第二十二話 ~マイナスイチ~

《第二十二話 ~マイナスイチ~》


(さて、どう話したもんかな……)

 もう随分と昔に置いてきてしまった穏やかな時間に、少しだけ戸惑っている自分が居た。


 傍らには桃色髪の少女ルピナ……相変わらず何かを窺うようにおずおずとしており、眉が八の字になっている。

 出会った頃より幾分強くなったとは言え、その表情はまだまだ弱く幼い。


『お話って、どうしたんですか?』

 心配そうに覗き込む仕草は何時もの事で、この顔に何度も助けられた。本当に……有り難い限りだ。


(ここに来る……前の話だ)

 そう言って、自身の過去をぽつぽつと語り始めた。


 ゼロが中学生の頃、母親が蒸発した。

 その事に一番憤慨したのは祖父であり、家に来るなり大声で怒りを露わにしていた。後にも先にも、祖父が怒っていたのはこの一回だけだ。


 孫達には優しい祖父であり、その人柄は今でも師の一人として尊敬している。


「爺ちゃんと暮らすか?」

 施設に入るという選択肢も用意してくれてはいたのだが、安普請と弟妹達の事を考えれば是非も無い。


 引っ越しや転校は順序良く行われ、着いた先は少し田舎の古い一軒家だった。

 古き良き日本家屋……母屋以外に小さな道場も併設されており、祖父はそこで武術を教えていたらしい。


 ありふれた名字の付いた流派は今では門下生も無く、ある出来事を境に足繁く通う事になる。


「何故喧嘩をした」

 学校からの連絡によって発覚し、弟と妹がいじめられていたからだと告げる。


 親が居ないというのは彼等にとって格好の餌食であり、それについて面白おかしくからかい続けていた。


 あんな親ならば居ない方がましなのだが、それを説明する気も許しを請う言葉も聞く気にはなれなかった。


「喧嘩はしてない。一方的に殴った」

 ついには泣き出す妹を前に容易くタガは外れ、体格の大きな子をひたすらに殴っていた。


 今日は今日とてその兄が出張って来て、平時のまま殴り合いとなり顔を腫らして帰宅した。


「ふむ……」


 祖父はそう呟くと踵を返し、壁に掛けてあった竹刀を一振り渡し


「打ち込んで来い」


 そう言って防具も付けず、竹刀を肩に担いで手招く。訳も分からずただ振るい、その日から祖父との訓練が始まった。


「弟妹を守るのは大事な事だ。だがな、喧嘩にもやり方っちゅうもんがある」

「やり方?」

 聞き返す言葉に深く頷き、真っ直ぐ目を合わせる。


 この時は自分が餓鬼過ぎて、何の事を言ってるのかすら分からなかった。やるなら徹底的に、且つ互いに納得できるよう正々堂々とやらなくてはいけない。


 後ろめたい部分や卑怯な所が有れば、必ずその遺恨は己に返って来る……そういう事なのだろう。


 今の自分を祖父が見たらきっと大いに嘆く事だろう。この世界において互いの力量差が同じくらいというのは、ほとんど奇跡に近いのだ。


「優しいお祖父さんだったんですね」

 ルピナの言葉に頷くゼロ。その横顔にはどこか寂しさが漂っており、外見の年齢よりもずっと年上に映ってしまう。


 若い頃の苦労は云々とよく言われたが、そんな物は何の不自由も無く暮らしてきた奴が無責任に作り出した糞みたいな台詞だと思っていた。


 誰だって何不自由なく悠々自適に過ごせれば、それが最適解なのは間違い無いのだ。本当に、この世はクソみたいな事だらけだ。


 高校に進学すれば昼は学校、夜はバイトの生活を続け少しでも家計を楽に出来ればと思っていた。


「金だけあっても仕方ない……偶に贅沢出来るくらいでええんじゃ」

 そう言った祖父は少し寂しげで、その言葉の真意は終ぞ分からなかった。


「お祖母様は……」

 ルピナの言葉に頷く。この歳になって漸く分かった事だが、恐らく祖母の事を言っていたのではないかと思う。


 動乱の時代を駆け抜けた先に待っていたのは、きっと後悔だけだったのだろう。


「迷いが有るな……」

 休日の昼下がり、竹刀を振っていると祖父が呟く。自分では何時もと同じように振っていたつもりだが、一目で見抜かれてしまい正直に話す。


「意味、か……」

 数年の訓練で常人よりは遥かに頑丈に、相手を圧倒する迄に成長した。しかしこの法治国家の中では宝の持ち腐れであり、文字通り手腕を振るう事も無いのだ。


 始めた当初は弟妹を守れれば良いとだけ思っていたが、高校生となった今では一番下以外は自分で自分の事を片付けられるくらい、皆健やかに成長している。


「平和な世界……ですね」

(そうだな……ここよりは平和で、それでも他国では毎日のように戦争をしていて……本当に、歪で歪んだ世界だったと思う)


 壁一つ隔てれば貧富の差は歴然で、金持ちが嗤う横で貧乏人が寒さに凍えている……そんな世界の構図を目の当たりにして、少年期特有の正義感から憤慨したりもしたが一人で世界は変えられない。


 神が人を平等に創ったと言うのなら、きっと自分みたいな人間に壊されないようにだろう。


 体を動かし作る事に対して思う事は無く、それ自体は面白くすら感じていた。自分の思い通りに動かせるというのは何をするにおいても大きな恩恵をもたらし、それによって自分の中の靄が晴れていく……そんな気がしていた。


 そんな出来事も有り剣術や格闘術の類とは疎遠になるものの、朝の運動だけは続けていた。何も無い自分にとって健康で丈夫という事は、ある種の財産でも有ると祖父の言葉から学んでいた為だ。


(この体を借りて、一から作り直すのは大変だったけどな……でも、大人になってからは運動不足だったのは目に見えていた。元の体だとしても、それは同じ事だっただろう)

 照れたように笑い、それにつられてルピナも笑みを浮かべる。


「お祖父さんには感謝ですね」

(ああ、そうだな……)


 そして、高校三年生の夏―――祖父は他界した。


 何時もと同じような朝で、その日も何の変わりも無かった。それだけに家の中の違和感も感じ取れず、台所で倒れた祖父を見付けた時は一瞬で頭が真っ白になったのを覚えている。


 今までの人生で自分一人では到底何も成し遂げられなかっただろうと思い、そこでも活躍してくれたのはかつての頼りなかった弟妹達だ。


 家族というものは本当に良いもので、本当に……厄介だと思った。


「厄介、ですか?」

(そうだな……詳しくは省くが、財産として残してくれた物を俺達の母親が売っ払って自分の懐に入れた……そんな所だ)


 そうして卒業と同時に働く事になった訳だが、時代が時代だけにそこそこ就職口は広く、職場にも恵まれていた……と、思いたい。


(リリリの話だとあまり変わってないらしいが、働き過ぎだという自覚が無い訳では無いな)

 両手を組み、うんうんと頷く。祖父はああ言っていたが、何をするにもやはり金は大事なのだ。


「お金というよりも……目的を成す為に、ですよね?」

 そう言って悪戯っぽく覗き込むルピナの言葉に目を丸くする。


(そうだな……そうかも知れない)

 本当に、良く気が付く娘だ。


 そうして自分という人間が形作られて行く中で、浮いた話も有ったり無かったりしながら社会人として生きて行く中で、次第に歯車としての毎日に組み込まれて行く。


 順風満帆とは言い難いが、弟妹達との生活や偶に行く飲み屋での一時に癒されながら懸命に生き延びていた。


 大変だと言う人もいたが、あいつ等が居たおかげで生きる事が出来たと言っても過言では無い。

 家族の為に身を粉にする事を、苦労だと思った事は一度も無い。


 親戚の人達に頭を下げまくって借りた金も返し終わり、弟妹が大学を卒業してからは生活も楽になった。


(そこで気が抜けたんだろうな……)

 どういう事かと首を傾げるルピナ。実のところ自分の死因について詳しく分かっておらず、あの少年神からも聞いてはいない。


 平時であれば交渉の結果がどうなったのかと気が気では無かったと思うのだが、リュカの中に居た頃は半分寝ているような曖昧な状態だったおかげで、それに悩まされる事は無かった。


(母親とは何度か会ったが、会う度に違う男を連れていたよ。会う理由は何時も、金の無心だったけどな……)


 弟達に会ってやってくれ。せめて一言詫びの一つでも入れてくれ……何度も頼んだ末に数分立ち話をし、二言三言話して帰って言ったのには流石に閉口してしまった。


 自分は一体何がしたかったのか……謝られれば、悪いと思ってくれていれば、反省して改心して真人間になってくれていれば……そんな事を願っていたと思う。


(二十も疾うに超えて社会人として働いても、まったく餓鬼だったと思ってる……本当に……)

 どこか諦めたように笑うゼロをルピナが優しく抱き締める。


「そんな事無いです。ゼロさんはそうやって、弟さん達を守っていたんですから」

 僅かに頷く気配を感じ、ルピナが優しく頭を撫でる。それがどれほど救いになっているか、彼女は知る由も無い。


 何気無い一言によって絶望に突き落とされる事も有れば、何気無い一言によって救われる事も十分に有り得るのだ。

 急激な感情の昂りを感じ、顔を埋めたまま言葉を続けた。


(一生というものを考えた時、何時も思うんだ……俺の人生に意味は有ったのか、ってさ。何を成す事も出来ず、あいつ等に悲しい思いをさせてしまった……身内が死ぬってのは、相当に深い傷を残す)


 呼吸が荒くなり、心臓の鼓動が早まる。葬式の映像を思い出し、過去の苦しさを鮮明に脳裏に蘇らせる。祖父と……自分自身の物だ。


(そんな何者にも成れなかった自分が最後には他人の手を借り、今度は子供の体を使って好き勝手やって……あまつさえ命を落とさせてしまった。それは、絶対に許されるべき事じゃない。だから俺は―――)


「それは違いますよ」

 ルピナの声にゼロが顔を上げる。その目に涙を浮かべながらもじっと睨み付ける。


「ルカさんに言われませんでしたか? みんな、ゼロさんに託したのだと……」

(だったら……)

「私にはゼロさんの家族の事は分かりません。でも、あの笑顔は嘘じゃないと分かります。元の世界に居た時は全部全部、ぜーんぶ辛かったんですか?」


 泣き顔のゼロを見てしまっては強く言う事も出来ず、こちらも急激に湧いた母性によって口調が幼くなってしまう。

 目元を袖で拭き、首を振るゼロを見てルピナが笑みを浮かべて頷く。


「……良く頑張りましたね。お疲れ様でした」

 ああそうか、そうだったのか。その言葉が胸に落ち、積年の靄が晴れるように浄化されて行く。


 曝け出して話さなければ、同じ言葉でもどこか上滑りしてしまうだろう。それが全てを話した事によって奥深くまで刺さり、そこから広がるようにして全身へと至る。


 その言葉自体が魔法のようであり、尚も動かされる手によって全てが許される……そんな一時だった。


(……すまない。少し取り乱した)

 体を離して再度涙を拭うと、大きく深呼吸をして気持ちを整える。


(話の続き……と言ってももうそんなに無いんだが、そんなこんなで今はこの世界に居る。目的は……もう言わなくても分かるだろ?)

 決意を新たに面持ちも凛々しく、つい先程まで涙を浮かべていた少年とは思えない程に何時ものゼロへと戻っていた。


 この先を聞いてしまっては後戻りは出来ない。そう思いつつもルピナは口を開き、苦しみながら悩んでいるゼロの解放へと向かう。 


「どうしてこのお話をして下さったんですか?」

 言いたく無い事や言いにくい事を話す時、決まってゼロは少し困ったように俯き頬を掻く。本人は気付いていないだろうが、それは短い付き合いの自分でさえ何度も目にした物だ。


(自分なりのけじめだ。今日にでもここを発つ……みんなとは、ここでお別れだ)

 夜風が木々を揺らし、葉音が騒がしい程に鳴り響く。残響を残して尚、ゼロの表情は変わらず固い決意を宿したままだ。


「理由を……聞いても良いですか?」

 その言葉に無言のまま頷くゼロ。


(元々の目的は達成出来た。リリリはここに住めるよう便宜を図ってもらえたし、ルピナの両親らしき人も見付かったと言う……だとしたら―――)


 その言葉に無言のまま首を振り、お願いしますとだけ言ってルピナはゼロを見据えた。再び馴染みの仕草をしてから、ゼロが口を開く。


(人を―――殺せないからだ)

 頭に響くゼロの声。それは複雑な心情を混ぜ込んだように、真剣な面持ちのまま苦々しく絞り出された。


(それが悪いとは思っていない。二人にはそのままで居てほしいと……本気で思っている)

 言葉通りの気遣いや配慮、そういった優しさが流れ込んで来るのを感じていた。


「……ゼロさんは良いんですか?」

 その言葉にゆっくりと頷き、少しだけ後悔を交えながら口を開く。


(俺はこの世界に来て自分の親を殺した。何かの比喩や例えでは無く、確実にその生命を絶った―――)


 繋がりの薄い親であっても親は親なのだろう、そう独白するゼロは少しだけ辛そうに見えた。


(あの少年神には全て見透かされていたみたいで、俺の中の薄汚い願いさえもきっちりと叶えてくれたよ)

 何かの乗り物だろうか、その中で急激に息を引き取る派手な女の映像が見えた。


(俺が居なくなった後、それだけが本当に心残りで……きっと祖父が亡くなった時と同じくらい、悲しい気持ちになるかと思ったんだ)


 ゼロの声が荒ぶり次第に大きくなって行く。感情の奔流が激しく、自分を責めるように言葉を吐き捨てる。


(全てが終わり、何も思わなかった。胸の中に有るのは安堵と快哉だけで、もっと早くこうするべきだったと思った……本当に、無駄な時間だった……)


 この人は本当に、どこまで自分を痛め付ければ気が済むのか……そう憤った所でそれはきっと届かず、今の自分では何を言っても無駄なのだろう。決定的に説得力が足りていないのだ。


 盗賊の一件以降、何時も悩み続けて抱え込んで、自分独りでどうにかしようとしていたのは知っている。それが彼なりの優しさだと分かっていたが、そういう事で頼って貰えないのは少し悲しかった。


 話が終わりへと近付く度、まだ止めたく無いと引きずる自分が居る。

 これが終われば旅立ってしまうのだろう。まだ共に居たいと願う一方で、強くならなければならないと諦める二つの心に戸惑っていた。


(元の世界で道を踏み外さなかったのは家族のおかげで、この世界に来て道を踏み外したのは家族のせいだ……苦では無いと口では言っても、開放感を感じたのはそういう事だと思っている)

 ゼロの独白は続く。


(まったく陸でも無い……こんな奴が誰かに好かれるのが、本当に不思議でしょうがないな)

 皮肉交じりに鼻で笑い、呟くようにそう言った。


「それでも私は、ゼロさんが好きですよ」

 波音のような葉音が辺りを包む。


(……大した事はしてないんだがな)

 そう言って頬を掻くゼロは笑みを浮かべており、それが照れ笑いだとしても久しぶりに見る笑顔に安心した。


「だから約束して下さい……絶対に、死なないと」

 その言葉に驚いたような顔をし、すぐに元通りになると何時ものように頷いた。


(ああ、約束する。それからあいつ等には……ルピナから上手いこと言っておいてくれ)

 視線の先に影が二つ。窓辺から覗いていたのか、目を向けると慌てて隠れるのが見えた。


(これで大体話したか……)

 細かい部分を除けば大筋で説明出来ただろう。納得は多少だがしてもらえたようで、話し合い前の不安気な表情は無い。


「これからどうするんですか?」

(そうだな先ずは―――)

 そう言い掛けた時、不意に扉が開かれた。現れたのは二人のエルフで、登場するなり片手で室内に入るよう指示する。


「外は危険です」

「お部屋へお戻り下さい」

 素材回収に失敗したのか、二人の真剣な面持ちに素直に従う。


「侵入者よ。装備を整えなさい」

 部屋へ戻ると開口一番カルーアが言い放ち、支度を済ませると部屋を後にした。


(確認だが、侵入者ってのは宝物庫の……って訳じゃないんだな?)

 軽口を叩き、螺旋階段の手摺りを下へ下へと飛び移る。ルピナ達はカルーアの魔法によってゆっくりと落下していた。


『侵入者は多数……通常では考えられない規模らしいわ。攻めてきたのは勇聖教の信徒……先日の一件も有るし、一体なんだってのよ』

 カルーアの怒りに同調するように頷くも、色々と不可解な点は多い。


 先日の橋で見せた結界的な物や、この国に至る迄の道程。そしてそんなに大勢ならば、何故ここまで気付かなかったか等不明な事が多過ぎる。


(だが―――)

『そうね。全員返り討ちにすれば問題ないわ』

 普段は幼い少女にしか見えないカルーアだが、料理と戦闘の時には何倍も頼もしく見える。


 外へ飛び出すと遠くから戦闘音が聞こえ、一目散に走り出す。


「リリさん!」

 後方を走っていたルピナが叫び、城門を潜るとリリリは一人別方向へと走って行く。今の今まで不可解な所は無かった筈だ。しかし先日の勇者撃退以降、どこか思い詰めてる節が有ったのも事実。


 勇聖教の勇者、謁見での返答……何かがもう少しで結び付きそうになるが、今はそれよりも見失わない事が先決だろう。


(良いのか?)

「あんた達だけ行かせてもしょうがないでしょ。向こうはトウとキビに任せたし、ここはエルフェリア……森の民のお膝元よ?」

 そう言って自信満々に答える姿を見て、なるほどどうやら心配は杞憂らしい。


 そうして夜の森を駆け抜け、戦闘音がほとんど聞こえなくなるほど東へと進む。先程と比べれば住居のような巨木は少なく、鬱蒼と生い茂る木々が月に照らされ淡く輝いていた。


 神秘的な風景の中、駆け続けていたリリリが足を止めると徐ろに天を仰ぐ。

 何かを招くように両手を広げ、平時であれば絶対に気付かないであろう何かを振り撒いていた。それは月夜に照らされきらきらと輝き、風に乗っては消えて行く―――。


 何をしているんだ。そう問い掛け近付こうとした瞬間、広場の奥から声が聞こえた。


「動くな」


 それは重く暗い声で、まるで闇の中から生まれたような不気味な音をしていた。


 ゆっくりと現れた男は暗い色のローブに身を包み、酷く痩せこけた顔に加えて落ち窪んだ眼窩は眼光鋭く、こちらをぎょろりと視線だけで一瞥する。


(勇者……ではなさそうだな)

 今までの者と違い勇聖教のローブを着ているものの、その外見は酷く老けて見えた。青白い顔に皺の刻まれた頬……ぼさぼさの長髪は手入れなどされてなさそうだ。


「ふむ……終わったか」

 そう呟いて男が片手で指を鳴らすと、薄笑いを浮かべ続けていたリリリがはっとして正気を取り戻す。


 何時も通りのリリリの顔……だが周囲の状況に戸惑っているのか、前後を挟まれきょろきょろと辺りを見回している。肩の上のタマちゃんもそれは同様だった。


「ヒロタカ……!?」

「久しぶりだな……いや、お前にとっては数日ぶりか」

 男を見据えて驚きを露わにするリリリ。呼んだ名は先日の勇者の物だが、目の前の男と何か関係が有るのだろうか。


「あんた、なんで生きてるの……」

「何、お前の事が心配で地獄から蘇ったまでだ」

 そう言って俯き、押し殺すように笑うヒロタカ。それは嘲笑のように、まるで哀れな者を蔑むように執拗に繰り返された。


(知り合いか?)

 問い掛けた言葉に踵を返し、くるりと向き直ると声を荒げるリリリ。


「知り合いって……みんなも知ってるでしょ!? なんでそんなに冷静で居られるの!?」

 噛み合わない会話に言いようのない不安が突如として襲い、全開まで研ぎ澄まされた防衛本能が大剣を抜刀させる。


 それを見たルピナも魔法庫から槍を取り出し、カルーアに至っては既に柄に手を掛けていた。


「くっくっく……やはり何時見ても良いものだ。何も知らない者達を何も知らないまま嬲り殺す……本当に、この世界は実に素晴らしい!」

 両手を広げ天を仰ぐと、自らの言葉に酔いしれるヒロタカ。


『まずい事になりました……』

 尚も笑い続けるヒロタカを無視し、頭の中にルピナの声が響く。


「ん? おお、そうか……お前がルピナか。心を読む少女……その顔、全てに気付いているな?」

 なるほどなるほどと繰り返し再度声を押し殺して笑うと、突然リリリが声を上げる。


「そんな事はどーでも良い……妹は、ルルは無事なの!?」

 突如としてその存在を明るみに出した妹の名……恐らく愛称での呼び名だろうが、何とも安直な名付けだなと自分を棚上げして呑気に考えてしまう。

 リリリの問いに無言で頷き、肩の上のタマちゃんを指差す。


「タマちゃん、ルルは……私の妹は今どこに居るの?」

 暫く唸り、ぴっと指差した方向は北西……地図で見た神聖国の方をおおよそで指し示していた。


「うっ―――」

 そしてルピナが小さく嗚咽を漏らしたかと思うと、次の瞬間には地面へ胃の中の物を吐き出す。


 何かの攻撃なのか、知らぬ間に毒でも取り込んで居たのか……そう問い掛けても無言のままルピナは首を振り、槍を支えにその場に座り込む。


「ふっ、随分と心が弱いな……こんなものはまだ序章に過ぎぬと言うのに……」

 再度放たれる声に、これから行われる悪意がこれでもかと詰め込まれていた。


「リリ」

 親しげに呼び掛け指を鳴らすと、もう一度だと言い再び肩の上へと指を向ける。


 おかしい。何かが狂っている。……何がと分からないだけに言いようの無い不安だけが胸中を満たし、見慣れているはずの小人が酷く不気味なモノに見えた。


 ぴっと指差した方向は先程とは別……ヒロタカ自身を真っ直ぐに指差している。


 満足そうにそれを眺め終わると片手をしまい

「そら、念願の妹だ」

 そう言ってリリリの前に人間の頭部が放り出された。


 その瞬間―――地が爆ぜる勢いで飛び出したゼロが大剣を振りかぶり、上段からヒロタカへ襲い掛かる。

 飲み込まれそうになった空気と共に、それを切り裂く勢いで大剣を振り下ろす。


(っ!?)

 既の所で全身を使い、急ブレーキを掛ける。それでも勢いはさして衰えず、カルーアの細剣と激しくせめぎ合った。


「―――っのぉ!!」

 あの細腕と細剣のどこにそんな力が有るのか、渾身の力を込めて弾き返すと宙空に足場を作り出しては身を翻す。


(何してんだ!)

「あんたこそ何してるのよ!! 仲間を殺す気!?」

 どういう意味だ、どういう事だと混乱する間もなくカルーアの後ろを確認すれば、そこに立っていたのはリリリだった。


 先程まで立っていた位置にはヒロタカが立っており、その二人の間には件の頭部が転がされている。


 一瞬にして位置が入れ替わったような奇妙な感覚に混乱しながらも、その場を飛び退き三人でヒロタカを取り囲む。


「実に愉快だ。きっとこの場の誰もこの能力に―――いや失敬、そこの少女だけは別だったな」

 ルピナの方を一瞥し頷くと、よろよろと立ち上がり口を開きかけるのを片手で止めさせる。


「説明は不要だ、私がしよう」

 そう言って大仰に右手を出して一瞥、左手を出しては一瞥した。


「この能力は絶対催眠:イエスマンと言う。有り体に言えば激しい思い込み……そんな所か」

 何でも無い事のようにつらつらと喋っているが、リリリの状態を見る限り相当に危険な能力だという事は理解出来る。


「この能力の難しい所は相性が有り、良く効く奴もいればそうでない奴も居る……が、そんな奴にはこれだ」

 そう言って懐から小瓶を取り出すヒロタカ。


 小瓶の中にはきらきらと煌めく砂粒のような物が入っており、軽く振るとしゃりしゃりと音を立てて鳴った。


「万全を期するならこれを取り込ませれば良い……効果は先程、その身を以て体験して貰えただろう」

 再び声を殺して笑うと、大事そうにそれをしまいこむ。


 視線を落とした一瞬、駆け出すべきかと思うものの先程の二の舞いになりかねないこの状況に、何か手は無いかと二人へ視線を送る。


「ああ、ああ。無駄な事はしなくて良い……どうせここで死ぬ運命だ。リリ、ご苦労だった」

 そう言って片手をリリリに向けたかと思うと、再び指を鳴らすヒロタカ。


 まだ何か有ると言うのか、その場にへたり込んでいたリリリは自身の状況に驚き立ち上がると、訳も分からないという表情で涙を拭う。


「妹など初めから居ない。それすらも私の能力で作り出した物だ……なあ、リリ?」

 そう言って顔を見合わせ、まるで初対面のように呆けているリリリ。そして次の瞬間、何かを思い出し身を震わせると―――激しく嘔吐した。


「いや、いやぁぁぁ―――ッ!!」

 髪を掻きむしり再び崩れ落ちるリリリ。両の眼からは涙を零し、力の限り見開かれている。


 信じたくない現実を突きつけられたように拒絶の言葉を繰り返し、半開きの口からは尚も言葉が紡がれる。


「嘘、だって私は―――どうして―――」

「私の能力は他者に幻覚を視せ、それに基づいて事実が構築される。そして能力を解除した時、その矛盾が対象を苦しめる……」

 口角を上げ、邪悪な笑みを浮かべるヒロタカ。


「その女には恋人同士という幻覚を植え付けた……後はもう言わなくても分かるだろう? 幻覚に幻覚を重ね、更に別の幻覚を植え付けた対象をぶつけさせてもらった。ああ、本当に楽しかったなァ―――」

 国境での出来事を言っているのか、ヒロタカは尚も嗤い続ける。


「だが愚図はどこまで行っても愚図……私の能力で強化しても、まさかあそこまで無能だとは……」

 だとしたら自分が殺してしまったのは一体誰なのか。怒りだけで押し殺していた弱さが、ほんの少しだけ頭をもたげる。


 そんな弱気を払拭するように煌めく一筋の矢が放たれる。得意気に高説を説くヒロタカの背後からそれは襲い掛かり、易々とその体を貫いた。


「がッ、ハァッ……き、貴様……」

「何を偉そうに垂れ流してんのよ。ここは精霊樹の森の中……あんたの事なんて、目を瞑ってでも射抜けるわ」

 リリリの介抱をしていたカルーアが何時の間にか矢を番え、二の足を踏む周りの状況に文字通り終止符を射つ。


 天を仰ぎ、カルーアに片手を伸ばして倒れ込むヒロタカ。どうやら幻覚では無いようで、抉られた脇腹から流れ出る血の匂いが辺りに立ち込める。


「いやぁ、お見事お見事……」

 音の無い拍手で皮肉交じりの笑みを浮かべ、背後のヒロタカが嘲笑う。

 その声を確認しないままカルーアは飛び退き、着地と同時に声を漏らす。


「嘘でしょ。だって、そんな……」

 広場の中央に倒れ込んだリリリを見てカルーアが戦慄く。絶対の自信はあっさりと覆され、リリリの体からは尚も大量の血が流れ出て行く。


「私の話を聞いていたか? 幻覚を視せるという事はエルフご自慢の魔力視とやらも同じ事……そう錯覚させる事など造作も無いのだよ」

 余裕たっぷりの説明を最後まで聞き取ろうとはせず、中央のリリリに駆け寄ると水薬を振り掛けた。


「ほぅ……欠損部分すら修復する水薬か。随分と腕の良い錬金術士が居るのだな」

 当たり前だ。少年神直伝の能力はこういう時の為に有る……が、特級の回復薬はこれで看板だ。ここまでの深手を負う事を想定などしていない。


 こんな凄惨な状況をまざまざと見せ付けられては、これが幻覚かどうかを疑う事も出来ないのだ。


(……自信は有ったんだな?)

『当たり前でしょ! 魔力も匂いも、全部あいつの物だった……はずよ……』

 肩を落とすカルーアを見て小さく頷く。どうやら操られているとかの類では無さそうだ。通信魔法が生きている事を見れば、ルピナの状態もそこまで悪く無いと思う。


 さてどうするか……悠長に待ってくれている相手の余裕を逆手に思考を巡らせる。


 国境で出会ったヒロタカの能力……羨望の眼差しは複数相手に持続させる事は可能そうだったが、それは一度という訳では無いのだろう。対して今の状況はその制限が無さそうで、あの大げさな解除の仕草でさえブラフの可能性が有る。だとすれば中々に頭が切れる相手だと思うし、自身の能力というものをフルに活用しているのは疑う余地も無い。強制催眠、幻覚、記憶の改変に外見や位置の偽装……挙げれば枚挙に暇がない能力を前に、あらゆる状況に対抗できる術を持っておけと魔剣の言葉が蘇る。こういう搦め手を使う相手に対しての有効打は迷宮で見せた零距離爆破でどうにかなると思っていただけに、仲間に傷を負わせてしまうかも知れないこの状況ではそれも不可能に近い。半信半疑の引けた腰では殺れるものも殺れ無いだろう。効かない、通用しない、届かない相手に出会ったのならどうするというのだ。尻尾を巻いて―――


 グラムの説教を思い出し、リリリの体を抱え上げようとすると

「ふむ、良い判断だ……だがそこの女はもっと話をしたいみたいだぞ?」


 そう言って広場の周囲をヒロタカがぐるりと囲い込む。皆が同じ顔、同じ仕草でリリリを指し示し、視線を落とせば意識を取り戻していたリリリが弱々しく口を開いた。


「ごめん、ね……あーしの為に、高い薬……使わせちゃった……」

(気にするな……どうしても気になるなら働いて返せ)

 少しぶっきら棒な何時もの態度に、思わず笑みを零すリリリ。


「あーしね、みんなを騙してたの。居もしない妹を助ける為に、みんなを騙してた……」

(それも気にするな。ルピナの能力を騙せるなら大したもんだ)

 そう言って冗談めかすと少し微笑む。

 それを見て安心したのか、リリリは更に言葉を続ける。


「それは魔道具のおかげでも有るし、あいつの能力のせい……あれ、どっちだっけ? もう頭ん中がぐちゃぐちゃで、良く分かんないや……」

 混乱しているのか涙声のまま微笑むリリリ。多数の装飾具を前にそれを見付け出す事は困難だろう。


(どっちでも良いさ。まずはこの場から逃げる事が先決だ)

 そう言ってリリリを立たせると、漸く四人で戦闘態勢を整える……筈だったが、後方のルピナから返事が無い。


 ちらりと横目で確認をすれば槍を支えに俯いており、その姿は疲労の極地に達しているようであった。


(ルピナ……おい、ルピナ! 返事をしろ!)

 何かの幻覚に囚われているのか姿勢は変わらず、そのままの体制でぶつぶつと何かを唱え続けている。


「そろそろ終幕と行こう……なに、逃げるという策は良かったがそれをさせる心算も毛頭無い」

 そう言って指を弾くと遥か彼方から轟音が響き、何かが瓦解するような音が聞こえた。


 更には置かれていた頭部が変貌を始め、それはうぞうぞと不気味に蠢く触手達によって醜悪極まりない巨大な化け物へと変わって行く。


「愚図には愚図なりの使い道も有る……そしてそれは、お前も同じだ」

 リリリを指差し指を弾く間際、足元に這わされていた黒鞭によってその身が放り出される。


「―――くっ! 何するのよ!」

 見ればカルーアも同様に処され、ルピナの元へと投げられていた。


「あーしね、思い出しちゃった……あーしも同じだって……だからみんな、逃げて―――」

「ふっ……」

 何かを悟ったようなリリリの独白に止めろと叫ぶゼロ。しかしその願いは虚しく空を彷徨い、無情にも指は鳴らされる。


 あの頭部と同様にリリリの体から無数の触手が生えては、その身を押し潰して変貌を遂げてしまう……筈だった。


「―――ん?」

 ヒロタカがそう呟き、首を傾げながら自身の指をまじまじと見詰めている。それが幻覚で無い事は、その表情から容易に汲み取れた。


「残念だったわね……あんた等のやり口なんて、全てお見通しよ!」

 腕を組んだカルーアが声高に宣言する。


「死者を弄び、人の命を何とも思っていない……本当に、反吐が出るわ」

「ふむ……特級錬金術士が居るのなら、その話は本当のようだな」


 何時ぞや頼まれた水薬の中に妙な物が混じっているなと思っていたが、どうやらそれが功を奏したのか……今すぐにでも褒め散らかしたい気持ちと共に、言いようの無い不安が次第に輪郭を帯びて行く―――。


「そんな奴にはこれだ……」

 そう言って片手を上げるヒロタカ。指は既にお馴染みの動作を取っており、後はそれに力を込めるだけで音は鳴るだろう。


 その瞬間、胸元に光る一つの首飾りが見えた。ああ、そうだ―――あれはあの時の―――。


(走れリリ!)


 叫ぶと同時に駆け出す。音の無い声に呼応するようにリリリが駆け出し、すらりと伸びた手が助けを求めて眼前へと迫る。


「ゼ―――」

 言葉を紡ぎ掛けた瞬間、激しい音と共に視界は爆炎に包まれた。

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