第一章 ~少年と魔剣~
第一話 ~転生の産声~
《第一話 ~転生の産声~》
違和感に気付いたのは割と早かった。自分で体を動かす事が出来ず、自由になる部分は一つも無い。
真っ暗な空間に窓が有るだけのそこは、この体の持ち主が見ている光景なのだろうか……苦痛ではなかったが、少し退屈ではあった。
しかし、それもすぐに解消される事となる。
意識して眠りに就けば好きなだけ眠る事が出来、起きたい時に起きる事が出来た。
母親が本を読み聞かせる時は共に学び、歩く事が出来るようになってからは起きている時間が増えた。
言葉が分からない時はどうしようかと焦ったものだが、これだけ暇だと嫌でも覚えるもので、生まれ変わる前もこれほど勉強熱心であればと悔やんだりもした。
そんなある日―――
『あなたは精霊様ですか?』
言葉が分かるようになったおかげで、漸くそれが自分に向けられているものだと分かった。
度々何かを語り掛けられているようではあったが、それに対しどう返答して良いか迷っていたのだ。
『僕の頭の中で、たまに声が聞こえるのですが……それは精霊様の声なのでしょうか?』
(精霊……?)
『はい』
考えただけで伝わってしまうようで返事が来てしまう。
宿主の少年が言うにはこの世界では稀に、そういった人間が生まれると読んだらしい。
(精霊では無いけど……少年は、本が好きなんだな)
『はい。とっても面白いです!』
きっと目を輝かせている事だろう。その言葉は力強く、希望に満ち溢れていた。
少年の名は【リュカ】と言い、母親似の可愛らしい顔をしていた。
母親と同じ白金色の髪はおかっぱのように眉の辺りで揃えられ、後ろ髪は肩くらいまで伸びている。
目が大きくクリクリとしており、好奇心の高さを表していた。頬は子供特有の餅っぽさを兼ね備えている。
自分の子供時代の面影があるような気もするが、子供など大概は可愛いものだ。かく言う自分も例外ではないと自負している。
その日からはリュカとの対話が始まり、一日に何度も言葉を交わした。
前世で人とあまり関わらなかった自分が親子ほど年の離れた者と、まさかこんな事になるとは思いもよらなかったが……この時間をそれなりに楽しんでいた。
それから数年が経ち、戦火の拡大とともに山奥へと疎開する事になる。
この世界では人族、亜人族、魔族の三種族が存在しており、リュカ達が暮らしている【メルディオ大陸】では、その種族によって所属する土地がはっきりと分かれていた。
神話によれば人族が暮らしていたこの地に邪神が魔族を作り出し、善神が人族と魔族を分けて境界壁を創り出したとか何とか……。
亜人族は比較的新しい……と言ってもきっと大昔なのだろうが、人族と魔族によって生まれたのだと本には書かれていた。
その辺の話は正直あまり興味が無かったので、うとうとと夢現で見ていたのを思い出す。
「大丈夫よ。だから今はお眠り……」
父が運転する馬車は夜道を走り、荷台で眠る我が子に優しく微笑む母。
リュカは酷く不安がっていたが、同様に安心させるよう言葉をかけ続けた。
新しく居住地と定めた場所は辺鄙な場所で、人里からかなり離れている山の中腹であった。
周囲には鬱蒼と木々が生い茂り、ぽつんと一軒、小さな家が建てられている。
「ここなら見つかる心配も無い。昔使ってた小屋だが、まだ残っていて良かった」
そう安堵する父は懐かしそうに小屋を眺め、母はそれに寄り添い愛息子を傍らに抱き締める。
家族水入らずに自分は邪魔な気がして、その日は眠りに就く事にした。
この地に越してきた事が契機となったのか、その日からリュカは魔法の訓練に励むようになった。
才能はそもそもあったようで、それも母親の特性だとリュカは言う。
父は剣士として、母は魔術士としてリュカを産むまでは冒険者として活躍していたようだ。
しかし幸せな生活は突如として終わりを迎える。
「逃げろ! 早く!」
何時ものように街へ買い出しに行っていた父が、戻るなりそう叫んだ。この地に移り住んでから数年……リュカも幼子から少年になっていた。
玄関に戸締まりをして裏口から最低限の物を持ち、両親が手を引いて走り出す。
(どういう事だ?)
『僕にも……分かりません』
リュカの目に映る両親の表情は険しく、何時もの穏やかな優しい顔とは打って変わり、物凄い剣幕だ。
「もう逃げられませんよ……」
不意に聞こえた声に足を止めた時、周囲を囲む人影が見えた。
目の前には黒いローブに身を包む男。その背後や周囲に何者かの息遣いが聞こえる。
「道を開けよ! さもなくば……押し通る!!」
初めて聞く父の怒声にリュカは身を竦ませる。
「おお怖い。我等は彼の地より密命受けし者。そこの子供を大人しく差し出して貰えれば、喜んで引きましょう」
リュカを指差しローブの男が言い放つ。
「なら尚更聞けんな。この子は……俺の子だ!」
周囲の人影から声が聞こえる。
「やはり……しか……」
「確実……証拠を……」
不穏な単語は再びリュカを怯えさせた。
「異種族との交配は重罪……忘れた訳ではないでしょう? 子を成せばこうなることも……」
「生憎、惚れた弱みってやつでね……」
剣を構え、軽口を返す父が声を潜めて算段を打つ。
「俺が引き付ける。リュカと逃げろ」
声を潜め囁き、母が一瞬躊躇い小さく頷く。
それを確認し終えると飛び上がり、地面に剣を叩き付けると亀裂から炎が巻き上がった。
「行け! 早く!」
惜しむように目を伏せ、母はリュカの手を引きその場から遁走する。
「とうさま……とうさまー!」
背後から聞こえる剣戟の後に一瞬、父の声を聞いた気がした。
それでも母は振り返らず、リュカの手を引き必死に夜の山を駆ける。
ほどなくして背後から数人の足音が聞こえる。視界に映るのは鬱蒼と生い茂る草木だけだが、それを掻き分け必死に走るリュカ。
母が足を止めたかと思うと突然リュカを抱き締め
「ごめんねリュカ……ここからは貴方一人で行かせなくてはいけない……」
「なんで! 母様も一緒に行こう!」
リュカの言葉のあとに、口の端から血を流す母。
「かあ、さま……」
リュカの言葉にいつもと変わらない優しい微笑みを返し
「この傷では追手を振り切ることは叶わない……だから、貴方だけでも逃げてほしい……生きていれば、沢山素敵な事が有るのだから……」
「だったら母様も一緒に……!」
リュカの言葉に首を振る母。
「貴方にはもっと、沢山教えてあげたかったけど―――」
背後の物音でその身を翻す。対峙する黒ローブの集団に言葉を放ち、巨大な氷の壁を作り出す。
「行きなさいリュカ! 私とあの人の願いを叶えて!」
「で、でも……」
(走れ! 早く! お前が加勢したところで何が出来るんだ!)
気付けば叫んでいた。
それがリュカに届いたのか、涙を流しながら駆け出す。
魔法の才があるとは言え、教えてもらったのは殺傷能力の低いものばかり……ましてやあの人数が追いつくという事は、リュカの父はもう―――。
『精霊様……僕はこのあとどうすれば良いんですか』
走りながらリュカが語り掛けてくる。
(それは……)
そんな事分かる訳がない。自分が置かれている状況も、リュカの両親がどうして追われているのかも、そしてその原因も何一つ分かっていないのだ。
そうして混乱している間に直ぐさま凶手に追い付かれる。背後は断崖絶壁、正に絶体絶命だった。
「すまないな、確実に殺せとの命令だ。恨んでくれるなよ」
「イ、イヤだ……」
(逃げろリュカ!)
この辺の地形は頭に入っていない。が、崖の下から微かに水の流れる音がする。
無茶苦茶な提案をしている自覚は有る。だが、ここに居てもやられるだけならいっそ飛び込むしかないと思った。
窮地に追いやられて発動する何かは無いのか。転生の特典とやらをもらってこの世界に来たなら、それが発動するんじゃないのか。
そんな思考のひと時ですら好機と見るや、黒ローブの男が間合いを詰め一閃。
月明かりに照らされた剣閃が光ったかと思うと次の瞬間、小さな体は後方へと跳んでいた。
「ッ……!」
それを見逃さないのは流石と言うべきか、首筋への攻撃が致命傷となっていない事に気付いたのか、持っていた短剣をリュカへ投げ付ける。
眼前から遠ざかる追手に安堵したのも束の間、飛び込んだ川の流れは予想以上に早く、リュカの体はあっという間に自由を奪われる。
『かあ……さま……』
幻覚でも見えているのかリュカがそう呟くと、体は激流から解放され川の岸辺へと丁寧に降ろされた。
目の前には霊体のように半透明な母の姿が浮かんでいる。
「守れなくてごめんね……弱い母を許して……」
優しく頬を撫で、後悔の言葉を残す母にリュカは首を振る。
『いいえ。僕は母様と……父様の子で、嬉しかったです……』
精一杯強がるリュカの言葉に視界がぼやける。実態もないのに涙が出るものなのかと、両手でそれを拭っていた。
「ごめんねリュカ……愛してる……」
それだけ告げると母の姿は消え、目の前には満点の星空だけが広がっていた。
『精霊様……精霊様、まだおられますか……』
(ああ……辛かったな……)
気の利いた慰めの台詞も言えず、ただ返事だけをする。
こんな時に何も言えない自分が情けなく、今まで何をしていたのかと只管に後悔していた。
『いいえ、精霊様が悪い訳では無いのです。全ては自分の力の無さが原因です。もっと魔法を勉強していれば、もっと身体を鍛えていれば……今思うのはそんな事なのです』
本当にこの少年は……こんな状況になっても何を恨む事も無く、あまつさえ自分を責める等どうして出来ると言うのか。
『精霊様、今日までお話していなかった事をいま、お話します……』
これまで幾度となく言葉を交わし、学び、共に過ごしてきたリュカからの独白だった。
『精霊様が宿るとその子供は、例外無く子供のうちに亡くなるそうです。その本を読んだ時は自分の命が残り僅かだと知り、少し悲しかったですが……これまでの毎日は楽しかったです』
あまりの内容に言葉を無くす。
この少年は自分の余命が判明しても尚、あれだけ真っ直ぐに生きていたのかと、突然の出来事に閉口した。
『精霊様はそのとき眠っておられたので、本を読み返すことはしなかったのです。亡くなってしまう原因は事故であったり、病であったり様々でしたが生き返り、精霊様になるとありました……』
リュカの独白は続く。
『父様と母様には言わなかったんです。それが誉れであると書かれていましたが、死んでしまうと分かっては悲しませてしまいます……本当はもっと元気な時にお渡ししたかったのですが、僕と一緒に居てくれてありがとうございました』
(やめろやめろやめろ……俺なんてただ生きてきただけの普通の人間だ。何か明確な目標がある訳でも無い、ただの人間なんだ……なんでお前みたいな良い子が死ななくちゃならないんだ!)
その言葉にリュカはくすりと笑う。
『精霊様のお話は楽しかったです。こことは違う世界……魔法や争いの無い、科学が発展した世界……僕も、次に生まれ変わるなら精霊様と同じ世界が良いな……』
(ああ、ああ……そうすれば良い。お前は頭が良いし優しいし、思いやりのある子だ。すぐに人気者になれるし、楽しい事がいっぱいある……だから、だから諦めるな!)
再びくすりと笑うリュカ。
『ふふっ、ありがとうございます……楽しみです。でも、僕の命は間もなく尽きます。息もうまく出来なくなって、声も出せない……目の前も、なんだか暗くなって来ました』
(ふざけんな! 諦めるんじゃねえ! 生きてれば楽しいことは山のように有るから、お前ぐらい良い奴なら俺の人生よりも、もっと沢山有意義に―――)
『精霊様が居てくれたから死というものを恐れませんでした。願わくば次は、父様と母様と一緒に……精霊様が暮らしていたような平和な世界に―――』
言葉はそこで途切れ、リュカの呼吸が止まる。
寝起きのように瞼を開けると、そこには今まで小窓から見ていた景色が広がっていた。
ゆっくり立ち上がると涙を拭い、そして―――空に向かって叫んだ。
それは大気を震わせるほど激しく、音の無い咆哮は激しく木々を揺さぶった。
一頻り涙を流した後、川の下流へと歩を進める。
行く当てなど無いが、それでもいつ追手が迫るか分からない。
追跡を諦めてくれてると良いが、リュカの想いを無駄にしない為……また、自分の中の激しい怒りの為にも今はまだ死ねないと思った。
(俺の中に未だ残って居るかは分からない。けど、お前がくれた体だ……有意義に使ってやる。絶対に、あいつらは許さない……だから、今は安心して眠ってろ)
諭すように自分に言い聞かせ、歩を進める。
ついでにこのふざけた状況を招いたクソ神にも、一撃入れてやるから楽しみにしておけ―――
(あああああ、クソがぁぁぁぁああああ!)
鬱憤を晴らす為だけの何度目かの咆哮。
いくら叫んでも声が響く事は無く、頭の中を憎しみが支配する。
何も考えられなくなるほどそれは増殖し、明確な殺意だけが脳内を駆け巡る。
月明かりを頼りに歩きこの夜、転生者は初めて産声を上げた―――。
*
(そうか……俺は死んだのか……)
「そう、御名答」
眼の前の少年が答える。ふわふわと宙に浮き、背中には羽を生やしており、容貌はよくある天使像のようだった。
癖っ毛の金髪に頭上の輪っか、服装は昔の人が着用していたトーガ……だったかを着ている。
視界は白一色に染められ、足元には怪しい煙が立ち込めている。頭を動かしてみても自分の体は確認できなかった。
「ちなみに君は今、魂だけの存在になってるよ。不便な体は不要だからね。移しやすい状態になってもらっているんだ」
(移しやすい……?)
思考は筒抜けなのか、考えただけの言葉に頷く少年。
「君の道は二つ。このまま違う誰かとして同じ地球に生まれ変わるか、違う星に自分として生まれ変わるかなんだけど……どっちが良い? 僕としては違う星に生まれ変わるのがオススメなんだけど……」
(分かった。それで良い)
「えっ!?」
予想外の反応だったのか驚きの声を上げる少年。
要するに死んでしまった事が事実だとして、それが真実なら自分に出来ることはそんなに多くないのだ……相手の要求を呑み、こちらの要求を通そうという酷く打算的なものだ。
「普通はもっと悩むんだけどね……うん、頭の良い人は話が早くて助かるよ」
そう言って少年はくすくすと微笑む。
(何でも良いさ、これから言う事を叶えてくれるなら……)
交渉は予定外だったのか、再び驚きの声を上げる少年。
「えっ、本気で言ってるのかい? ……いやいやいや、普通は人より秀でた才能とか、強大な力とかを望むんだけど……まあいいや」
少年の軽い受け答えにツッコミそうになる。
「君の家族と数少ない友人への祝福、対価によっては病とかも治してあげるけど……君は転生した先で、僕に何を差し出すのかな?」
これには流石に閉口してしまう。
聞けば転生とはその世界で滞留している悪しき流れを正す為に行われるものらしい。
自分で生きて、触れて、見聞きした末に勝手に行われるものだと言うが、それに対して代償を差し出すのは何だかちぐはぐな感じがしてしまう―――が
「順風満帆だと何もしないのさ。人間は弱いからね……たとえ強くなったとしても、恐怖心の方が勝るんだよ」
確かにそれもそうかと納得する。
生まれながらに命なんていらないと思うのは、余程の戦闘狂か螺子の飛んでいる奴だけだろう。
ましてや平和な日本に生まれた身としては、何かと戦うなど考えられない。だとすれば自分は―――
(声……かな)
差し出すとしたらそれが一番不要な気がした。
歯車だった自分にとって、挨拶以外で言葉を発するのは日に数回、悪くて数日に一回くらいのものだった。
聞けば次の生を受ける場所は物騒な世界で、そんな中で自分の体の一部を差し出すなど逆に考えられないのだが……目の前の少年は大笑いしていた。
「あっはっは! 声って、それ本気で言ってるの? 声が出せなきゃ魔法だって……いや、使えない事は無いけど日常生活ですっごく不便だよ?」
(大丈夫だ、問題無い。それに、そういう方が好みなんだろう?)
最悪筆談という方法もある。伝える方法は声だけでは無い訳だし、ハンドサインやジェスチャーも有るのだ。
「本当のコミュ障? って奴じゃないと思うけどね……まあいいや」
良いのかよと再びツッコミを入れそうになりつつも、羊皮紙にペンを走らせる少年。
「はい出来た。これが君の能力ね」
そう言って差し出してきた一枚の羊皮紙には日本語で色々と書かれていた。
筋力:本人準拠
体力:本人準拠
魔力:B
敏捷:D
知性:本人準拠
外見:本人準拠
体格:本人準拠
願い:転生者家族及び、友人への祝福
代償:声
技能:隠遁
「声を差し出す人は初めてだったからね、初回ボーナスとして色々おまけしてあげたよ。君の願いは転生先で確認できるようにしておいたから、注意して見ること!」
人差し指を上げ念を押すように顔を近付けてくる。
やたらと本人準拠の項目が多いのだが、自分の願いを叶えてもらえるなら心の底からどうでも良かった。
「代償を取る事が良い事だとは思っていないけどさ、それ以上に僕は頑張っている人を見るのが好きなのさ……何を成そうと本当は良いんだけど、出来るなら世界の為に何かを成してほしいと思っている。おっと、そろそろ時間だね」
この空間での出来事を言っているのか、それならば超人を作り出せば良いのではと思うが
「それじゃダメなんだよ……それじゃ意味が無い。それに、人は人以上の力を持つとその力に溺れてしまうんだよ……未知の力なら特に、ね」
薄れていく意識の中で、少年は悲しそうに微笑む。
「だから忘れないで……君の家族や友人が、悲しまない選択を、どうか―――」
*
目が覚めるとそこはやはり異世界で、逃げ延びてから同じ日の夜だった。
体が冷え過ぎていたせいか、洞穴を見付けて腰を下ろすとそのまま眠ってしまったようだ。
本人準拠とは自分の事では無く、リュカの事だったかと今なら分かる。
死んだ頃の事を思い出していたような気もするが、夢の内容は次第に薄靄に溶けていく。
暫く呆けていると頭痛が激しくなり、脳裏に懐かしい顔ぶれが浮かぶ。
実際に見ている景色とは別に、頭の中で勝手に映像が流れて行くのだ。
(ははっ……元気そうだ……)
前世での家族、友人達は幸せな人生を歩んでいたようで、皆の一生が目まぐるしく再生される。
これが交渉の成果なのだろう。先程までの殺気は鳴りを潜め、少しだけ穏やかな気持ちになると
「ウォン!」
洞穴の入り口に獣が佇んでいた。
薄明かりに照らされた体躯は今の自分と同じくらいだろうか、慌てて傍らの棒を掴み構える。
ここが寝床だったのだろうか、それとも何時の間にか降っていた雨から逃れる為か……どちらにせよ今襲われたら一溜りも無いだろう。
どれくらいそうしていただろうか、睨み合いの時間は一回り大きな獣の登場で終止符を打つ。
人の子など驚異と思っていないのか、ゆったりとした足取りで近付いて来るとそのまま壁際に座り込んでしまう。
近くで見ると狼に似ており、銀と濃紺の体毛が輝いていた。
子狼も親の元へ歩み寄ると、体を擦り寄せ甘えだしている。
(大丈夫……っぽいのか……?)
それでもまだ警戒は解けず、つぶさに観察していると親狼がすっと後ろ足を動かす。
視線は依然自分から離れる事が無く、その仕草に恐る恐る近付くと再び後ろ足を動かし隙間を空ける……視線はじっとこちらを見つめたままだ。
暖を取らせてくれると言うのか、棒を置いて服を脱ぎ近寄ってみる。
子狼の倍はあろうかという大きさは改めて異世界だと実感させるもので、腹の辺りに寄り掛かるとふわりと包み込まれる安堵感が全身を支配する。
「クウォゥ……」
親狼が小さく唸ったかと思うと次第に辺りが暖かくなり、急激な睡魔が襲って来る。抗う事の出来ない強烈なそれは、安心感によるものなのか……。
そんな思考すら許さないほど意識は急速に眠りへと落ちて行った。
翌朝。差し込んできた陽の光に目を覚ますとそこに親狼の姿は無く、上半身に着ていたシャツが掛けられていた。
どうやら一晩で乾いたようで、昨日の暖かい空間のおかげなのか、もぞもぞと着替えていると子狼が起き
「ウォン!」
と、昨夜と同様に元気な声を響かせる。
舌を出し、遊んでほしそうに目を輝かせているのを見ると実家で飼っていた犬を思い出し
(よしよし……)
と、顎下から手を這わせて全身を撫でてやる。
予想外に気持ちよかったのか、すぐに腹を見せるあたり警戒心が薄いのか大分心を許してくれているようだ。
「ウォン!」
入り口からの声に視線を向けると、そこには昨日の親狼が立っていた。
動物の雌雄はあまり判別が付かないのだが、毛並みや我が子に送る優しい眼差しはリュカの母とよく似ていた。
「ウォン」
再び吼えると二、三歩進んでは振り返る。
付いて来いという事なのか……子狼と共に歩いて行くと小川へと辿り着き、川岸には鹿っぽい動物の死骸が横たわっていた。
母狼が仕留めてきたのだろうか首筋からは血が流れている。それを見るや否や子狼は一目散に飛び付き、腹の辺りにその牙を立てる。
(おお、野性が目覚めてる……)
その光景を目の当たりにしてしまうと、よく自分が餌にならなかったなと安堵した。
母狼に視線を向けると「食べないのか?」と言われているような目で見つめられるが、流石に生肉を食うのは怖かった。
新鮮であれば食べられるらしいが、生憎それがどの動物のどの部位なのかは知らない。
仮に知っていたとしても、火を通すのが無難だろう。
(俺はいいよ……気持ちだけ貰っておく)
両手を前に出してそう思うと、母狼は生い茂る木々の中へ消えて行った。
子狼の豪快な食事を暫く眺めていると再び姿を表す母狼。
口元には果物が咥えられており、それをそっと差し出してくれる。
両手で受け取ると満足そうに頷き、その場に座り込む母狼。
手にはリュカが好きでよく食べていた果物が―――思い出し、再び涙が込み上げてくる。
ひょうたんのような形をした果物は林檎と梨を混ぜたような味で、なるほどこういう物だったのかと思った。
リュカの中に居た時は視覚や聴覚を共有していただけで、味覚や嗅覚は感じられなかった……無論、痛覚もだ。
果物を食べ終え人心地がつくと、昨日よりも体調が良い事に気が付く。
まとわり付いていた倦怠感や疲労感は無く、体の内側からやる気のような何かが湧き上がるのを感じていた。
これがリュカの言っていた魔力という物なのだろうか……それとも単に、自分がリュカの体に慣れてきただけだろうか。なんとも言えない不思議な気分だった。
(そうか……俺は今、リュカと同じ年なのか……)
空を仰ぎ感傷に浸っていると、母狼が突然立ち上がり唸り声を上げる。
視線の先には大きな黒い狼。背後にはその仲間だろうか、同じような黒い毛並みの狼達が姿を現す。
子狼は直ぐさま母親の後ろへ隠れ、同じように相手を睨みつけ威嚇している。
言葉は通じなくとも険悪な雰囲気は肌で感じていた。
黒い狼から視線は外さず、ゆっくりと立ち上がり自らも母狼の元へ歩み寄る。そして―――
黒狼が空に向かって吠えたかと思うと周囲の取り巻き達は一斉に駆け出す。境界線の小川を軽々と飛び越え、母狼へと襲い掛かったのだ。
攻撃の刹那、母狼が短く吠えたかと思うと地上から放たれる土の槍。
円錐状のそれは取り巻き達に深く突き刺さり、瞬時に絶命させる。
リュカの使っていたそれとは規模の違う魔法……リュカの母が使用していた魔法と同等か、それ以上の物だろう。殺傷能力は初歩的な物と比べ物にならない。
想定内だと言わんばかりに群れのボスが笑っている。その邪悪な笑みに警戒を一層強める母狼達。
取り巻き達は再び何処からともなく現れ、先ほどと同じ光景が繰り返される……筈だった。
一斉に飛び掛からず、蛇行しながら疾走すると魔法の直撃を躱した取り巻き達は、その狙いを子狼に定める。
我が子を守ろうと二撃目を準備した瞬間、母狼が姿勢をずらすと傍観していた視界が反転した。
背中を大木に打ち付けられ、その部分がずきずきと痛む。
それを堪えて上体を起こすと、自分の身に何が起こったのか漸く理解した。
母狼が黒狼に踏み付けられ、先程まで黒狼が居た場所は大きく抉られていた。
あの一瞬を見逃さず、それともそういう策だったのか、渾身の一撃は母狼を無力化するのに十分な威力だった。
先程の衝撃で自身の耳は使い物にならず、甲高い耳鳴りだけが響いている。
子狼が居た場所には取り巻き達が群がり、母狼には黒々とした土の槍が突き刺さる。
鮮血は離れた自分の頬にも届き、それまで心配そうに我が子の身を案じていた顔が……堕ちる。
一夜だけ、ほんの一瞬だけ忘れられた殺意は再び湧き上がり、全身が歓喜に包まれた時、今までの視界が消え失せ駆け出していた。
見えず、聞こえず、声も出ないまま右手に何かを貫く衝撃が走る。
そう思ったのも束の間、それは両手両足に間断なく続き、声にならない叫びが幾重にも重なる。
溜まりに溜まった何かが発散されていくのが分かる。
何も出来ない自分への苛立ち、助けられなかった後悔、それら全てを吐き出すように体が動いていく。
どれくらいそうしていただろうか、無垢な空間に漸く『やめて』とリュカの声が響いた瞬間、目の前に黒髪の女性が現れる。
更に驚いたのは自分の現状で、その見知らぬ女性の腕に噛み付いているではないか。
突然の事に混乱していると
「しばらく寝てなさい、ね?」
そう短く呟き、女性は口の中で何かを唱える。
次第に意識が朦朧として来ると、体が地面へと落ちる。何をやられたのか、体の自由が一切効かない。
「あら、抵抗力が高いのね……でも安心して。悪いようにはしないわ」
その言葉を最後に、思考が更に緩くなって行く。
視界は閉ざされ、誰かに担ぎ上げられた気がした。
何かを喋っているようだが、今はもうよく聞こえない。
どこかへ連れられて行くのだろうか。だがそんな自身の境遇よりも謎の人物よりも、今はただただ、あの狼の親子の事が気になっていた―――。
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