第5話 失敗と訪問者
「……ま、姉さまってば!」
「ぅえ……?」
がっくんがっくんと首がもげる程に揺すられ、ジゼルは折角の心地好い快眠から力づくで引き戻された。膠でくっついたような瞼を押し開ける。
いつもは我が家で一番冷静で達観している弟が、孤島で独りぼっちみたいな顔でジゼルにしがみついていた。
「ど、どうしたの、ファビアン。何で……」
「晩課の鐘が鳴っても全然帰ってこないから、ついにどこかで倒れたかと思って探しに来たんだよ。そうしたら、案の定!」
「うっ……」
開口一番怒られた。心当たりがありすぎて、しらーっと目を逸らす。
「ご、ごめんね。なんか、急に眠気が来てさ……って、ここ……?」
「近くの小間物屋だよ。ここのおばさんが、好意で寝かせてくれたみたい」
視線を逸らした先に見つけた裁縫道具や化粧道具の並びに、ファビアンが答えをくれる。見覚えがあると思ったら、たまに店番や売り子を頼まれる店だ。
そこでやっと、ジゼルは大事なことを思い出した。
「お肉!」
「え?」
「お肉を買おうと思ってたのよ! いま何時!?」
「えぇーと……」
今度はファビアンが視線を逸らす。その先を追ってガラス窓を見れば、外はすっかり暗くなっていた。通りに等間隔に並ぶ街灯だけがぼんやり明るい。
「ま、まさか……」
そこでやっと、ジゼルは本日最大の失敗を悟った。
晩課とは、聖拝堂が夕食前の祈りの時間を報せるために鳴らす鐘のことだ。その時間になれば市場は続々と店仕舞いを始める。
つまり、今日一番の大目玉であった肉を買いそびれたということ。
ついでに言えば、真っ先に肉を買うつもりでいたから、今日はパンも野菜も果物もまだ買っていない。野草を採りに行こうにも、日が暮れれば首都を囲む市門は全て閉じられ、外には出られなくなる。
ジゼルはこの世の終わりのようにがっくりと項垂れた。
「具なし……今日も具なし……!」
「ぼくは別に気にしないから……」
「育ち盛りがなに言ってんの! 沢山食べて太んなきゃダメよっ」
「そ、それよりも、体は平気? 何か盗られたものとかない?」
「はっ!」
ファビアンの重大な指摘に、ジゼルは慌てて懐に手をやった。
ジゼルとファビアンは、今でこそ少なくなったが、昔はしょっちゅう近所の悪ガキに絡まれて、邪魔されたり金を巻き上げられたりして、中々に大変だった。道端で寝ようものなら、懐から有り金全部盗られるくらい平気でされる。
「大丈夫みたい」
懐にしまった麻袋の重さに、ほぅっと安堵の息を吐く。だがそうすると、余計に肉を買いそびれたことが腹立たしく思えてくる。
「それにしても、何で突然寝ちゃったのよ、私は」
「覚えてないの? なんか、誰かにぶつかったって聞いたけど」
「うそ。誰?」
「あっ……。そ、れは……誰、かなぁ?」
ファビアンが視線を泳がせて誤魔化す。それだけで、ジゼルは大体のことを把握した。
「分かった。相手は文句を言っちゃいけない相手か、女を下に見てる男ね」
「う、ん、まぁ……」
呑み込みの早い姉に、ファビアンは歯切れ悪く頷くしかできなかった。
姉を探して通りを何度か往復していたファビアンに知らせてくれた女主人の忠告が蘇る。
『ありゃ、警邏の色男だね。例の、侯爵家の庶子。色んな女と毎晩遊んでるって噂も聞くから、あんまり関わらない方がいいよ』
本来であれば、それなりに身分のある相手ならば後日謝罪に行った方が無難なのだろうが、女好きと分かっている男の元に姉をやるのは気が引ける。
(下手に教えて、接点ができても困るし)
姉はいつだって、家族のために朝から晩まで身を粉にして働いてくれている。いつも自分を後回しにして、弱音を吐くこともなく、毎日明るく笑顔を絶やさない。
そんな姉に、これ以上の苦労など背負いこませたくない。
「じゃ、帰ろっか」
元気よく立ち上がったジゼルを見上げ、ファビアンも遅れて立ち上がる。
(早く、神学校も飛び級で卒業して、ぼくが姉さまを守るんだ)
何度目とも知れぬ決意を胸の中で固めながら、ファビアンは頷いた。
「うん」
◆
帰宅すると、母にも働きすぎだと怒られた。だがそのお陰で、今日は三人で夕食の支度をすることができた。
(やっぱり、悪いことの中にも良いことはあるものよね)
食卓に昨日のスープの残りと、一欠けを三等分したチーズとパンだけでも、ジゼルは大満足だった。久しぶりに熟睡したお陰で、体も軽いし眠気もない。
(お肉を買えなかったのは痛いけど、明日買えばいいし、眠くないから今夜は内職が捗る)
ジゼルはよし、と気合を入れると、二人がいなくなった食卓でいつもの内職セットを広げた。
母はゆっくり体を休める必要があるため、暖炉のすぐ隣の寝室を。ファビアンは勉強に集中できるように、小さいながら個室を使わせている。必然的に、ジゼルが寝起きしたり作業したりするのは、竈があるこの主室となっていた。
食事を終えたあとは食卓にしていた板と架台を退け、座っていた場所に布を広げて寝台になる。個室が二つもある分、当時の父にしてはよく頑張った買い物と言えるだろう。
(私も頑張らなきゃ!)
せめて父が帰ってくる日には少しくらいご馳走が出せるくらいには。そう目標を立てて、今夜も睡眠時間を削って、手の平サイズのカードに同じ絵柄を丁寧に書き写していく。
それが、どれほど経った頃か。
――コンコン、コンコン、コンコン。
遠く梟に似た夜鳥の声が聞こえ始めた深夜、いやにしつこいノックがした。玄関扉ではない。経年劣化で木枠がずれて隙間風が吹き込む、窓の方からだ。
(……来たわね)
ジゼルは、二つ目の束に取り掛かった手を止め、音を立てないよう慎重に立ち上がった。灯りは持たず、屋外で待つ無礼な来客に会いに行く。
今までは、ずっとこの来客に怯えるばかりだったが、これからは違う。
(やってやろうじゃないの!)
ジゼルは胸の中の秘密の約束を勇気に変えて、えいやっと夜の庭へと繰り出した。
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