第4話 ブルームーンの話

 カウンターを少し滑ってラモスジンフィズが桃太郎の目の前に出される。きめの細かい泡が白く波打つ。レモンの黄色が艶やかに揺れる。桃太郎の手が円筒のグラスを持つ。かたりと振られる手は迷っているように見えた。

 艶やかに揺れるレモンはますます傾斜をつけて揺れる。つと流れる細い筋が指にまで流れ、滴となってカウンターに付いた。冷たく濡らして部分的に体温を下げる。オレンジの照明が白い液体を染める。桃太郎はカウンターに付いた滴をなぞり始める。絵を描いているようにも見える。

 目をつぶる。首を傾げ、頭を傾け、首を振る。


「今じゃないっす」

「話したいときに話しとけよ」

「話したいけど、今じゃない気がします」

「そうか」


 白い液体が桃太郎の喉を鳴らす。徐々にかさを減らす。とろりとグラスを伝うそれはゆたりと筋を作っていた。うねって、曲がって、悶えているように見える。


「一言で言うと、難しいっすね、恋とか、酒とか、人生とか」


 ネクタイを緩め、前髪をかき上げる。手の血管が浮き出て、手の甲に影を作る。何だか男らしくなったなあと目を細めてしまう。


「難しいよな」


 柔らかな髪が指先に絡むと顔が綻ぶ。あれは何故なんだろう。温もりを感じるたびにかきむしられる想いに悶える。人生は難しい。いや、この持て余した感情が難しいのか。

 僕は僕の言葉に気づかされる。そうして僕も成長していくのだろう。男らしく、大人へと。


「やすさんも仕事順調なんでしょ? 昇進したそうじゃないですか」

「耳が早いな」

「IT企業? すごいなあ」

「僕が入った時はまだ新興の、だったけど、今は結構大手で頑張ってるね」


 他人事のように話す。もう入社して8年ほどになる。どうなることやらと思ったが、新しいソフトの開発もうまくいったようだし、上々である。給料も地位も上がって、わが懐状況はこれまでになく暖かい。


「出版社入ったんすよ」

「出版社? へえ」


 意外だ。確かに文芸サークルではあったから、そちらのコネがないわけではないが、桃太郎はあまり文芸活動に熱心ではなく、どちらかといえば飲み会に出てくる盛り上げ隊長であった。編集をやってたわけでもなかったと思うのだが。僕が卒業した後、何らかの役職に就いたのかもしれない。


「面接で、人生で一番印象に残った出来事は何ですか、っていう普通の質問をされて、勢い余って桃太郎に遭遇した話をしたら」

「しちゃったの」

「しちゃったら、合格したのが今の会社」

「懐深すぎね。僕だったらネジ外れすぎっつって落とすけどな」

「でしょ。もし僕が僕の面接官とか会社の社長とか人事部部長とかだったら即不採用っすよ。でもね、採用」


 くだらねえなあ、と二人で笑う。


「ブルームーン」

「え?」

「ブルームーンにはもう一つカクテル言葉があってな、奇跡って言うんだ」

「へえ、奇跡」


 立ち降りる沈黙。ピアノが奏でる不協和音とも協和音とも取れるメロディに身を任せる。

 後ろから男女の声が交互に聴こえる。息を潜めるように囁き合っていた。その言葉は愛に満ちているのか、ビジネスなのか。はたまた別れの言葉なのか。聴き耳を立てるつもりはないが、ジャズのそのリズムと微妙にずれているのが気になる。時間の空白に潜り込む声のメロディに揺れる。


「兄のラジオも結構リスナー増えてきててな」


 唐突に口から出た話題はやはり兄の話題だった。やはり僕にとって兄は重要な存在らしい。


「知ってます。ピアサポートの一環らしいっすね」


 桃太郎が手元のラモスジンフィズを少し舐める。白い液体が唇に覆いかぶさる。


「あれで収入得るだろ、その半分はピアサポートの団体の資金にしてる」

「なんて番組でしたっけ、ええっと」

「『カクテルに願いを』」

「お兄さんもカクテル好き?」

「僕の影響だね、完全に。それまでは麦酒派だったんだよ」

「へえ」


 カクテルに口をつけると、舌の周りが滑らかになったような気がした。アルコールは潤滑剤かもしれない。急に兄自慢をしたくなる。


「兄さんの声いいよ。落ち着く」

「それは生まれてからずっと聴いてるからでしょ」

「聴いてみてよ」

「聴いてますよ、車の中とかで偶に」

「ここにな、スマホがあってな、開くとな、ほれこの通り、ラジオが聴けるアプリがほれこのように」

「聴きますよ、聴きますよ、どれがおすすめなんすか」


 めんどくさそうに手をひらひらさせられた。心外だ。心外だが、今は兄のラジオを聴かせるのが先決だ。

「先週のよかったね。じゃあ先週ので」

 四角い水色のそれをタップし、録音したそれを起動させる。先週の日付をタップする。大きく再生ボタンが表示される。再生ボタンに指を乗せると聴き慣れた声がスマホから流れてきた。


「はい、みなさんこんばんは。『カクテルに願いを』の時間がやってまいりました、お相手は按摩が務めさせていただきます。宜しくお願い致します。なんだか冷え込んできたねえ。ついにこの前暖房が入りましたよ、このスタジオにも。なんか、んん、乾燥してるね。そろそろ冬だし。乾燥注意報が出てるみたいだからね、喉に潤いを、肌に潤いを、心に潤いを、そんなトークをお楽しみください。トークっつっても俺の独り言、みたいな感じですけどね。あ、もちろん、スタッフさんはいますよ。俺の目になってくれる助手のゆいちゃんとか、キューサインを出してくれる戸山さんとか。あ、身内ネタでしたね、わからないよね、ゆいちゃんとか戸山さんって言われてもね。近くにゆいちゃんとか戸山さんがいるリスナーのみなさん、もしかしたら俺の番組のスタッフかもしれないから聴いてみてね。じゃあ、与太話はこれくらいにして。はい、ええっと本日はリスナーの皆さんからお手紙がたくさん届いてるみたいですね。紹介するのはラジオネーム、なおすけさん。彼が私の名前を呼んでくれません。どうしたらいいでしょう」

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