第4話 母と娘の話②

「あんたはどげんね?」

「どげんね、とは」

「おらんと」

「何が」

「今までの話の流れで察しはついとうはず」


 スプーンの動きが止まる。残った液体を飲み干す。きっと舌は毒々しい青に染まってるに違いない。


「な、なんのことかいな」


 見なくてもわかる。母はにやにやしながらこちらを見ているに違いない。ちらりと見ると母も残った液体を飲み干していた。案の定舌を見せてきた。人工的なピンクに対抗するのはやはり毒々しい青だろう。思いっきり舌を出す。お互いに指をさしあって笑いあう。

 彼はこんなことをしたことがあるのだろうか。想像つかない。

 急に母の顔が近付く。悪戯っぽく笑う。


「恋しとうと」

「し、しとらん」


 母のエプロンを見る。今顔を見てはいけない。胸らへんについた染みを見る。確かこのエプロンは母の日かなんかに贈ったものだった気がする。ジーンズ生地で洗いやすく、上から被る形状のものだから着やすいという二つの利点に惹かれ買った。結構な頻度で着てくれているのかもしれない。


「してますねー、その顔はしてますねー、はい、言い訳しても無駄無駄」


 母は相変わらず詰め寄る。エプロンの染みから目を外し、母の顔を見た。明らかにわくわくしている。


「いや、話聴こう」

「ほう、話ばしてくれるとね」

「あ」


 しまった。誤魔化そうとして麦茶に手が伸びる。しかしその手は空を切った。取ろうとしていた麦茶が母の手にあった。


「何かば白状させようとしたら水やら飲ませたら、そん話まで飲み込んでしまうごたるけんね」

「くそう」

「まあ、ここは腹ば掻っ捌いて話そうやないね」

「掻っ捌いちゃいかん。それじゃ切腹になるばい」

「同じようなもんじゃなかね」

「違う、全然違う」

「とりあえず話ばしんしゃい。あんたの母親やけん、私は」

「何故ここで親の顔を出してくると?」

「間違いではなかね?」

「ま、まあ、そげん言われると」


 はあ、とため息をついて手をいじりだす。


「恋、じゃなかよ」

「ほお」

「気になる人はおるよ」

「ほお!」

「でも性同一性障害と思うんよ」

「せいどう、いつせい、しょうがい……?」

「せい、どういつせい、しょうがい」

「体は男やけど、っていうやつ?」

「うん。体は男性なんやけど心は女性なんよ、たぶん」

「たぶんって何ね?」

「美由紀って言うんやけど、恋バナしたことないんよ。だから誰がタイプとかわからなくて」

「いけめんね?」

「整いすぎてるくらい」

「写真は?」

「なかとよ」


 母が机につっぷす。なんでえ、と悲鳴に近い声で叫ぶ。オーバーリアクションは母の十八番だ。


「不思議なんよ、あの人」

「不思議?」


 気づけば彼のことを話したくて仕方のない己がいた。頭の中にあの風景がまた広がる。

広い食堂にただ一人。白い光に包まれ、白い雰囲気を醸し出し、白い服に身を包む彼。胸元の赤い実はまるで血のようで。手元の赤い玉かんざしはまるで火のようで。

 彼の声、彼の顔、彼の雰囲気、その全てに飲み込まれていく。

 口が勝手に開き、言葉を紡ぐ。


「白かよ。全てが」

「白?」

「着てる服がいつも同じよ。白いシャツ、白いパンツ、白い靴、白い本。胸元にいつも赤い実と葉っぱのブローチばつけてて。なんか雰囲気も白かよ。なんていうか、神秘的?」

「……なんかいな、すごう教祖的な何かば感じるとよ」


 指を鳴らす。それだ。


「そう、そうなんよ」

「あんた、新興宗教に気を付けんしゃい」

「わかっとう」


 いつの間にか麦茶が先ほどの位置に戻っていた。グラスの滴が幾筋も伝っている。机に水滴がつく。グラスを傾け、液体を流し込む。麦茶独特の苦みが喉を伝わり、体中に水分を行渡らせる。余程体は水分を欲していたらしい。ごくりごくりと喉を鳴らし、下へ下へと麦茶を体内に落としていく。空になってしまったグラスを置く。机にとんだ滴たちを拭き取るべく、台拭きを探しにキッチンに向かう。

 キッチンの窓から外の庭の様子が見える。青々と覆い茂る植物たちは太陽に向かって何かを叫んでいるように見えた。きらきらと日の光に当たる様は眩しくて思わず目を背けてしまう。

 そこに一本の木が見えた。濃いピンクの花をつけた木。妙に滑らかな表面を持っていた。まるでやすりで削ったかのような滑らかさ。


「お母さん、あれ、何の木?」


 麦茶を飲んでいた母がこちらを向く。知らないの? とでも言いたげな表情。


「さるすべりよ」


 何かが頭の中を駆け巡った。

「あなたのルーツが欲しい」と言った彼の穏やかな声が耳の奥で聴こえた。

 誰かの声で唄われるあの懐かしい曲が流れだした。


 赤いな、赤いな、さるすべり。


 ああ、この声は美由紀の声か。

 いや、違う。

 違う誰かの声。


「お母さん、この曲知っとう?」


 私は唄いだす。あの曲を。


 赤いな、赤いな、さるすべり


 穏やかに、静かに、優しく。彼のように。あの声の主のように。

 声が震える。声が揺れる。

 ああ、と母は当たり前のように答えた。


「それおばあちゃんよう弾いとった」

「え?」


 数年前あちらの世界に行った、私の祖母。もう今ではその顔を思い出すことも難しくなってきた。薄れてきた祖母と言う存在が妙に色濃く私の心に突き刺さる。


「弾いとったって三味線?」

「うん」


 あの夢の中で流れていた音は三味線の音ではなかったか。滝の水のごとく何か、おそらく思い出のようなものが迸るように流れてきた。

 何故あの夢をここ最近見るようになっていたのだろう。

 何故それに疑問を持たなかったのだろう。

 何故私は祖母と言う存在を忘れていたのだろう。

 あふれ出る疑問はとどまることを知らず、私の心臓を掴んで離さなかった。脳から流れる何かの分泌物がどくどくと鳴る。耳の奥に響くこの音は鼓動なのか、思い出や疑問が流れ出る音なのか。

 動揺を隠すために私は顔を下に向けた。


「その三味線遺っとう?」

「うん。あるよ」

「ちょっと見てこ」


 怪訝な顔をして母は曖昧に頷いた。

 祖母の部屋に向かう。主人を失った部屋。生活感のなさが切なさを生み出す。仏壇の前には晴れやかな顔をした祖母が額縁の中にいた。

 

 おばあちゃん、あの唄は。

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