第六話 ~氾濫と化物~

《第六話 ~氾濫と化物~》


 十の月。初めての迷宮探索から一月ほどが経った頃、珍しく朝から雨が降っていたので金熊亭の自室にて水薬作りに精を出す。


 最近は迷宮の探索も堂に入ったもので、現在は三層のオークと蠍型の怪物を相手に日銭を稼いでいる。


 魔法鞄は迷っているうちに売れてしまったようで、したり顔の婆さんを見てからというものその事実が飲み込めないほど後悔をしている。


 毎度の事ながら成長しないものだと猛省した。


 されども迷宮探索は深い階層まで行かなければ苦労は無く、多少の手間は有れど帰り道でグラムと答え合わせをするのも楽しかった。


『お調子者め。所詮はE級……上位の迷宮になれば高威力の罠や怪物が待ち受けているのだと、肝に銘じておくんだな』


 リアモから近いのはEと、更に上のCの迷宮だ。


 酔って勢い付くような事が無い限り、そこに足を伸ばす事は無さそうだと思う。


 そんな事を思い返しながら、一心不乱に擂粉木を動かす。


 換金するだけだった魔石に別の意味を持たせたのはグラムで、魔法が使いたかったとぼやく自分にそれならばと、錬金術での水薬作りを薦めてくれた。


 材料は主に魔石の粉末とナオリ草と水だ。

 水は不純物の少ない物が適しているらしく、専門の店で買うと意外と値が張る。


 そこでグラムにお願いして出してもらうのだが、つくづく凄い世界だと感心するばかりだ。


 魔法で作り出した水は水薬作りにも飲み水にも最適で、あとは迷宮産の魔石とナオリ草を入れて只管に磨り潰す。


 擂鉢と擂粉木は魔法鞄を売っていた魔道具屋で購入し、ギルドには置いていなかった初級と中級の錬金術書を見付けたのも幸運だった。


 迷宮の探索中に傷を負う事は多々あり、効果を確かめる為にも最近の回復は専ら自前の水薬が主流だ。


 傷だけでは無く解毒、体力、気力、魔力など……珍しい所で言えば気付け用の水薬や小さな爆発を生み出す水薬もあり、何とか三日坊主とはならずに続けられている。


 自分で使わない物、余った物は商業ギルドに売っても良かったのだが、説明が面倒なので冒険者ギルドで換金している。


 買取金額もそこまで大差は無い。


 十分に磨り潰したナオリ草に水と魔石の粉末を加える。

 引き続き只管に磨り潰し、ろ紙を敷いたコップへ流す。


 成分を抽出されたナオリ草と魔石の粉末……魔石の方は無色透明に近く、硝子のようにきらきらと光を反射していた。


 ろ紙を軽く絞り、コップの液体を水薬の瓶に移し替える。

 短い試験管の様な水薬瓶は見た目と違い頑丈で、思い切り床に叩き付けても割れる事は無い。


 最後にコルクっぽい栓をしたら完成だ。


(ふう……)

『随分と集中していたな』


 終わりを見計らいグラムが話し掛けて来る。気付かなかっただけで先程から話し掛けていたのだろうか……。


(ごめんごめん、結構楽しくてさ)

『それなら結構だ。そろそろ昼時だぞ』


 言われて微かな空腹を感じると、不意に部屋の扉が叩かれる。


「ゼロー! ごはんよー!」


 部屋の外からリナリーの元気な声が聞こえた。


 扉を開けると満面の笑みを浮かべ、リナリーが部屋まで配膳してくれる。


 朝から雨の今日は、水薬作りと座学に使おうと思い予め頼んでおいたのだ。


「くさくさい!」

 ……ナオリ草のせいだろう。


 そう言うとリナリーはおもむろにお盆を作業机へ置き、窓を少し開けてくれる。


 満足気なリナリーを撫で礼を言うと、嬉しそうに微笑んでくれた。


 汚れた衣服の詰まった麻袋をリナリーへ手渡し、洗濯を頼む。


 持って行けるのか心配だったがどうやら杞憂のようで、見た目よりもずっと力持ちだと感心する。


 用意された昼食を摂りながら恒例の、グラムによる座学が始まる。


 とは言ってもそこまで堅苦しいものでも無く、日々の疑問や質問を投げているだけだ。


 一番興味深かったのは何と言っても魔法についての話だ。


 扱えないから知らないで良いは、冒険者にとってあるまじき事だとグラムは言う。


『我も得意では無いがな……知っている範囲で教えよう』


 そう言って訥々と語り、その内容に一筋の希望を見出していた。


 魔法の発動方法は数多の単語を組み合わせ、魔素に命令を与え、体内の魔力を消費して行使される。


 それぞれの意味を理解し、単語だけで文章を作っても良いとグラムは言う。


 魔素という物は空気と同じでその辺を漂っており、それを吸収し、精製、血へと巡り、使用されてまた魔素へ戻る。


 魔法の種類は大別して二つに分けられ、自身にのみ作用する魔法と、自身の外に作用する魔法が有り、自身に作用するのは主に身体能力の向上で有り、副産物として感覚器官の感度や精度、またはそれらに付随する全ての能力が魔力によって補われる。


 疲労回復や毒、麻痺、眠り等への抵抗、身体の内に作用するものがこれに当たるそうだ。


 対して外に働く魔法の種類は攻撃魔法、防御魔法、回復、補助、支援、召喚や空間、誰にでも扱える生活魔法等が有り、その種類は多岐に渡る。


 この辺りで少し眠くなっていたが、リュカはこの手の本を楽しそうに眺めていたなと思い出す。


 外に作用する魔法の全てに共通しているのは発声が必要と言う事で、その単語を扱えなければ魔法は使えないのだ。


 尤も熟練者になれば詠唱の短縮、破棄、無詠唱等が出来るとグラムは言ったが、その熟練者とやらになるまでには、途方も無い数の練習が必要なのは言うまでも無い。


『とすれば、発声をしないで熟練者になれば良い』


 と、グラムは言ったがそんな方法があるのかと聞くと


『魔法陣学……だろうな。詠唱魔法と違い勝手は良くないが、魔力を流せばそこに書かれた内容の魔法が行使出来る』


 それなら早くやろうと、逸る気持ちを押さえられずグラムを揺さぶったのは良い思い出だ。


『落ち着け。魔法陣を描くにも魔力を流すにも、どちらも専門的な知識が必要なのだ。普通の魔術士では恐らく……』


 と、言い淀むグラム。


 何か問題があるのか、その答えはすぐに教えてもらう事となる。


『ゼロ、お前は自分の魔力がどれほどの物か分かって居るのか?』

(えっ……?)


 そんな物はあの少年神に見せられた紙の内容くらいしか思い当たる物が無い。


『それが問題なのだ。桁外れの魔力は人の身に過ぎる……生い立ちを聞いて多少は納得出来るが、それでもその力は制御出来なければ街ごと吹き飛ぶ物だ』


 自分の中に爆弾でも仕掛けられているのかと、ぞっとする話をグラムは淡々と続ける。


『枷を付けて制御をしてはいるが、その枷ですら常人であれば身動きが取れないような代物なのだ……』


 そんな物を何時の間にか付けられていたらしく、それもまた修行の一環だとグラムは言う。


『身体と同じで使い続ければ魔力も強くなる。抑える為の枷で強くなるのは本末転倒だが、それも制御の方法を学べば全ては解決する』

(ならすぐに……)


『専門的な知識が必要だと言っている。幸いにしてまだ最悪の結果に至る事は無い……が、近い内に行くしか無いだろうな』

(行くって、どこにさ?)


『魔法帝国……各国の魔術士達が集う、魔法狂の集まる国に、だ』


 何か思い入れでも有るのだろうか、その言葉には棘が含まれている。


『色々言ったが気にする必要は無い。幸い良い魂に守られているのだ、そうそう爆発四散はしないだろう』


 出会った時に言っていたリュカと森狼の事だろうか。あれから数ヶ月が経つというのに有難い事だと思う。


『それなりに夜が盛んなのも良い事だ。巫山戯た意味では無く、発散……外に逃がすという事は、お前が思っているよりも大事なのだからな』


 だとすれば枷を付けられている今の状況には感謝しかない。これ以上そんな事になっては破産するのが目に見えている。


 月に二、三度の頻度で出掛けては居るが、これ以上は身を滅ぼしそうで自重しようと胸に刻む。


『我としては毎日でも構わないのだがな』

(言ってろ)


 グラムの冗談にそう吐き捨て昼食を食べ終えた。


 お盆を下げに来たリナリーに飴玉を渡し、店の手伝いを労う。


 そんな訳で魔法の使用は当分先の話になりそうで、何もしていないのに恩恵が有るのならいっそこのままでも良いかと思っていたが、どうやら勉強の方は必須のようだ。


『細かい事を覚える必要は無い。魔法は怪物も使うのだ……単語と法則だけでも覚えておけば、対処も容易になる』


 そういう事らしかった。


 昼食後もやる事は変わらず、グラムと雑談をしながら水薬作りに精を出す。


 最近は初級の水薬から、より効果の高い中級の水薬作りを始めており、魔石の量や使う薬草の量が多くなっている。


 その分効果も高く、このまま順調に行けば面白い事が出来そうだと考えていた。


 一つの事に集中していると余計な事を考えてしまい、次々と浮かんでは消えて行くを繰り返す。


 それら全てを一通り認識し、決まって最後は考えても始まらない。分からない事は諦めよう―――そうして区切りを付けるのだ。


『それで良い。今は分からずとも、いずれ分かる……望む望まないにかかわらず、な』


 意味深長なグラムの言葉に首を傾げるが、いずれ分かるのならそうであって欲しいと願うばかりだ。


 作り終えた水薬を袋に詰め金熊亭から出ると何時の間にか雨は上がっており、頭上にはどんよりとした曇り空が広がっていた。


(これなら普段着で良かったな……)


 そんな事を思いながら大通りを歩いていると


『避けろ!』

 と、グラムが突然叫ぶ。


 こんな街中で何を突然言い出すのかと思う間もなく、悲しいかな身についた習性は自動的に回避行動を取らせる。


 咄嗟に飛び退いた後に巻き起こる爆発。


 それが魔法に依るものだと認識する前に、続く熱波と轟音からもう半歩距離を取る。


『あのクソ野郎……!』


 初めて聞くグラムの悪態に驚くが今はそんな場合では無い。


 突然降り掛かった文字通りの火の粉……その原因が何なのかと問い掛けると


『あいつ等、あのクソ共! 迷宮の怪物を溢れさせやがった!』


 何時か聞いた迷宮氾濫の事だろうか、グラムは終始怒りに震えた口調でその犯人達を口汚く罵り続けている。


 物陰に隠れて先程の攻撃の出所を探るが、街中だと言うのに気配はせずその姿も確認出来ない。


(あいつ等って……)

『……異世界の勇者。トール達のパーティだ』


 少し落ち着いて来たのか、口調が元に戻っている。


『気配が上手く察知出来ないのはご丁寧に遮断の魔法を掛けているからだ……三時方向の屋根に向かって我を投げろ』


 言われた通りにグラムを抜くと、そのまま思い切り投げる。


 回転したままのグラムが屋根を通過すると、断末魔と共にローブ姿のゴブリンが地面へと落ちた。


 グラムが勢いそのままに戻ってくるので慌てたが、ある程度調整出来るのか頭上で右の掌にしっかりと収まる。


『魔力が潤沢になった甲斐もあって、我もある程度は自由に動ける……一先ず冒険者ギルドに向かうぞ』


 ゴブリンの頭を踏み潰した後、すぐに駆け出した。


 死骸は未だその魔法の効果が切れないのか、絶命して尚存在の認識が難しかった。


 ギルドに到着するとどうやら情報は来ているようで、ギルドマスターのリチャードが群衆に向かって説明をしている最中に出会す。


「現在通常とは異なる氾濫が確認されている! 既に街中にも怪物が入り込み、かなりの被害が出ている! 怪物も通常の個体とは違い、特殊な強化がされているものと用心してほしい!」


 新たな情報が次々と言い渡されていた。


「現在ギルド職員が誘導に向かっている! 動ける者は協力し、住民の避難を優先させてくれ! 避難が完了次第、迷宮に打って出る!」


 普段の安穏な空気は微塵も感じられ無かった。


「はぁはぁ……お前、気付いたのか?」


 不意に声を掛けられ振り向くと、そこには宵闇の剣のリックが何時もの面子と立っていた。


 肩で息をしているあたり、自分と同じく慌ててここへ向かって来たのだろう。


「うちの大将が不在の時にこんな事になるなんてな……」


 ぼやくリックに意気消沈する一同。


 どうやら隊長のガルフは不在のようで、それはラウル達のパーティにも同じ事が言える。


『不味いな……。ゼロ、北門に向かって我を投げろ。お前はリズの所へ』

(なん―――)

『ぐずぐずするな! 死なせたいのか!』


 訳も分からず怒鳴られ、言われるがまま力の限りグラムを北門方向へぶん投げる。


 先程と同じく空へと昇ぼり、ある程度の高度に達すると一直線に軌道を修正し空へ消えて行った。


「お、おい。なんで魔剣を投げちまったんだよ……」


 と、リックが心配そうに声を掛けて来る。だがそれを説明している暇は無いとの事だ。


 気付けばリックに麻袋を託し、娼館街へ向けて走り出していた。


(冗談でこういう事は言わないもんな……)


 東門の大通りへ出るとあちこちで戦闘が発生しており、怪物達の気配も徐々に戻りつつ有る。


 襲い掛かって来る怪物は通常のそれと同じで、存在の希薄ささえ無ければどうという事は無い。


 ゴブリンには長剣、スケルトンには迷宮で拾った戦棍を以て排除し路地へ……行こうとしたのだがそこにも怪物は多く、住民の姿は見えないが相当数が交戦中でごった返している。


 長剣を納めてから飛び上がり、二階の窓枠を掴むとそのまま振り抜いて屋根へ登る。非常事態なのだ、最短距離を行かせてもらう事にした。


 不意に聞こえた風切り音に身を屈め、射手の位置を確認すると一息で距離を詰め戦棍を叩き込む。


 先程から胸騒ぎが収まらない。


 街の北側に進むにつれて眼下には大型の怪物がちらほらと見え始め、それと同時に密度も高くなって行く。


 屋根がぽっかりと空いている場所は広場だろうか……急いで駆け寄り見下ろすと、数人の冒険者が背後の住民を庇いながら応戦していた。


 広場の所々に冒険者が倒れており、幸いその中に見知った顔は無い。


 屋根から飛び降り、怪物の背後から次々と急襲して打ち倒す。


「終わった、か……?」

「助かったぞ魔剣の坊主!」


 どのくらい戦っていただろうか。怪物の混乱中に挟撃し、なんとか殲滅すると死骸は徐々に魔石へと変わる。


 グラムの言った通り迷宮から生み出されたという事がその事実から見て取れた。


「南門へ! 急いで!」


 少し離れた場所ではルカが住民の避難を誘導しており、何時もの冷静な面持ちは微塵も無く、焦りと不安が滲んでいる。


「ゼロ!」

 人集りの中からリズが現れた。


 地味なワンピース姿の彼女は初めて出会った時のそれと良く似ており、駆け寄られるなり抱き着かれる。


「無事で、良かった……」

 不安に声を震わせるリズの背中を優しく叩き、落ち着かせてから体を離すと


(そっちも)

 そう呟いて微笑む。


「感動の再開はあとにしとけ!」

「そら、引き上げるぞ!」

「―――おっと、何処へ行こうって言うのかな?」


 その場を後にしようと瞬間、頭上から声が落ちてくる。

 特有の粘り気を感じさせるそれは、異世界の勇者トールのものだ。


 広場の屋根の上……あの時と変わらない出で立ちで姿を現す。


 次いで魔術士の女が現れ、その両手には札が幾重にも貼られたグラムが抱えられて居た。


 そして―――


「いや……いやあああああああ!」


 ルカの絶叫が広場に木霊する。


 トールの仲間の女武闘家が現れ、その両手には真っ白い槍が―――その穂先に見知った―――身体をどこかへ残し、眠っているような表情で、首だけの―――ミーアが―――


 瞬間、全ての感情が吹き飛び走り出していた。


 今までで一番の疾走は一息で屋根の上まで自身を運び、異世界勇者達へと牙を剥く。


「……氷槍:アイスランス」


 待ち構えていた魔法はゼロに向かって放たれる。


 それを咆哮一つで消し飛ばすと、次いで女武闘家の槍が頭上から振り下ろされた。


 空中で身を捩りそれを躱すと、ボロ布を巻き付け強引に槍を手繰り寄せる。


 一瞬の綱引きは危険と察知したのか、女武闘家がぱっと手を離した事で終わりを告げた。


「ふっ……」


 トールが何かを呟くと、凄まじい轟音と共に雷剣が放たれる。


 遙か上空から飛来したそれは、容易くゼロを貫き地面へと縫い留めた。


 押し寄せていた周囲の怪物はその衝撃で押し退けられ、槍とミーアが傍らに落ちる。


 それが視界に入った瞬間、再び体の内から抑えきれない程の衝動が巻き起こる。


 全身が千切れそうな痛みと共に、脱出を試みようと手足を乱雑に動かし続けた。


『馬鹿、者が……冷静になれと、言っているだろう……』

「こいつ! まだ喋るだけの魔力が有るの!?」


 グラムの言葉に女魔術士がグラムへ札を追加する。


『互いに、しくじったな……我の落ち度だ……』


 次々と札を追加する女魔術士を片手で制止させ、冷酷な笑み湛えて二人を一瞥するトール。


(諦めてんじゃねえよ! なんでも良いからそいつらをぶち殺すぞ!!)

『良いから落ち着け!!』


 怒気に塗れたゼロの顔。

 それを一喝し、どうにか話を聞く姿勢を取らせると


『もう時間が無い。教会に行け……それと、あの冒険者に助力を求めろ。ここから先は―――』

「はい、終了!」


 トールが手を叩き、グラムの声が途切れる。


 依然として体は地面に磔られ、全身が痺れて力が入らない。


「ねえ君、この事態がどういう事か分かってる? 君が素直に魔剣を渡さないせいで、こうして不幸な事が起こっているんだよ? 理解してるかな?」


「アンタ、自分のせいで親も殺してるんでしょ? ……怖っ。周りに不幸を振り撒くだけの存在なんて、まるで化物じゃない」


 トールと女武闘家の罵倒が胸に突き刺さる。


 確かに自分が居なければ、この世界に生まれていなければ、リュカも……リュカの両親も、あの狼も、ミーアだって―――


「勝手なこと言ってんじゃねぇ!」


 直後、放たれた攻撃は女武闘家に背後から直撃し、その身を地面へ叩き落とす。


「がっ!」


 不意の一撃だったのか受け身を取る事も無く落下し、激しく咳き込みのたうち回る。


「どれもこれも全部、お前等のせいだろうが!」


 屋根の上に現れたリックはそう叫び、長剣をトールへ向ける。


「もう直ぐうちの大将が戻って来る! だからそれまで全員、何とか生き残りやがれぇ!!」


 高らかに宣言し、周囲を鼓舞するように叫ぶリック。


 その言葉にトールは目を丸くし


「あれ? おかしいなぁ……偽装は完璧だと思ったんだけど……」

「へっ……伊達にB等級の看板を、背負ってねえんだよ!」


 と、訝るトールへ言葉を返す。


 両者の間は未だ緊張が解けず、それを先に壊したのは二度目の柏手だった。


「よしっ、それじゃ今日はもういいや。目的も果たしたし、帰る事にしよう」

「えっ?」


 女武闘家が短く言葉を発する。


 信じられない物でも見るかのように涼しい顔をしているトールへ媚び諂い、助けを求めるような眼差しを向けていた。


「待ってよ……なんでそんな、助けてくれないの?」


「うん。だってこんな雑魚にやられるようじゃ、この先絶対に足手まといになるじゃん? あれを気付かないにしても、そんな地べたに這いつくばってちゃ……ねえ?」


 にこにことした笑顔の裏に、ぞっとする程の醜悪さが顔を覗かせる。


「この作戦でも、何もしてない……」

 女魔術士が呟く。


「囮としては最適だったんだけどね……雑魚は要らないや。後は好きにしちゃって?」

「バイバイ、サクラ……」


「逃がすと思ってんのか!」


 リックが斬り掛かろうと一歩踏み込むと、トールと女魔術士は姿を消し別の屋根へと現れる。


「逃げられるさ。だって、追いつけないでしょ?」


 それだけ言葉を残し、異世界の勇者は再び姿を消す。


「本来ならこの街ごと滅ぼしたいところだけどね……流石にB等級の相手は厳しそうだからさ。今回は魔剣も手に入った事だし、大人しく帰る事にするよ……またね、魔剣頼りの糞雑魚君―――ふふっ……ふはっ、はーっはっはっはっはっ!」


 そうして捨て台詞と高笑いを残し、周囲からトール達の気配が消える。


 よろよろと立ち上がろうとする女武闘家を、屋根から飛び降りた勢いそのままにリックが踏み付ける。


 そしてゼロへ近寄ると


「ふっ、んんんんん……!」


 と、未だ帯電している雷剣を引き抜くべく奮戦を始めた。


「お前の魔剣、教会であいつ等を相手に凄かったぜ……人質さえ取られなきゃ、絶対にあいつの勝ちだったんだ……」


 その言葉で大凡の出来事を把握する。


「さっきの大将が戻って来るって話な、ありゃ嘘だ……だからお前には、こんな所で死んでもらっちゃ困るんだよ!」


 リックの頑張りのおかげか、はたまたトールが離れた影響か……徐々に力が戻りつつあるのを感じる。


「ふざ……けるな! これは聖戦だ! 選ばれし我等のみが地上の支配者であり、こんな亜人など、死んで当然の―――」


 サクラと呼ばれた女武闘家がよろよろ立ち上がると、傍らに有ったミーアを踏み付けようと大きく足を振り上げる。


 リックがどうにか雷剣を引き抜くと同時に、ゼロが駆け出しそこへ滑り込んだ。


(ミーア……ごめん……本当に……ごめん……)


 謝罪と涙が溢れ続けた。


 何度も何度も呪詛のように繰り返し呟くが、その声無き声が届く未来は絶たれている。


「あ゛ァッ!? ウザいウザいウザいウザい!! 首だけに、なった、ゴミを! 大事、そうに、庇ってんじゃ! ねー、よ!!」


 尚も蹴撃は止まらず、うずくまり、後悔の念を吐き出すだけのゼロへ執拗に繰り返される。


「何時までやってんだ!」

 リックがサクラに斬り掛かった。


 サクラはひらりと躱し、憎しみの籠もった眼で睨み叫ぶ。


「貴様も! そこのガキも! まだ神の代行者である私に逆らうというのか! ……ちょうど良い、あの使えないクソ共は逃げたが、アタシは許さない! お前らのような罪人は一人残らず―――」


 未だ止まらない罵詈雑言の途中でゼロは立ち上がり、ミーアをそっと地面へと置く。


(よく、見ていてくれ……)


 未だ温もりが残る頭を撫でた後、血に塗れた親指を舐める。


 無意味な行動だと分かっている。だがそれでも、少しでも何かしらの可能性があるのなら、リュカと共に自分の中で生きていて欲しいと願った。


「お、おい……」


 リックの言葉も聞かず、ゆっくりとサクラへ向かって歩いて行く。両手で髪を掻き上げ、白髪の中に僅かばかりの朱が混じる。


「なにそれ? なんかのおまじない? キモいキモいキモいキモい! 流石亜人に与するゴミは違うな! ……もしかして、無駄死にしたお前の親も、同じゴミか?」


 懸念していた腹部に穴などは空いておらず、軽くさすった後に距離を詰め、サクラの顔へ拳を叩き込んだ。


 吹き飛び、壁へと打ち付けられるサクラ。


 少し上に行き過ぎてしまったが再び距離を詰め、壁伝いに落ちてくるなり着地の寸前で二撃目を叩き込む。


「ぐぉ……」


 押し出された空気が嗚咽となって口から漏れる……酷く不快なその音が、耳に届く度に嫌悪感が増していく。


 しかしゼロは武器を持つこと無く、しっかりと確かめるように一撃、また一撃と自身の拳をサクラへと振り続けた。


 行き場の無かった力が凝縮される。


 意識すればそこへ集まり、際限無く威力が上がり続けて行く。


 一つ、また一つと殴る度、もうほとんど動かなくなったサクラは声を漏らすが、規則的な攻撃は地に伏す事を許さない。


「もう止めておけ! それ以上は死んじまうって!」


 リックの制止も聞かず、羽交い締めにされてなお行動を止めない。


 固く握られた拳からは血が滴り、皮膚は裂け、それがもうどちらの血なのかは判別出来ない。


「もうやめて!」


 リズが目の前に飛び出し、そのままの勢いで殴り付けてしまう。


 リズは横へと殴り飛ばされ、滑った跡が衝撃の大きさを物語っていた。


 そこで漸く自我を取り戻し、気付いたように駆け付けその身を抱き起こす。


「……今は、そんな事している場合じゃないでしょう! 確かに悲しいのは分かる……だけど、そんな事してもあの子は浮かばれない!」


 未だ眠ったままのような、穏やかな表情のミーア。


 その亡骸をルカが両手でそっと抱きかかえ、件の女武闘家を一瞥する。


 それは冷徹で冷たく、普段の彼女からは考えられない程に憎しみの籠もった瞳だった。


 踵を返し、手早く自身の上着でミーアを丁寧に包むとルカは再び住民の誘導へと戻って行く。


 激昂し暴れていた少年を導くように、自身が出来る最大限の行動をその身を以て示しているのだ。


 退路は確保できているようで、広場から住民が次々に姿を消して行く。


 リズもその列に加わるべく立ち上がり、その前にと持っていたハンカチをゼロの手に巻く。


「気を付けて……」


 その言葉に頷き後ろ姿を見送った。


「大丈夫か? ……って、な訳ねーよな。俺もこの街の冒険者だ、ミーアに世話にもなった……正直な所、今すぐにでもコイツを殺りてーよ」


 何かを呻きながら、小刻みに痙攣するサクラを見る。

 顔は何倍にも腫れ上がり、そのほとんどが血の塊のようになっていた。


「体に問題が無いなら迎撃に向かうぞ。教会方面はウチの連中に任せてある……コイツはふん縛って、一先ず牢にでもぶち込んでおく―――」


 リックはそう言うと近くの冒険者達に声を掛け、拘束してから投獄するよう指示を出していた。


 今回の主犯の一人だと付け加え、サクラは槍と共に数名に担がれ連れて行かれた。


 空を仰いで深呼吸をする。

 街の中では未だ戦闘が続いているのが感じ取れた。


 落ちていた誰かの大剣を拾い、軽く振って具合いを確かめる。


 鞘に納めて再びボロ布を身に纏うと、背中にグラムが居るようで気持ちが落ち着く。


 左右にそれぞれ長剣と戦棍、それと幾つかの水薬。所持品の確認を終えればリックと共に駆け出した。


「全く、お前と共闘する事になるとはな……最初の印象は最悪だったってのに……」

(ちょっかいの掛け方がガキ過ぎるんだよ)

「なにおう!?」


 唇の動きだけで理解したのか、そこは流石のB級冒険者だった。


(クリスは何ていうか……真っ直ぐな人だからな。回りくどいやり方だと―――)

「なっ、ちげー……いや、違く無いな。うん……」


 雑談をしながらも怪物を次々と打ち倒す二人。


 意外にも呼吸は合っており、互いに死角を庇いながら動けるのが不思議な感覚だった。


「驚いてやがるな。さっきも言ったが、伊達にB等級じゃねーんだぜ?」


 ガルフが言っていた面倒見とはこういう事なのだろう。


 何も考えていない筈なのに上手いこと誘導させられていると感じるのは、リックの技術力の高さ故だろうか。


「今回の事はあいつ等には内緒にしておけよな……真っ先に教会に行ったなんて知られたら、絶対にからかわれちまう」


 そういうのがダメなんだと言いたかったが、引っ切り無しに現れる怪物を前にそれどころでは無い。


 北側の避難が進んでいるという事は南門は無事抜けられたと信じたいが、こうして動き回っていると街の広さに辟易してくる。


 うんざりしてきた所で路地の終わりが見え、自分達が通ってきた所は一通りの駆除が完了していた。


 北門の跳ね橋は既に上げられており、耳を澄ますと対岸にだろうか、空から火球や氷の雨が降り注ぎ轟音を立てている。


「そろそろ終わりみてーだな……って、おい!」


 リックが慌てて駆け寄って来る。


 緊張していた糸が切れ、そのまま地面へ突伏してしまう。

 体に力が入らず、手足は痺れたように動かない。


 遠くで冒険者達の勝鬨を聞き、安心したように瞼を落とす。


(すまない。もう限界みたいだ……)


 一気に疲労感が襲い掛かり、そう口を動かすので精一杯だった。


「……分かった。避難場所に連れてってやるから、安心して寝てろ」


 本当にガルフの言葉に嘘は無く、なんとも面倒見の良い奴だと感謝する。


 今だけはこの雰囲気のまま流されて、何もかもを忘れて眠りたかった―――。





 凶報を知ったパーティが夜の森を駆ける。重要だと言われた依頼を破棄し、荷物を投げ捨て、全速力で故郷を目指していた。


 馬や馬車に乗ってなど居られない。


 この喧しい程の鼓動を鎮めるには自身の眼で、耳で、事実を確認をするしか手段が無い事を三人は知っているのだ。


 故郷の外壁が見えた所で更に足が早まる。


 報せを聞いてからぐるぐると、頭の中で嫌な想像が膨らみ続けて行く。


「止まれ! ……って、ちょっとお前等!」


 衛兵の制止も聞かず、構えられた槍ごとそのままの速度で吹き飛ばす。


 平時ならば絶対にこんな事を許さないラウルでさえも、今は何も言わず只管に目的地を目指していた。


 育った場所へ飛ぶように到着すると漸く足を止め、大きく息を吸い込み呼吸を整える。


 各々が頭を垂れ、休むこと無く動かし続けた脚には震えが出ている。


 教会の扉を開けると祭壇の前には修道女が立っていた。


 今の今まで祈っていたのだろうか、彼女の後ろの棺には―――幼馴染の―――。


 白い花に囲まれた彼女はまるで眠っているように、その中で静かに横たわっていた。


 今にも起き出しそうな寝顔は良く見ていたもので、その表情はどこか満足気に微笑んでいる。


 覚束ない足取りで近付き、膝を折り、教会内が悲しみに包まれる。


 脇に避けていた親代わりの修道女は三人の子供達に寄り添い、その悲しみを吐き出させるようにそっと抱き締めた。


 そして―――


「もう行くのね」


 教会の外で修道女の言葉に頷く三人。目的地は既に決まっていた。


「神に仕える者としてこんな事は言うべきじゃないけれど……母として、貴方達の気持ちは痛いほど分かるわ。でもね、これだけは覚えておいて……貴方達を慕う子は、今もここに大勢居るのだという事を……」


 強く、はっきりとした言葉に無言のまま頷く。


 これ以上は言っても無駄だと理解したのか、それを確認すると少し俯いて孤児達の元へと戻って行った。


 三人は再び無言のまま歩き出す。この事件の首謀者であり、主犯の一人である少女の元へと―――。


 リアモ北西部……衛兵の詰め所へ到着する三人。


 塔のような建物は常に街を護る衛兵達が駐屯しており、地下には罪人を入れる為の牢屋が存在している。


 一刻も早くその顔を拝むべく勇んで足を踏み出すものの、それは一人の男によって阻まれてしまう。


 塔の入り口で両脇の篝火に照らされた冒険者ギルドの長は、険しい顔付きで三人の前に立ちはだかる。


「どこへ行くんだ?」


 リチャードへ言葉を返さず、一歩……また一歩と塔へ近付く三人。


「どいて」

 漸く出たクリスからの言葉。


 それは全ての質問を拒絶し、答える気がない事を明確に表していた。


「どこへ行くと行っている!」

「どけって言ってるのよ!」


 リチャードの怒声に負けずとも劣らないクリスの声。


 片足で踏み鳴らした地面は微かに揺れ、その怒りの大きさを物語っている。


 組んでいた腕を解き、根負けした様子で後頭部を掻くリチャード。


「……何も行くなと言ってるんじゃない。今のお前等の顔、あいつ等に見せられるのか?」


 顔面蒼白で目は血走り、眼光は鋭く一つの標的だけを見定めている。


 その顔は普段の美男美女からは想像出来ない程、殺意と憎悪に塗れていた。


「お前等の気持ちは分かるつもりだ。ミーアもガキの頃から知っている……だとしても、殺すのは無しだ。あれには神聖国や、勇者召喚の情報を聞き出す役目が有る」


「―――ら、なんでよ……」

「ん?」


 俯いたクリスが呟く。


「ならなんで、ミーアを一人で行かせたの! なんであの子が死ななくちゃいけないの! 他の冒険者は―――」


 詰め寄るクリスの頭を無言のまま、片手で抱き締めるリチャード。


「それは俺の失敗だ……すまん」


 胸の中で声を押し殺して泣き続けるクリス。

 ラウルもビオラも同じように悲しみに暮れていた。


 泣き止んだクリスを感じ取り、腕の中から解放する。

 あの小さかった孤児達が、今ではこの街の頂点へと君臨していた。


 しかし今回の事件はそんな三人でさえも容易く心をへし折られ、涙を流す事でしか発散させてやれない己の無力さを痛感する。


 こんな時、あの勇者達であればどうしただろうか―――遠い記憶の、本当の勇者達。


 豪放で、自由で、勇敢で……温かく、優しかった本物の勇者ならば、と。


 今は遠い空の元へ行ってしまった、己の手本のような者達ならばと……そう思わずには居られなかった。


「落ち着いたか?」


 未だ鼻を少しすすっているが、無言のまま頷くクリス。


「ミーアが行った理由は、分かるな?」


 自分の育った場所だ。守りたい気持ちは自分にも痛いほど分かる。

 三人が頷くのを見て頷き返した。


「首謀者の一人、勇聖教のサクラは現在牢屋に入れられている。だが今は、魔剣の坊主のせいで口がきけるような状態じゃない。かなり手酷くやられているが、魔術士や魔道具士達が懸命の治療を続けている。明日には回復できるだろう……ミーアの葬儀が終わり次第、尋問を始める予定だ」


「ゼロが……?」

 ラウルの言葉に頷くリチャード。


「その坊主も戦闘後に昏倒している……ああ、待て待て」


 駆け出そうとするビオラを慌てて呼び止めた。


「心配は要らん。そう聞いている……現在は定宿の金熊亭で安静にしている。大人しくしていれば、明日の朝にでも目を覚ますそうだ」


 リチャードの言葉に胸を撫で下ろすビオラ。


「神聖国については先程早馬を出した。書状の返事は早ければ数日で届くだろう……が、奴等はしらばっくれるだろうな」


 困ったように肩を落とし、溜め息混じりに告げる。


「これからどうするの?」


 試すような視線を投げ付け、返答を吟味するように窺うクリス。


「どうもこうも無い。他国とのいざこざは領主と国王の仕事だ……」

「それでも―――」

「でもも何も無い。対応に不満が有るなら国を動かす立場になるか?」


 少々酷な物言いだが、これが現実だ。


「無論、大人しく黙っている気は無いが……それでも、お前達が満足するような結果にはならないだろうな」


 幼い頃はこれよりも酷かった。


 異世界人による野盗紛いの傍若無人ぶりは度々問題となっていたが、数年前の事件で少しは沈静化された。


 しかし教団は徐々に力を取り戻し、年々その被害が深刻化していた。


 噂によれば現在の教祖は勇者パーティの一人だと言うが果たして―――。


「なら―――」

「おっと、その先は言うなよ。俺はお前達にそんな事をさせる為に昇級させた訳じゃない」


 思い詰めたクリスの顔に釘を刺すリチャード。


「もしも裁定が許せず、自分の手で決着をつけたいと言うのなら……その時は先に俺の命をくれてやる。どの道問題を起こせばこの街も、住民も、全員が狙われる」


 半ば狂信的な勇聖教の事だ、自身の命など顧みず一人一殺を実行するだろう。


「そうやって……リチャードさんは冷静ですよね」


 自身の置かれた境遇と計るように、侮蔑の視線を向けるクリス。


 その言葉に思わず笑みが溢れてしまった。


「何がおかしいんですか!?」

「いやなに、まさかそんな昔みたいな眼をするとは思わなくてな」


 ぶつけられない苛立ちを受け止めるのも、年長者としての役目だろう。


「今回は奴等の狙いが魔剣だったみたいだからな……正直どうしてあそこまで執着するのか、それは俺にも分からん。だが救われたという事実は確かだ……そこに安堵もしている」


 街全体が狙われる事と、武器屋の片隅に置かれていた魔剣……秤に載せればそれがどちらに傾くかは明白だ。


「それとも取り乱した姿が見たいか? うわーん、異世界の勇者が攻めてきたよー。神聖国と揉めちゃったよー。どうしよー……ってな?」

「それは……」


 茶化すリチャードに言葉を詰まらせるクリス。


 あの人ならば、きっとこう言っていたに違い無い。


 クリスの頭に片手を置き


「ならお前達はお前達で、出来る事をやらないとな。魔剣の坊主は今はただの坊主になっちまったし、誰かが傍に居てくれると助かるんだが―――」


 ちらりと確認するとビオラが元気に片手を挙げていた。ラウルも力強く頷いている。


 クリスの頭をくしゃりと撫で、笑顔で離す。


「明日までには笑顔を戻せ。最後くらい、ちゃんと送り出してやろう」


 リチャードの言葉に無言のまま頷く三人。


 その顔はまだ少し暗いままだが、後は自身の中の義務感に頼るしか無い。

 こんな状況では、掛けられる言葉などそんなに多くは無いのだから―――。


「飲み込めたなら解散だ。今日はゆっくり休んで、体調を戻して来い……やる事は沢山有るぞ」


 街の復興や被害の確認。氾濫の原因や今後の動向など、問題は以前山積みのままだ。


「……また明日来るわ」


 やはり未だ納得は出来ていないのだろう、尋問の場に同席させても良いものか考えてしまう。


 頭ごなしに拒否する訳にも行かず、クリスの言葉に頷くリチャード。


 三人はそのまま踵を返し、夜の闇へと消えて行った。


 願わくばあの少年の元へ行って、互いに悲しみを乗り越えてくれれば……そう願わずには居られなかった。


 初めて見た時はただの子供だと思ったのだが、日に日に似てくる面持ちにどこか畏敬の念を覚えている自分に戸惑った。


「おう、おつかれさん」


 鎧姿の衛兵が現れ、酒瓶をひょいと投げ付けて来る。


「……悪いな。お前が教えてくれなかったら、間に合わん所だった」

「いいって事よ。それが仕事だ」


 白髪交じりの衛兵は自嘲気味に笑い、酒瓶の蓋を器用に外す。


「損な役割だな、ギルドマスターってのも」

「全くだ。今からでも誰かに変わって欲しいくらいだぜ」


 リチャードも蓋を外し、静かに献杯を捧げる。


「ミーアに」

「ミーアに」


 中身の液体を口に流し込むと、無数の泡が弾けて消える。


 これまでの出来事もまるでこの泡沫のようで有ればと願うが、それは苦く口に残り続けた。

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