連歌〜とある町の群像

長月

第1章 猫の話

第1話 俺と彼女の話

夢を見た。

壁もない、床もない、窓もない、扉もない、奇妙な空間。

眩しすぎるほどの白に包まれた空間。

そこで俺と彼女が黒猫と戯れている。

艶やかな黒毛に、蠱惑的な黄色い瞳。

お腹が異常に大きい。

大きなお腹を抱えたまま俊敏な動きをする。

そのたび彼女は歓声を上げる。

俺はただその様子を見て微笑む。

ただそれだけ。




 窓から差す日の光が俺の目を刺激する。その刺激に耐えかねてうっすらと目を開ける。布団のほかに俺の体をあたためていたのは彼女の背中だった。彼女はまだ眠りの中に身を任せている。俺は彼女を起こさないようにそっと布団を出る。まだ寝ぼけた体を起こすように伸びをする。

 ふと彼女の寝顔を見た。ショートカットの黒髪がきめの細かい白い肌にかかっている。美しくカーブを描いた睫毛や真っ赤な唇、筋の通った鼻が朝日にあたりきらきらと輝いている。彼女の黒髪を少し触ると、彼女は、うーんと寝返りを打った。

 布団から出て、押し入れを開ける。箪笥の引き出しから白いワイシャツと黒い靴下を引っ張り出す。手早く着る。ワイシャツにはきっちりとアイロンがかかっていた。彼女の几帳面さが表れているようだ。ハンガーにかかったくたびれた灰色のスーツを着る。二人でデパートに行って作ってもらった一張羅。目立たない程度にストライプが入っている。そろそろこのスーツもクリーニング出さないとならない。


「おはよう」


 背中越しに彼女の低い声がした。振り返ると目をこすりながら布団の上に座り直している彼女がいた。灰色のトレーナーに黒のジャージ。起きたばかりで寝癖がとんでもないことになっている。数年前流行った発芽玄米のコマーシャルを思い出した。


「おはよう。起こしちまったか。悪かったな」

「ううん。今日早いね」

「そうかな」


 のそのそと布団から出てくる。俺はその間に台所に行き食料を物色する。六畳一間の我が家は布団から台所まであまりにも近い。台所の横の食器棚に8枚入りの食パンが入っていた。まだかびていないことを確認する。一枚だけ取り出し、かじる。パンをかじっている間に彼女は布団をたたみ終えていた。ハンガーにかかったちゃんちゃんこを被る。赤いちゃんちゃんこは去年のクリスマスプレゼントに俺が彼女にあげたものだ。もう五月だが、彼女はあの日以来一日も欠かさずにそれを着てくれている。大事に着てくれているのを見るとうれしくなる。


「今日、病院行ってくる」


 彼女は突然宣言した。危うく口にくわえているパンを落としそうになる。


「どうした。具合悪いのか」

「ううん。そうじゃなくて、確認したいことがあって」


 随分歯切れの悪い言い方をする。近頃体調が優れず、会社に行けないと嘆いていた節があったが何か関係があるのだろうか。訳がわからす、とりあえずもそもそとパンを食べる。

 彼女が少し空いていたカーテンを思いっきり開ける。陰気な畳の部屋に一気に朝日が入り込む。窓を開けると新鮮な空気も入り込んできた。ちゅんちゅんと鳥の鳴き声。車の音。風の音。朝の爽やかな音たちが空気とともに流れ込む。すうっと彼女が深呼吸する。なんとなく嬉しそうに見えた。それがなぜなのか俺にはわからない。

 パンを食べ終え、スーツについてしまったパン屑を払う。年季の入った机の上に無造作に置いてある腕時計をつける。この腕時計は彼女が買ってきてくれたものでストップウォッチ機能もついている。時代遅れの携帯をポケットに押しこめ、床に放って置いた明らかに登山用であるリュックを背負う。


「じゃ、行ってくる」


 その声で彼女は俺を振り返る。泣いていた。満面の笑みで。

 ざぶんと、心に荒波が立つ。荒波は心臓の鼓動を通して体中の血管を巡り脳内に大きな音を響かせる。


「どうした?」


 オロオロと、俺は彼女の肩を持つ。俺の質問に彼女は首を振る。


「ほら、遅刻しちゃうよ」


 俺の背中を押しだす。質問に彼女は答えない。明らかに今日の彼女は変だった。首をかしげながら玄関に向かう。黒のスニーカをつっかけ、革靴をリュックにしまう。バイク通勤だから、この習慣は致し方ない。

 扉を開け振り返る。彼女は自分のおなかをそっと撫でていた。そこに何かがいるように、愛しそうに撫でている。え、と声に出る。まさか。よほど驚いた顔をしていたのだろう。彼女は俺の顔を見て笑いを隠せないような表情をした。大きな黒目がちの瞳が三日月形に変わる。


「ま、そういうことだから。楽しみに帰ってきなよ」


 なんだ。隠すことないじゃないか。これからは俺がもっとしっかりすればいい話じゃないか。

 彼女の笑い声が俺の耳をくすぐった。


「ってことで。結婚しようね」

「当たり前だ」


 おなかに置いた彼女の手の上に俺の手を重ねる。ここに命が宿っている。彼女の手の温もりが優しい。。笑いあう。そっと手を離す。彼女の手の温もりが俺の手にまだ残っていた。


「じゃ」

「うん」


 階段を下りて下に停めてある原付バイクを引っ張り出す。黒光りのバイクは中古で買ったものだったが性能がよく走りも最高だった。彼女の次に大事な存在だったこのバイクはまた格下げだ。シートにしまってあるヘルメットを取り出す。被ってバイクに跨る。振り返って見上げると赤いちゃんちゃんこの彼女が俺を見ていた。

 手を振る。

 彼女も手を振る。

 今日は早く帰ってきて祝杯をあげなければ。前を向きエンジンをかける。思い切り蹴り上げ道路に飛び出した。彼女の満面の笑みが脳裏に張り付いて離れなかった。




 ヘルメットに風が当たり二手に分かれる。全力で感じるスピードはこの二手に分かれる風のおかげだ。朝のこの時間は車があまり通らない。道が続く。見上げると並木の緑が輝いていた。緑の隙間から差す木漏れ日が道路に影を作る。この季節が一番好きだ。輝く緑と吹き抜ける風はバイクを前へ前へと押し出してくれるような気がした。この並木道は春になると優しいピンクで満ち溢れる。風が舞うとそのたび青い空はピンクに染まる。春爛漫のその時期はよく彼女と散歩と称してこの並木道を訪れる。彼女は五月の緑より春のピンクを愛する。確かに優しいピンクもいいが、儚さはバイクには必要ない。

 前を見る。  

 少しの油断が命取りだ。彼女ともう一つの命のために全力で生きなければ。

 頬が無意識に緩む。なんか、俺らしくなくて恥ずかしい。

 男の子かな。女の子かな。なんて名前にしようかな。

 このバイクの後方に乗るのが自分の子供になるのかもしれない。いや、そもそもバイクじゃなくて軽自動車を乗るようになるのか。車を買えば、家族サービスもしやすくなるだろうし。家族サービスって、似合わない。でも、なんかいい。

 

 前方に黒いものが見える。先ほどまでの楽しい気持ちが、ちょっと落ち着いてしまった。

 目をこらす。


 猫だ。


 猫が道路の真ん中で座っている。夢に出てきた、あの猫だ。艶やかな黒毛に、蠱惑的な黄色い瞳。大きいお腹を抱えていた。いや、現実的に大きいお腹を抱えているかどうかなんてわからないはずだ。だが、わかった。避けもせず、動きもせず、じっと俺のバイクが来るのを待っている。


何を、何を訴えている?


お前の腹の中にも命が宿っているのだろう?


逃げてくれ。その命を守ってくれよ。


 スピードを落としてバイクを右に傾ける。その間猫は座ったまま俺を見つめていた。

 猫は俺を見続ける。無表情なその瞳で。蠱惑的なその瞳で。俺は猫から目を離すことができなかった。何かを受け取ろうと必死になっていた。何かとは何なのか、自分にも分らないが、何かをその猫に求めていた。


 何か言いたいのだろう? 今朝の夢にお前は出てきた。何か理由があるのだろう?


 猫は何も答えてくれない。体勢を立て直す。不可思議な猫から目を離し前を向く。ぐしゃりと何かが音を立てる。その音と同時に俺の視界は真っ白になった。トラックにぶつかったと分かったのは、そのすぐ後だ。死ぬって、こんなあっけないもの?


 猫、お前。


「ま、そういうことだから。楽しみに帰ってきなよ」

彼女の声が俺の頭にこだました。

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