第5話 祖母の話

 ちーん、と鐘を鳴らす。百合の花の香りが鼻につく。纏わりつく香りを払いのけようと私は三味線に手を伸ばす。立てかけられている三味線は着物生地にくるまれていた。正座して丁寧に生地を外す。三味線が露わになる。

 木で作られた細い棹。太さの違う三本の黄色い糸。猫の革で作られたという四角い胴。糸の調整をする象牙で作られた糸巻。

 そうだ。これだ。この三味線だ。

 祖母の背中を思い出す。祖母の表情を思い出す。祖母の性格を思い出す。祖母の声を思い出す。




 あけみ。


 おばあちゃん。

 なんね、あけみ。

 もういっぺん弾いちゃらんね。

 あんたも弾いちゃらんね。

 こないだ弾いたとよ。だから今度は聴きたか。

 あけみは怠けもんね。この曲にぴったりや。

 ん?

 さるすべりは「なまけの木」とも言うとよ。

 あけみは怠けもんじゃなか。

 そげかね。

 こないだ弾いたともん。

 じゃあ、こんな安かばちじゃのうて高かばちで弾いてやろ。

 ほんと?

 ほれ、そこの棚に入ってるばちば取って。

 これ?

 そう。

 おばあちゃん、これしゃもじ!

 はは、引っかかったとね、あけみ。

 もうおばあちゃんったら!

 女は女優とよ。だましだまされ笑い合う。

 女は女優?

 笑い合うっていうのが重要ね。本気で笑い合えれば大したたまげた。

 ん?

 でも演じる自分も演じない自分も自分とよ。

 ん? ん?

 いつか分かる日が来るとよ。

 うん!

 じゃあ、ばちば探して。

 えー!

 はい、用意スタート!


 幼い時の私が目の前にいる。おばあちゃんにだまされ笑い合っているあけみがいる。ばちを探して、部屋中を動き回っている。結局あのばちは何処にあったんだっけ。ほこりを被った記憶を辿ればあのばちに行き着くような気がした。

 無意識のうちに消していた祖母の存在。「あけみ」と下の名前で呼んでいたその情景を今の私なら鮮明に思い出すことが出来る。

 亡き祖母との思い出。

 三味線を構える。糸巻で糸を調整する。あの夢の中の光景が今の自分の状況にかぶさる。

 窓から零れる日差し。

 足の甲に食い込む畳の繊維。

 庭に植わっているちらりちらりと舞う濃いピンクの花。

 懐かしい、切ない、愛しい、空間。

 ここに足りないのは音だ。

 穏やかで、静かで、優しい声だ。

 弾かなければ。異常なほどの焦燥感が私の身体を縛り付ける。ぴんと張った糸を指ではじく。

 ちん。

 ああ、この音だ。指ではじいたせいか不鮮明な音が祖母の部屋に響く。やはりばちが欲しい。確かあの場所にあったはず。そう思って、三味線が立てかけてあった所の隣に置いてある箱を引っ張る。上に楽譜が置けるようになっている、箱。扉式になっていて、年代を感じるくらいに使い古されている。三味線を片手で支えながら扉を開ける。ずるっと中に入っていたファイルが雪崩を起こして膝に落ちてくる。

 ファイルの中に紙が一枚。端が破れて、日に焼けている。


さるすべり。


 右端に縦に確かに書かれている文字。流れるように書かれている文字は祖母のものかは特定できないが、この紙を祖母が持っていたのは確かだった。覚えている。この一枚をこの箱の上に置いて、鼻の上の老眼鏡を直しながら覗き込んでいた。

 よくわからない記号が書かれている。おそらくこの記号が音を表しているのだろう。だとするとこれは楽譜に値するものだ。読み方の分からない楽譜を目の前に私は躊躇する。

 流石に弾くのは厳しいか。

 しかし、曲は知っている。音もわかっている。

 とりあえず、と思ってその一枚を箱の上に置く。

 三味線はある。楽譜もある。やはり、ばちが欲しい。

 中を探ると、ばちが入っていた袋が出てきた。そうだ、この中にばちが入っていたんだった。それで、これを渡して弾いてもらったんだった。澄んだ音色に心奪われて、何度も何度も弾いて弾いてとねだったんだった。

 美由紀の声と祖母の声が重なる。穏やかで、静かで、優しい声。

 そういえばあの夢を見始めたのは美由紀に出会ってからではないか。

 袋を手に取る。結構軽い。以前手に取った時より成長したせいか。袋のチャックを開ける。中に手を入れる。


「ん?」


 取り出す。


「え?」


 その肌触りは象牙ではなかった。さらっとしたそれは明らかにプラスチック。目に飛び込むべき色はクリーム色だったはずだ。目の前にある色は白。べたりと塗られたような人工的な白。糸をはじく部分は鋭く尖っているはずなのに緩やかに弧を描いている。滑らかなはずの表面はぶつぶつと丸い突起がある一定の規則のもと並んでいる。


 これは、ばちでは、ない。


 プラスチックでできた、しゃもじだ。


 見間違いかと思って顔を近づける。

 うん、どう見てもしゃもじ。

 いくら覗き込んだところでその肌触りは変わることはなかったし、クリーム色になることもないし、先端部分は尖ってくるわけでもないし、表面が滑らかになることはなかった。

 女は女優。だましだまされ笑い合う。


「おばあちゃん……」


 先ほどの母子の会話を思い出す。あの中に祖母が交じっていたら、もっとくだらない楽しい会話になっていたのだろう。

 大学での女優っぷりを話したらなんと言ってくれるだろうか。美由紀のことを祖母に言ったらなんと助言してくれるのだろう。想像するだけで楽しい。だましだまされ笑い合うのが女優と言うのなら、祖母はとんだ名優だ。何しろ、死んでも女優で居続けたのだから。

 美由紀に与えられたルーツ探しと言う課題はまた新たな課題を増やした。祖母に与えられた、女優という課題。祖母に追いつくには私はまだまだ修行が足りないらしい。

 とんだルーツ探しになったものだな、としゃもじを握る。

 とりあえず、ばちを探さなければ。帰るころには弾き終えてなければ。

 そしてこのことを美由紀に話さなければ。私のルーツ、女優であった祖母のことを。


「お母さん、おばあちゃんにだまされたと!」


 祖母の部屋から眺めるさるすべりの木は確かに笑っていた。

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