第3話 メアリピックフォードの話

 僕には兄がいる。僕ができる唯一の自慢はこの兄の存在だ。


「お兄さん今お仕事されてるんですよね」

「ラジオのね」

「すげえなあ」


 兄には視力がない。不慮の事故、というか、不可解な事件に巻き込まれたといったほうが正しいのか。ある春の日、桜が舞い散っていた川の土手で兄は世界の光に別れを告げた。

 闇の世界に慣れるまでずいぶん時間がかかった。仕方ない。闇は恐ろしい。あんなに怯えた兄を見るのは初めてだった。ベッドから動かず、外に出るのも渋る。ようやく外に出たのは一年後くらいだったような気がする。徐々に慣らしていって遂には旅行まで行けるようになった。今では見事な社会復帰を遂げ、なかなか有名人になっている。

 早くに亡くした両親に代わって僕を育ててくれた兄に少しでも恩返しがしたくて必死にもがいていた日々を今は懐かしく思い出す。あの旅行がすべての始まりだったのかもしれない。あそこで出会った按摩さんはどこにいるのだろう。按摩さんが兄の肩を、兄の心をほぐしてくれた。兄は彼に敬意を表して、DJネームを按摩にしている。ラジオから聞こえる兄の声を聴いていればと思う。

 空のグラスを前に出す。中のライムが揺れる。


「マスター、メアリー・ピックフォード」

「そりゃ羨望の眼差しにもなりますね」


 スーツのポケットからマルボロを出す。桃太郎がどこからかマッチを出してくる。ちろちろと踊る火の姿は女人のように優雅で危険だった。タバコの端が女人によって燃える。赤く染まって、白を黒に焦がす。黒は灰色に変わる。ぽんぽんと軽く指を叩くと灰色の粉がぱらりぱらりと黒い器に落ちた。灰色が妙に白く見えて、雪のようだなとセンチメンタルになる。口から出る息が白く色づく。真っ直ぐに伸びて溶けていく。


「自慢の兄だよ」


 煙と一緒に溶けていく言葉はくねることすらなかった。色気も何もない。目にも見えない。だからこそ確かに感じる。

 差し出されたメアリー・ピックフォードは赤かった。羨望。羨望は時たま醜い感情を連れてくる。くだらないその感情は精神にひどい傷をつける。

 くだらない。くだらない。言い聞かせる。言い聞かせでもしないと、それに引っ張られてしまいそうで怖かった。喉を伝う赤は美しくて華やかだった。飲みやすい。


「お兄さんにそういう浮いた話は」

「ないって言ってるけどね、どうなんだろう」


 闇の中で兄が見ているものは一体何なのか、僕には見当もつかない。見えないことほど兄は敏感に感じ取っていた。僕自身の恋愛沙汰を見抜いたときは流石に度肝を抜かれた。完璧に隠していたはずなのだけれど。見抜かれたときに何故気付いたのか聞いたら、いつもの穏やかな微笑で「声の色がピンクになってた」と返してきた。確かあの時兄の恋愛話を振った気がするのだが、曖昧に笑って雰囲気を濁され、他の話に持っていかれた気がする。伊達にラジオの仕事をやってない。


「やすさんは」

「僕?」

「ないんすか」

「さあ」

「あ、ごまかした」


 こいつにばらしてたまるか。羨望は僕の腹に収まる。


「マスター、ブロック・アンド・フォール」

「うそつきだ」


 嘘をついて。ついて、どうしようというわけでもないけれど。手元のマルボロは順調にその背を縮めている。


「内緒―」

「けち」

「今は君とその彼女の問題でしょ」

「はあい」

「君が謝って済むなら謝りなさいよって話」

「うーん」

「結婚したいんでしょ」

「したいっすね」


 銀杏の木を思い出す。四季によって色づきを変える。六畳一間の部屋から見える景色はいつだって四季を主張していた。纏わりついてくる幼子があんまり暖かくて僕はいつも泣きそうになる。

 幸せになってほしい。幼子を抱くたびに僕は願う。壊れそうで、柔らかくて、怖くなる。そんな姿を笑ってみている彼女も壊れそうで、柔らかかった。大事に置かれているリュックを見るたびに、アパートの前に置いてある壊れて動かなくなったバイクを見るたびに、心がかき乱された。きっとそうして僕はあの部屋に行くのだろう。これまでも、これからも。

 灰皿にマルボロを押し付ける。惜しむように一筋煙が立つ。ブロック・アンド・フォールが目の前に出されて、そのまま喉に流し込む。熱く熱く喉を乾かし、唇をなめる。


「そんなにいい女なのか」


 口から出た言葉はとてつもなく軽かった。軽い質問に桃太郎は相貌を崩す。しまった。後悔先に立たず。面倒くさい奴だ。


「いやー、かわいい」

「そっか」

「かわいい」

「うん」

「かわいいの」

「はいはい」

「大事なことだから三回言いました」


 はいはい、と適当に流す。そういえば身内贔屓がひどい奴だった。このままこいつに流れを任せるともっとひどいのろけ話が出てきそうだ。僕のために僕は口を開く。


「じゃあ、その君の可愛い彼女に一つ頭を下げて一つハグすりゃオーケーでしょうよ」

「そうっすかねえ」

「きっとそうだよ。それでもだめなら考えるんだな」

「うーん」


 いつの間にか手中のブラッド・メアリーは無く、透明のグラスはカウンターの木目を鮮やかに写していた。


「マスター、ラモス・ジンフィズ」


 桃太郎らしい、感謝の表し方だ。シャイボーイめ。


「納得したか」

「今、あけみにものすごく会いたいっす」

「あけみ誰」

「僕のかわいい彼女」

「なんで僕に言うの」

「そこにいるから聞いちゃったんでしょ。やめてくださいよ。恥ずかしいなあ」


 あけみという名前に憶えがある。まさかな、と打ち消してカウンターの木目をなぞる。


「とばっちりもいいところだ。呼んでおいて彼女出来ました喧嘩しましたの報告かよ。くだらね。僕の時間を返して」

「なんすか、やすさんもやっぱりいるんでしょ」


 二人の酒の飲むペースが倍速になる。喋るペースもそれに比例する。


「うるせえなあ」

「酔ってます?」

「誰が?」

「やすさんが」

「酔ってるよ」

「何にですか」

「恋に酒に人生に酔ってる」

「恋してるんだ」


 ブロック・アンド・フォールは僕の隠し事をうまく隠せていないらしい。喉がごくりと鳴る。焦げる。喉が焦げる。咽そうになるけれど押しこめる。


「君は僕のコイバナが聴きたいの? それとも何か他に話したりないことがあるの?」

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