第5話 猫とみんなの話
赤いちゃんちゃんこを脱ぐ。適当なハンガーにかけて、窓の縁にかける。スーツとワンピースとちゃんちゃんこが並ぶ。ベッドの上で正座していた夫がベッドから降りる。掛布団をめくって中に潜っていく。夫も同じように潜っていく。
あっと思い出したように夫が急いでベッドの中から出ていく。乱暴に掛布団を跳ね上げるものだから、風が横から入ってきた。しかし几帳面に跳ね上げたものを戻すから、すぐに温もりが戻ってくる。私の化粧机の前で何かしている。こちらに背を向けているから何をしているのかよくわからない。様々な形をしたチューブやら円筒を見分けることは相当難しいはずなのに、そこで何かを探しているように思えた。あったあった、と夫はベッドに戻ってくる。手には見慣れたチューブが収まっていた。掛布団をめくって私の隣に来ると、布団の中にいた私の手を外に出す。チューブの蓋を取って、中からクリーム状のそれを指に出す。間接照明のオレンジがそれを同じ色に染めていく。私の手を取り、撫でるようにそれを塗る。ほのかなシトラスの香りが心地いい。どっちの手も塗り終えると、丁寧に蓋をしてサイドテーブルに置く。
私の手の甲に夫の指の腹が置かれる。それがくすぐったいものだからやめてよ、と笑う。満足そうに夫は言う。
「これでいいでしょ」
「うん」
布団の中に潜り込む。ぱちん、というと、闇が広がる。
すっと手を横にやると夫の手があった。小指と小指が触れ合う。僅かな温もりが優しかった。目を閉じて息を吐く。
「おやすみ」
猫が庭にいる。
月明かりの中、今までの会話を聴いていたかのようにそっと部屋を覗いている。気怠げに、にゃあと鳴く。庭の茂みを走る。いつもの場所に行き、日向ぼっこならぬ月明かりぼっこをする。
猫は知っている。いつもの場所は自分のためにここに移動されたことを。
黒いそれは変な形をしていたが、とても寝やすくて、体に合っていた。あの変な眼鏡をした男が彼女の夫に言っているのを偶然聞いたのだ。猫としては嬉しい限りだった。彼女の家族の近くにいる口実が出来たからである。
器を見る。美味しそうなご飯がこんもりと盛られている。冷え切っているが、美味しいに違いない。それでも猫は手を付けない。
猫は知っている。もうここに来る必要がないことを。
先日まで小さい娘だったのに、あんなに大きくなって、餌を作るまでになった。こんな大きなパーティーを開催できるくらいまでになってしまった。寂しいような嬉しいような気がした。娘が大きくなったということは、つまり、彼女がそれだけ老いたということなのだ。
体を見る。白い毛が交じりだした。前のように軽く走ることすら今ではままならない。この場所に上るのだって一苦労である。
猫は知っている。いずれ果てることを。
猫は知っている。この月明かりはいつまでも優しいことを。
猫は知っている。もうこの場所に戻らないことを。
にゃあ、と月に鳴いて、そこから飛び降りる。
連歌〜とある町の群像 長月 @nagatsukikan
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