながら、少し自信のなさそうな声調とは違い、どこか老練さを感じさせながらも玲瓏な音吐を持っている。

 だがそれを論理的に思考できたわけではない。ジュストはただ、その違和感に吸い込まれるようにふらふらと足を踏み出していた。

 そのジュストの腕をさせるままに放して、テオフィルが尊大に腕を組む。


「いくら呼びかけても返事どころか起きる気すらなさそうだったんで、色々試させてもらってただけだ」

「私の庭で、随分好き勝手してくれたようね」

「そう思うなら、もっと早く起きてくれて良かったんだがな」

「……それは無理な話ね。私にも、大切な約束があったから」


 そう答えたジゼルの碧眼が、馥郁たる艶を孕んで、すぐ眼前に辿り着いたジュストを向く。

 ジュストは、見上げることしかできない子供の体を恨みに思いながら、からからの口を押し開いた。


「……どうして、こんな所にいるんだい? エルネスティーヌ」


 ここまで走ってきた疲れと、思わぬ所で出会えた動揺が、ジュストの子供らしい高い声を震わせる。愛しい頬に伸ばそうとした右手は、背伸びをしてもちっとも届かない。

 その手を、ジゼルが――エルネスティーヌが自ら迎えて掴んでくれた。

 その温もりや力加減は、やはりジゼルとは少し違う、二百年ぶりの彼女のそれで。


「…………っ」


 それだけで、涙脆いジュストの涙腺は、崩壊してしまいそうだった。

 一方的に約束して、ずっと裏切り続けたのは、ジュストの方なのに。


「さっき、君と約束した場所に逢いに行ってきたんだよ。でも返事がないから、怒っているんじゃないかと、不安になったんだ」


 無理やり涙を呑み込んで、困ったように笑う。でもきっと、少しも上手く笑えていなかったろう。

 エルネスティーヌもまた、ジゼルの眉尻を下げてジュストの小さな手を包みこんだ。


「……あなたが来ていること、気付いていたわ。ジゼルを通して、感じていたから」

「……、……会いたく、なかった?」


 恐る恐る、その言葉を放つ。短い一言なのに、喉が潰れて、心臓が引きちぎれそうだった。

 エルネスティーヌが首を横に振るまでの時間を、どれほど長く感じたろうか。


「分からなかったから、逃げ込んだの。同じ気持ちの中になら、答えがあるような気がして」


 そう告げたエルネスティーヌは、ジゼルの姿形をしていながら、もうかつての彼女にしか見えなかった。

 腰ほどまである夜色の長い髪、星のように輝く琥珀色の瞳、新雪のような肌。かつてジュールが目を奪われた、退廃美を内包した神秘的な艶麗さ。

 その中に時折見える、迷子の子供のような心細さと、排他的な孤独の哀しみをこそ、ジュールは癒したいと思ったのだ。


「答えは、見つかった?」


 後から後から湧き上がる愛しさに背を押されるように、ジュストは一歩を踏み出す。

 エルネスティーヌが、視線を合わせるように膝を折る。


「いま、目の前にあるわ」


 穏やかなその微笑みに、ジュストはまだ短い左手を精一杯大きく広げた。




       ◆




 ジュストとエルネスティーヌは、魔女を包む木の籠舎に互いの手を重ね合わせながら、呪文を唱えた。


「「海の泡から生まれたもの、陸の樹木の若葉の露に消える

 全てを初めに戻そうか」」


 二人の声が美しいユニゾンを奏でるのに合わせて、絡み合う木々が淡く光って震えだす。


「「骸骨は土に洗い、虹の根元に生まれたての心の臓

 過ぎ去ったものは戻らない」」


 光は徐々に魔女の揺り籠全体へと広がり、木々の微振動は次第に大地へも伝わっていく。


「「枯れた花に雪の横糸、千切れた羽に炎の縦糸

 真実を知るのはただふたり」」


 ズズ、ズズ……と、まるで巨大な蛇が蠢くように、木々はうねり、擦れ、枝葉を散らしてその植生を正していく。


「「手にできるのは、いずれ失う咲殻だけ

 この手に残るものは、何もない、何もない……」」


 そうして、二人の声が森に反響するように幾重にも響き、吸い込まれて消えていく頃には、二人の前にあった木々はまるでベッドの天蓋を引くように左右に開かれた。

 枝葉の重なりに隙間が生まれ、淡く降り注ぐ緑色の陽光が、その内側に横たわる女性の姿を柔らかく浮かび上がらせる。

 百花斉放に咲き乱れる花のベッドの中に横たわるのは、ジュストの記憶の中にある姿と寸分違わない、夜色の長い髪に星色の瞳。

 あちこちに血の染みがついたボロボロの外套を抱き締めて立てる寝息は穏やかで、うたた寝でもしているようだ。


「あの外套……もしかして、ジュールの……?」


 見覚えがあると隣を振り仰げば、エルネスティーヌは優しく微笑んで手を放した。


「それじゃあ、戻るわね」

「……手を握っていてもいい?」


 あっさりと離れていく指が名残惜しくてそう問えば、くすりと笑われた。


「もちろん」


 それから、背後で封印の解除を見守っていたテオフィルを振り返る。


「ジゼルを頼んでもいいかしら」

「承った」


 二つ返事で承諾し、テオフィルがジゼルの隣に並ぶ。

 ジュストが眠れる魔女の手を握るのを見届けてから、エルネスティーヌが目を閉じる。途端、ジゼルの体が、糸の切れた人形のようにぐらりと脱力した。それをテオフィルが危なげなく受け止める。



 静寂は、ひととき。



「……ん……」


 まるで何年も眠っていたように重い瞼を、ジゼルはゆっくりと押し上げた。

 最初に飛び込んできたのは緑の葉を透けて降り注ぐ淡い陽光で、ずっと暗闇の中にいた目には眩しすぎるほどだ。

 けれど、いつものようなしつこい疲れはどこにも残っていない。


「なんか、すごいよく寝た気がする……」


 ここ数年で一番頭がすっきりしていると思いながら、辺りを見回す。

 そして見た。

 揺れる気根と蔦葉のカーテンの向こう、色とりどりの花のベッドに横たわる美しい女性に、ジュストがそっと口付けをしているところを。


「へっ?」


 寝起きには少々ショッキングな映像に、ずりっと体がバランスを崩す。そこでやっと、自分の体が誰かに支えられていることを知る。

 何故と隣に立つ人物を見上げれば、見覚えのある男と目が合った。


「よし、行くか!」

「え?」


 そうして、意味が分からない間にジゼルの体は無理やり立て直され。


「え?」


 ジゼルの覚醒を知ったジュストたちがわらわらとジゼルの手を取り。


「え?」


 戸惑っているうちに視界がぐわりぐわりと揺れ始め。


「え……えぇぇぇぇええ!?」


 気付けば、目の前にあった森は一瞬にして水色地に金色の蔓草模様があしらわれた豪華な装飾が目を惹く室内へと様変わりしていた。

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