第5話 キールの話
「あれ」
桃太郎が声をあげる。
「あれ」
僕も気怠げに声をあげる。
「あれじゃないでしょ、やすさん。狙ったでしょ」
「知らね」
ラジオのボリュームを上げる。
「うーん、そっかあ、彼がなおすけさんの名前を呼んでくれないのか。それはちょっと悲しいかもね」
「ほれ」
得意げに言ったら心底いやそうな顔をされた。傷つく。
「君は彼の名前を呼んでいるのかな? まず呼んでいなかったら彼の名前を呼ぶこと。それから呼んでほしいって頼むこと。謝ること。そうすれば彼だって君の名前を呼んでくれるよ」
桃太郎がちらりと僕を見る。僕はカクテルグラスを弄ぶふりをする。にやにやと僕の顔を覗き込む。自然と舌打ちが出る。透明なそれが歪んで見えるのは酔いのせいか。
「やすさん、受け売り」
「黙って」
口から出る言葉はつらく桃太郎にあたるが、はじき返すがごとく彼はにやにやと笑い続けている。この野郎。兄の声が僕の言葉を中和する。
「恋って難しいよね。些細なことで喧嘩したり、すれ違ったり、あんなに好きなのにってもどかしい想いで一杯になったり。どうしようもなくなって何の関係もない人を巻き込んでしまったりして、それでまた自分が嫌になってしまったりして」
しゅんと縮こまる彼の背中がいじらしく見えて、目をこする。
「ごめんなさい」
「おう」
グラスを傾けても異様に軽くて空しい。
「恋って言うのはお互いを見つめ合うだけではだめ。同じ方向を見て肩を並べて歩いていくのが恋じゃないかなって俺は思う。見つめ合い続けていたければ、永遠に見つめ合ってそのまま化石になって海底に沈むんだね。素敵だなあ。馬鹿馬鹿しいくらいだ」
沈黙が妙に沈んでくる。
「柔らかく毒吐きますね」
「流石我が兄」
弱弱しい桃太郎の声を軽く流す。知ったこっちゃない。
「なおすけさん、聴いてるかな。君は少し見てほしいんだね。そりゃそうだ。君は選ばれた。何千何万といる女の子の中からたった一人選ばれたんだ。しかも君が何千何万といる男の子の中から選んだたった一人の彼にね。それは素晴らしいことだし、見てほしいのは当たり前だ。だから君も彼を見てあげよう。君ももしかしたら彼のことを見ていなかったのかも。お互いを見つめ直すいい機会と思えばいい。それが済んだら同じものを見つめよう。あるいは聴いてもいい。味わうのもいい。触るのもいい。同じことを彼と一緒に経験していけば、君と彼の手の上にはたくさんの宝物が山積みになってるはず。その宝物は決して零れ落ちない。素敵な宝物だ。彼とお幸せにね、なおすけさん」
ほお、とついた溜息はバーの瓶にあたってはじけ飛ぶ。
「素敵な宝物……零れ落ちない宝物……」
兄の声は彼に確実に届いたらしい。口元が緩む。気も緩む。
「流石我が兄。原稿があるかのような喋りだ」
「ないの?」
「盲目だからね」
あ、と彼は気まずそうな顔をする。ネクタイがゆらりと物悲しく揺れた。
「すみません」
「かまわないよ。な、すごいだろ」
背中を伸ばし、彼を見下ろす。
「すげえっす」
彼も背中を伸ばし僕を見下ろそうとする。酔いが僕たちに笑みを提供する。
「じゃあ、今週のカクテルを紹介しよう。キール。カクテル言葉は最高の巡り合い、陶酔。ワインベースのカクテルだ。フルート型シャンパングラスによく冷やした白ワインとクレーム・ド・カシスを6対1の割合で注いで軽くステアする。これでできあがり。キールはワインベースのカクテルとしては世界一有名なんだって。今宵の月は満月。満月の夜に君の愛しい誰かとキールを傾けるのも悪くないね」
満月。闇夜に照らされる真珠のごとく白く丸いそれは妙に神々しくて、近づきがたい。あれに映る影がずっと僕と彼女と彼女の子ども、そして兄のものであればいい。桃太郎とその彼女であればいい。キールじゃなくても、何か同じものを食べて飲んで、寄り添えればいい。
僕は何を悩んでいたのだろう。
何を考えているんだか、よくわからない。
ラジオから聴こえる兄の声が遠くなる。タップして止める。
ぽつりと桃太郎が呟く。
「会いたいなあ、あけみに」
会いたいなあ、彼女に。その言葉を僕は空気と一緒に飲み込む。
「そんなに言うならこの後会えばいいじゃん」
その言葉は僕に向けられた言葉でもあった。
「こんな夜遅くに? 迷惑じゃない」
その通り。だから僕は会わない。でも。会いたいという想いは拭えないもので。困ったなあ、と僕は頭を掻く。頭を掻くついでに八つ当たりのように言葉を吐く。
「どうせ一人暮らしだろ、あっちだって」
「なんで知ってるの」
あ。いけね。
「え、言ってたじゃん」
「そうだっけ。言った記憶ないんだけど」
「い、言ってたよ」
「どもってる。やすさん、どもってる」
「酔ってるからね」
「そっか」
彼女の近所に住んでるとか言えない。今まで出くわさなかった方がすごい偶然かもしれないとか言えない。それに何れ出くわしてしまうなら、その時に言えばいい。今は彼女のことを言う気分ではなかった。大事にしまっておきたかった。
グラスが光を浴びる。浴びて輝いて反射してきらめきを目に届ける。
痛くて目を細めるしかなくなる。酔いが醒めそうで怖かった。いつまでも酔っていたかった。でもそろそろ現実に戻る頃合いか。こつんとグラスを指で弾くときらめきが宙を舞った気がした。そのきらめきは僕の酔いを奪って空中分解させてしまった。
「最後に一杯飲むか」
「そうっすね」
二人でカクテルグラスを前に出す。
「またなんかあったら呼べよ。くだらねえ話でもなんでも聴いてやるから」
「やすさん、男前」
「兄さんほどじゃないけどね」
「はいはい」
やはり手をひらひらさせてめんどくさそうに受け答えされた。一丁前になりやがって。チェックシャツにジーンズ姿の桃太郎は過去の産物だったらしい。
「何飲む?」
「決まってるでしょ」
「そうだね」
にっこりと鮮やかに笑った。月の輝きのように。キールの色の深みのように。
「マスター、キールを二つ」
深みのある笑顔が一つまた追加される。
開封されていない瓶の中の色は穏やかでありながら情熱的に燃えていた。もう一つ瓶が置かれる。不透明でありながら、瓶の色たちを自分の色に取り込んでいる。こちらも開封されていない。長く伸びながらも優雅な曲線をたたえたグラスが二つ。カウンターの上に乗る。とくりとくりと注がれるその液体は妙に艶めかしくグラスの中に流れ込む。不透明なそれは先に入っていた液体と混じり合い、無数の渦を作り出す。細長いスプーンを中でゆっくり回すと、液体たちはお互いを侵食し合い、一体化する。二つのグラスが同じ色に染まる。
カウンターを滑るグラスに指をかける。僕と桃太郎はグラスを持ち上げる。目と目を合わせる。空気を吸う。
「くだらない恋に」
「くだらない最高の巡り合いに」
「乾杯」
満月の夜。暖かいバーの片隅で。キールには似合いすぎたその空間で。僕たちはこつりとグラスを傾けた。
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