第2話 悪魔と天使の話
「起きろ」
「起きて」
「起きろっつてんだろうが」
「起きてってば」
同じ声がまったく違う言い方をしていた。誰かが俺を起こしている、ということに気付く。目を開けると眩しくて見ていられなかった。本能的に固く瞑る。
「目、開けろよ」
「目、開けてよ」
その声に従って固く閉じていた目をうっすら開ける。同じ顔した二人が俺の顔を覗き込んでた。
一人が白スーツを着ていて、もう一人が黒スーツを着ている。隙のない体つき。細身のスーツがよく似合っていた。ぱっと黒髪が目に入った。そこまで短いわけではないが、だらしなく伸びているわけでもない。清潔感漂う黒髪に好印象を覚える。切れ長の一重は神秘的で、すっと通った鼻と紅くて薄い唇はその神秘さを強調している。白く透き通った頬はまるで血が通っていなく、大理石でできた彫刻を思わせた。男か女か、西洋人かアジア人か。いまいち判断しかねる。
唖然としていると二人が同時に口を開いた。
「選べ」
「天国か」
「地獄か」
突然の訳の分からない質問に答えに窮する。その前に状況の理解ができていない。何が何だかさっぱりわからない。その訳の分からなさは俺を苛つかせた。二人を見上げる形で俺は警戒する。どうやら睨み付けるような表情をしてしまったらしい。
白い人が眉間に皺を寄せた。
「天使様に向かってなんてでけえ態度だ。しめてやろうか」
「落ち着いて、天使」
「お前は黙ってろ。悪魔の癖にいい人面しやがって。このまっくろくろすけ」
天使。悪魔。そんな言葉は小説や漫画などの媒体でしか聞いたことがない。しかもお互いをそう呼びあっている。珍しい名前だな、と思う。俺は体を起こす。先ほど眩しいと感じたのはこの空間のせいかと気付く。
壁もない、床もない、窓もない、扉もない、奇妙な空間。眩しすぎるほどの白に囲まれた空間。
ここは、どこだ。
「君は死んだんだよ」
「お前は死んだんだ」
矢継ぎ早に答えが返ってくる。信じがたい、受け入れがたい、答え。二人の声が俺の耳に殴りこんできたかのようだ。気に食わない訪問客は断固拒絶。それが俺のポリシーだ。だが、二人は俺のポリシーを無視し、答えることをやめない。
「君はこの世とあの世の境にいる」
「天国に行くのも地獄に行くのもお前次第」
何を言っている。何が言いたい。嘘だろう。俺を騙して、ない金をむしり取ろうとしているのだろう。
俺は耳を塞ぐ。二人はそれを見越したかのように俺の両側に立ち両耳に顔を近づけて囁いた。
「さあ、選べ」
「立地条件のいい天国か」
「人のいい地獄か」
白い空間が俺の頭をますます混乱に陥れる。
夢なのだろう。これも全て。目が覚めたらきっとまたあの六畳一間の我が家にいて、隣に彼女の綺麗な顔があるのだろう。ほら、早く目覚めてくれ。
「残念ながらお前は永遠に起きることはできない。この世ではな」
<嘘だ>
叫んだつもりが出なかった。空気の抜ける音がしゅうしゅうと喉から出る。声が出ない。苦しい息の音に俺自身が驚く。
「まあ、声を出すのは無理だと思うよ」
「派手にやらかしたな」
<派手に? 何の話だ>
「交通事故で君は死んだ。朝の通勤のとき。トラックと真正面から衝突して頭蓋骨陥没。その状態だと声帯も潰したかな。出血多量。死因は失血性ショック」
「顔面からいったな。ひどいぜ」
頭に手をやる。べっとりと何か液体のようなものが手につく。手を見ると真っ赤に染まっていた。灰色だったはずのスーツは黒ずんでいた。
「君は死んだんだよ」
あたたかい。だがどこか機械めいた言い方。否定したかった。
まだ死んでいない。死ぬわけにはいかない。彼女がいるのに。子どもが生まれるのに。こんなところで。
<俺は生きているはずだ>
「まだ否定するか」
<だいたい死後の世界を選ばせるなんて聞いたこともない>
「ないだろうね。このルールは超極秘事項だし」
頭を抱えたくなった。訳が分からない。
「だから訳が分からなくてもいいから、選べっつってんだ」
「選ぼうよー」
無茶ぶりすぎる。ふと疑問符が俺の頭に浮かんだ。
<地上という選択はないのか>
「ねえな」
「ないね」
一刀両断しやがった。二人を見る。二人とも困り果てた顔をしていた。
「体ねえしな」
「記憶もなくなるだろうしね」
<記憶がなくなったら戻れるのか>
「まあ戻れねえことはねえな」
「輪廻転生っていう方法だけど」
地上に戻れるならば、体をなくしても記憶をなくしてもかまわない。何が何でも戻ってやる。
<それがいい。俺を地上に戻してくれ>
二人は心底あきれ果てた顔をした。お互いの顔を見合わせている。どうしようか。そういう心の声が聞こえる。二人は同時に俺を見た。
「なんでそんなに戻りてえんだ」
「地獄も捨てたもんじゃないよ」
俺は少し笑みを浮かべて二人に告げた。
<嫁さんの腹の中に子供がいるんだ>
少しの間があった。
「嫁じゃねえだろ」
「彼女でしょ」
確かにそうだがそこは重要なところではない。
「くだらね」
「また地獄の少子高齢化が進んじゃう」
二人は好き勝手なことを呟く。独り言だったらしいが俺の耳にはしっかり届いている。戻ってやる。何が何でも。
<選べるんだろう? なら選ばせろ>
二人は同時にため息をついた。とんだ駄々っ子だ。表情がそう言っている。
「そんなに戻りてえか」
「そんなに戻りたいの」
<ああ>
二人は俺の周りをぐるぐる回りながら誘惑する。
「お前の彼女よりも美人な女はいるし、性格いい奴いるぞ」
「君の子供よりかわいい子供はいるよ」
「そもそもまだ生まれてねえしな」
「確かにね」
ぐるぐる回る二人は突然歩みを止めた。誘惑が失敗に終わったことに気付いたようだ。
白い空間に彼女の顔を思い浮かべる。黒のショートカットの髪を揺らしてにっこりほほ笑む彼女。春の陽だまりのようだった。喉がつまる。流れるはずのない涙が頬を伝った気がした。産まれてくる子はきっと彼女にそっくりで。まだ見ぬ小さな命が愛しい。
この腕で抱きたい。この目で見たい。この手で柔らかい頬を撫でたい。
<情けねえ。情けねえよ>
感情を伝えきれないもどかしさが情けないという言葉になって出てくる。情けなくて狂いそうだ。
「答えになってねえ」
白い人を見る。腕を組んで見下ろしていた。バカにしたように見下ろす。黒い人は俺の目線に合わせて座った。そっと肩に手を置き諭す。
「天国と地獄には君が持っていたものより美しいものが揃っている。それでも君は地上のものに執着するの?」
黒い人の言うことには一理あった。この感情に支配され、俺はこの世というものにまだすがりついている。繋がりを断ち切られることに恐れを抱いている。白い人が黒い人同じように俺に目線を合わせてくる。俺の答えを待っていた。俺は二人の目を見る。
<そうだ。これは、愛だ。知っているだろう?>
二人は顔を見合わせる。首を傾げ絶妙なコンビネーションでセリフを吐く。
「天使と」
「悪魔だからねえ」
「人間の感情は図りかねるわ」
小さく笑う。それはそうだ。この世あらざるものだからわかるわけないか。
<そういうものなんだよ。人間ってのは>
戸惑ったように黒い人は白い人に問う。
「そうなの?」
「知らねえよ。俺に聞くな」
「ごめん」
間があった。二つの同じ顔が俺を見てくる。じっと。無表情なその瞳で。蠱惑的なその瞳で。この瞳はどこかで見た。どこで見ただろう。つい最近見た気がするのだが。思い出せずに俺は二人を見返す。先に口を開いたのは白い人のほうだった。
「じゃあ、戻れ」
え、と驚く。あまりにもあっさり許可が出たことに意外性を感じたのだ。さっきまであんなに渋ったくせに。
<いいのか>
確認する。黒い人は柔和な笑みを浮かべてこくりと頷いた。
「望んだのは君だ」
白い人は不器用に口だけ曲げた。笑みとは程遠い顔だが確かに笑おうとしてくれた。
「後のことは責任もたねえぞ」
俺は強く頷く。また彼女に会えるならば。小さな命に会えるならば。
「いずれここに戻ってくることになる」
「それまでの別れよ」
俺は崩れた顔で精一杯の笑みを作った。口の悪い天使、人のいい悪魔へのせめてもの感謝の気持ちだ。
<ああ、ありがとう>
二人は俺を立たせた。同じ顔の二人。ぽんと俺の両肩を押した。ぐんと後ろに倒れる。加速がつく。落ちている。どこに落ちるか着地点はわからない。白い空間を落ちている。透明な眩しい空間。蛍光灯の明かりのようだが温かみのある不思議な白。背中に風が当たり二手に分かれる。この感覚、バイクの上の感覚と似ている。腕を広げて全力でこのスピードを感じる。脳裏に赤いちゃんちゃんこの彼女がいた。段々とそのイメージがぼやけてくる。
重たくなった瞼は自然と閉じていった。白い空間はいつの間にか黒い空間へと化していく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます